『土曜日は灰色の馬』恩田陸/引用三昧 1冊目

硝子越しに囁く4                                                                                                              携帯電話のカメラを不用意に突き出してパシャパシャ撮っている人たちに違和感を覚えるのは、自分だけはカメラを向ける側にいる、自分だけは安全圏にいるという根拠のない思い込みの傲慢-ごうまんさのせいなのだろう。 [23]

 

一人称の罠                                                                                                                         ここ十年くらいで、一人称の性質は大きく変わった。知りあいの編集者に聞いたところ、純文学系の新人賞の応募作品は、ほぼ九十九パーセント一人称だという。それも、実作者と一人称の「私」はほぼ一致し、そのことに抵抗がないようなのだ。世界が一人称になりつつあることは、日々感じている。特に、携帯電話が行き渡って、一人称をパブリックの場所に持ち込むことすら日常になった。世界は「私」になり、「私」をそのまま世界に一致させることに抵抗がなくなったし、世界の中にいる「私」を俯瞰するよりも「私」という檻の中から世界を見、「私が傷つき」「私が壊され」ることが最優先になったのである。しきりに「私って」と呟く彼らは、そのまま一人称の罠にどっぷり浸かっている。「私」を表現するには、冷徹な自己観察力を必要とすること、「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむには、何より三人称の視点を獲得する以外ないという、逆説めいた事実を受け入れるしかないのだということを。[45]

 

ブラッドベリは変わらない レイ・ブラッドベリ『塵よりよみがえり』                        私は、SFは青春小説だと思っている。大人になる過程で、自分と世界に向き合う季節に求めるもの。それがSFだ。中でも、ブラッドベリの作品は、青春小説であるSFの、青春たる象徴である気がする。[55]

 

我々の外側にいるもの 山田正紀『神狩り2 リッパー』              山田正紀は言う。この世で一番完璧な刑務所は、本人が収容されていることに気付かない刑務所であると。そして、まさに人間は脳という「現実を直視しないよう」編集された檻-おりの中で暮らしている存在であると。[94]

 

一九七〇年の衝撃 星新一『声の網』                                                                               情報化社会が進むにつれ、個人のプライバシーが徐々に重要な意味を持つようになってくることを、今の私たちは承知している。それが「情報」として、金銭的な価値を持つようになってことを、大量に売買される名簿や漏洩される顧客リストのニュースから実感する。また、大衆が他人のゴシップを「娯楽として」貪欲に消費するようになったことは、TVの番組表を見れば一目瞭然だ。星新一は、『声の網』で、こういった情報の本質を三十年以上前に予言しているのだ。 

なにしろ、読み進むにつれて、いろいろな現実の(しかも最近の)事件が頭を過-よぎってしかたがない。ニューヨークの大停電や、東証のコンピューターの誤入力で、たった一日で数百億円の損害を出した事件、テロ対策と称して世界中が監視カメラで埋めつくされていくさま、はびこる盗聴、フィッシング詐欺、などなど。

また、大停電が起きて子供が夜の焚き火を眺めるシーンが印象的な、「重要な仕事」では、コンピューターというものが本質的にデータの蓄積を求める、という鋭い指摘がある。管理社会は、管理それ自体が目的になってゆくのだ。  

この「データを集めるために事件を起こす」という発想が、最近私の書いた小説とだぶって、ぎくりとさせられた。やはり、今やっている仕事の大部分はみんなが過去にやっているのだなあと改めて痛感してしまった。 [99]

 

ケレンと様式美、スター三島に酔いしれたい。 三島由紀夫『春の雪』                    巷にはスピリチュアル系のものが溢れている。感動ストーリーや自己啓発のビジネス本には、かなりの確率でそういったものが含まれているのだ。タイトルに数字が含まれていると、更にその確率は高い。別に否定はしないし、そういったものを求める気持ちが分からないでもない。それで心の安定を得られるならば、それもよかろう。けれど、その手の本の安易で安っぽい芸のなさには憎悪を抱いている。こちとら、年中プロットに命を懸けているというのに、このスカスカなストーリー、似たような構成はどうにかならんものか。「魔法の言葉」や「幾つかの習慣」で簡単に魂のステージを上がれるくらいなら、誰も苦労はせんわい。せめて、『豊饒の海』くらいの芸がなきゃ。[129]

 

鹿鳴館-ろくめいかん』悲劇の時代 三島由紀夫鹿鳴館』                                       近年人気の韓流ドラマは、七〇年代の大映ドラマや少女漫画との類似が指摘されているが、それらも要は皆、メロドラマであった。その最大の特徴は、すれちがいと偶然。  つまりは「運命の悪戯」である。実は、これは、悲劇にもそっくりそのままあてはまるのだ。  

そして、我々は、七〇年代にメロドラマと喜劇を消費し尽くし、もはやそれらを信じられなくなってしまった。記憶喪失や取り換えっ子や血の因縁を、「ありえねー」の一言で片付け、起承転結とハッピーエンドを素直に鑑賞できない身体になってしまったのである。韓流ドラマの人気は、過去の無邪気な時代への憧憬なのかもしれない。

更に、ゲームの出現は、物語そのものを消費した。RPGを始め、サイコやメタフィクションまで消費した人々は、ついに物語まで信じなくなってしまった。「ハリー・ポッター」シリーズに代表される異世界ファンタジーの隆盛は、消費し尽くした物語に対する鎮魂歌に思える。  

そんな、全てが消費されてしまったあとの不毛の時代が今なのだ。これを悲劇の時代と呼ばずしてなんと呼ぼう。[131]

 

エスピオナージュからビルドゥングス・ロマンへ 佐藤優『自壊する幸福』      それにしても、TVに映し出される、この国の偉い人らしき人たちは、いつからかくも幼稚になったのであろう。「思慮深さやしたたかさ」とか、「先憂後楽-せんゆうこうらく」とか、「国家百年の計」などというものからは果てしなく遠く、むしろ幼児のような無邪気さすら感じるのは私の気のせいだろうか。[134]

 

このまでで、"原書"のはんぶん。

続きが読みたくなったor興味を持った人は、元本を入手されたし。

 

ではでは、またね。