『コンビニ兄弟5』町田その子/新潮文庫   ネタバレ御免のEXTRACTION -365-

テンダネス門司港こがね村店の"看板店長"志波三彦

謎に満ちた彼の過去が、ついに明かされる!

今のところ、本シリーズ中で最も読みごたえのある一冊

                    

プロローグ

「でも、ひとって、誰かを助けるっていう小さな役割をいくつも与えられて生まれてきるのかもしれないな。世界を変えたり奇跡を起こしたり、なんて大きなことはできなくても、小さな小さな手助けみたいなタスクを与えられてんの。そんでそれが成功したらポイントがつくわけ。みんな、それを貯-ためて生きてるのかもしれない」     [17]                                            

 第一話 一度だけのボーイミーツガール

「ぼくのお母さん、この間から切迫早産で入院してるんだ。来月赤ちゃんが生まれる予定。女の子らしくて、みんな大喜びしてる。でも……でもぼくは、全然嬉しくない」

光莉と赤じいは、目を合わせて頷いた。黙っていると、川瀬が続けてしゃべる。

「ぼく、何をやってもうまくないんだ。中岡みたいに勉強ができるわけじゃないし、運動も正直得意じゃない。背なんか、クラスで一番……女子より低い。

クラブ活動も、何でもてきぱきやれる中岡の助手って感じ。食べものの好き嫌いもいっぱいある。あと、服を脱ぎっぱなしにしたり学校からのプリントなくしたり、歯磨きするの忘れたりなんかして、いつもそれで家族に叱られてる。

でも最近、その𠮟り方っていうか、お母さんたちの言い方が少し変わった気がするんだ。お母さんは『いい加減にしっかりしないと!』って言うし、お父さんは『そんなんじゃいいお兄ちゃんになれないな』って顔を顰-しかめる。それがすっげえムカつく。ばあちゃんは何も言わないけど、庇-かばってくれないからきっとふたりと同じ気持ちなんだと思う。……おれはいつの間にか、生まれてくる妹のためのお兄ちゃんになっちゃったんだ。妹のためのぼくで、もう、蓮って名前のひとりの子ども……人間でいられないんだ

ぽつぽつと、しかし言葉を止められないようだった。だんだんと声が熱を帯びていく。

「家族だけじゃないよ。他のひともそう。『もうすぐお兄ちゃんだね』って何回も、刷り込むように言ってきてうんざりする。怒鳴りそうになる。おれがおれじゃなくなるんなら、きょうだいなんていらない。きょうだいがほしいなんて、頼んでねえしさ。なのにそれを言えば『もう十二歳なのに赤ちゃん返りか!』って困った顔されてさ。ぶちギレそうだよ。ひとを勝手にお兄ちゃんにしておいて、おれの気持ちは無視かよ!」

光莉は小さく息を吸った。『もうすぐお兄ちゃんだね、お姉ちゃんだね』と近所の子どもに安易に声掛けをしたことは何度もあった。おめでとうという純粋な気持からだったけれど、無神経な発言だったかもしれない。今後は気を付けよう……。      [57]                                                      

 「居場所って、本来は自分以外の……他人の中にあるんだよ。あなたの中にぼくという存在を置いてほしい、という願いが叶うか叶わないかで、ひとは幸福を覚えたり孤独を感じたりする。目に見えないから、ちゃんとあるのか不安にもなるし、何度もそのありかを確認したくなる」

頬を濡らしたままの川瀬が不思議そうに志波を見た。光莉と赤じいも、口を閉じて志波の言葉に耳を傾ける。

「そしてひとは慣れていく生き物なんだよね。だんだんと、『居場所』があること自体が当たり前になってくる。そのひとの心のどこにどんな風に自分がいてぐれくらい占めているのかって気になるようになってくる。仮に心を家だとすると、綺麗-きれいな景色を望める庭先にハンモックで寝ているのか。リビングのソファで寛-くつろいでいるのか。それともゲストルームで丁重にもてなされているのか。ぼくは昔、ぼくの家族みんなの中にあるだろうダイニングテーブルのお誕生日席にぼくがいないと嫌だった。みんなの特別でいたかったんだ。でも、八歳のときに弟が生まれて、お誕生日席からずるずる下ろされたと感じた。そういう時期があったんだ。弟が生まれるまで、ぼくが一番の末っ子だったからさ」

志波が恥ずかしそうに頬を搔-かいた。

「弟が可愛くなかったわけじゃない。むしろ、顔を見たらこんなに可愛い子がいるなんてと嬉しくなったものだよ。それでも、寂しさがずっと付きまとってた。失ったものがぽっかりと穴になっていて、ちっとも埋まらないのを茫然-ぼうぜんと眺めている気持ちだった。みんなは『三彦も可愛い』と言ってくれたけど、そういうときって『も』ってところに傷つくんだよね」          [62]

 

「人間誰しもが、大切なひとの一番の場所にいたいという気持ちが当たり前にあるんだ。しかも、これまで当たり前に与えられていた場所を突然追いやられるようなことになれば、焦るし戸惑うよ。期待に応えようともがいて、でもうまくいかないという焦燥だってそう。だから君は自分の葛藤を恥じなくてもいいし、否定もしなくていい。もし、どうしても受け入れられないと思えば、光莉さんの言うようにこれまで居場所を作ってくれていたひとたちと話すしかない。これからも自分の居場所があるのか。変わるというのなら、それはどんなところになのか。分かり合うために、ぼくたちには言葉があるわけだしね」

四人の横を、自動車が通り抜けて行った。車内でかけられているらしい賑-にぎやかな音楽があっという間に遠ざかってゆく。

「そこで納得できればいいけれど、穴は埋まらないかもしれない。居場所がなくなったと感じてできた穴っていうのは、結構厄介なんだ。ぼくは、自分自身で埋めるしかないと思う」

「それって結局、自分でどうにかするしかないってことだろ? どれだけ話しても自分の問題なら、話す意味なくない?」

川瀬が顔を歪-ゆがめ、志波は微笑む。

「ひとが自分の『居場所』を想像するときって、多くが『自分のイメージしている居場所』なんだよ。それは誰かの中にある実際の『居場所』じゃない」

「……イメージって、どういうこと?

「きっとこうだろうなあ、って良くも悪くも決めつけてるんだよ、自分で。

『居場所』がないと感じたとき、実は自分の中で起きている問題だったということがままある。ぼくはこの間、コンビニが居場所になればいいと言ったけど、お客さま……川瀬くんの方が『こんなの居場所にならない』と思ったから哀しいかなそれまでなんだ。でも君が『ぼくの居場所なんだ』と思ってくれれば、それが正しくなる。それと同じだよ          [64]

 

「今回のようなやり方はみんなに心配をかけてしまうけれど、歩いてどこかに行ってみることは間違ってないと思うよ。自分の足で辿-たどり着いたところに、必ず居場所はあるからね」

「自分の足で、ですか?」

「そう。これからも、居場所が分からなくなることがあったら歩いてごらん。童話『青い鳥』のチルチルとミチルのように。どこかできっと、君の求める青い鳥-いばしょがある。ただね、君の中に『居場所』があるひとたちのことも忘れないでほしい。自分たちでは君の助けにならなかったのかと思うのは、辛いから」    [68]                                                         

「彼女曰-いわく、ひとは自己と向き合うために歩く生き物だそうです。歩いて、自分の落ち着ける場所を探す生き物なんだって」

「それって、さっき川瀬くんに言っていた『自分の足で辿り着いたところに、必ず居場所はある』ってやつですか?」

光莉が訊くと「受け売りを偉そうに言ってしまったな」と志波が頭を搔く[77]

 

ひとしきり祈って顔をあげた。すると不思議と、それまでちっとも分からなかった『向き合う』ということがすとんと納得できた。自分の内面がふわりと浮き上がり、自分自身の背中を見つめるような感覚だった。ああ、ぼくはあまりにも自分勝手で、自分しか見えていなかった。愛されることばかりを求めて、愛することを忘れていた。ぼくはぼくを王様にしてくれと駄々をこねているだけの子どもだったんだ。誰も愛さないぼくを、誰が愛してくれるだろう。ぼくから、愛を贈らなければいけないのだ。

そう思った瞬間、家族が恋しくなった。同時に、とんでもないことをしたという焦りが噴き出す。

家族はみんな、やさしい。一番かわいい子どもなんていなくて、全員がかわいい子どもだ。なのにどうしてぼくは、ぼくだけもっともっと、と欲しがってしまったのだろう。連絡もせずいなくなって、きっとみんな心配してる。心配を通り越えて怒っているかもしれない。母はぼくがいなくなったと知ればどれだけ気を揉-もむだろう。つい数日前まで命の境目にいた母に、いらない心配をかけてしまった     [83]                                               

それぞれの車に乗り込もうとしたとき、堀之内が志波に花束をくれた。店先の花輪から花を抜いて作った花束だった。

「これ、母ちゃんに渡せ。喜ぶぜ。そう言われました」

どうして、と戸惑う志波に堀之内は『おめでとうとかありがとうとか、なかなか言えないもんだろ』と言った。

『花ってのは、そういうときに使うんだ。あと、ごめんなさい、にも使える』

『だってこれ、大事なお店を飾るお花でしょ』

『コンビニってのは、お客様がいま必要だと思うものを揃えてナンボなんだ。あったかいメシも、居場所も、ごめんなさいのきっかけだって置いている。ここにくればなんだってある。安心感を売る。それがオレの理想のコンビニだ!』

堀之内は両手を広げ、「最高だろ?」とにっかりと笑った         [92]

 

第二話 二度目もまた出会う

「全国展開を意識した活動は、いまはしなくていいです。テンダネスは九州に根付くコンビニですから、まずは九州の皆さんに愛されないと。というわけで、グッズは九州圏内でないと購入できないようにしましょう。大事なのは県ごとに特色を出すこと。そして店舗に足を運んでもらいたいから、オンライン販売はしないこと」   [101]                                                 

ツギはテンダネス門司港こがね村店から少し離れた関門海峡ミュージアムで車を停めた。巨大な船をイメージした建築で、五階建てになっている。門司港駅からでもすぐ分かる目立つ建物だが、舞人は初めて訪れた。

「ここで少し話をしよう」

ツギはよく知っているのか、迷わず四階まで移動した

ついたのは、大正レトロを思わせるシックな設-しつらえのラウンジだった。[139]

窓が大きく設けられ、関門海峡から対岸の下関まで見晴るかすことができるようだ   

 

ラストまで紹介したい想いをグッと抑えて

今回は残すところ85ページの、このあたりまでで

毎度のことながら、一番心に残るシーンは、もうちょい先にある

 

ではでは、またね。

 

                                                        

『葬送のフリーレン』①‐⑮ 山田鐘人/アベツカサ/少年サンデーコミックス  ネタバレ御免のEXTRACTION -364-

とりあえず、第1~10巻からピックアップしてみた       

 

Vol.

第2話 僧侶の嘘

今 死ぬのは 勿体ないと思いますよ。

……勿体ない…?

もう随分前になりますが、古くからの友人を亡くしましてね。

私とは違って ひたすらにまっすぐで、

困っている人を決して見捨てないような人間でした

私ではなく 彼が生き残っていれば、

多くのものを救えたはすです。

私は彼とは違うので 大人しく余生を過ごそうと思っていたのですが、

あるとき ふと気が付いてしまいまして。

私がこのまま死んだら、

彼から学んだ勇気や意志や友情や、

大切な思い出まで この世から無くなってしまうのではないかと。

あなたの中にも大切な思い出があるとすれば

死ぬのは勿体ないと思います。                           [61]

 

死者の蘇生も 不死の魔法も、書かれていなかったよ

そうですか。

知っていたの?

死への恐怖は計り知れないものです。

そんなものがあるならエーヴィヒ自身が使っていたでしょう。

じゃあ何故…

フェルンはどうなりましたか?

まだ粗いところはあるけど 一人前といっても遜色のないレベルだよ

もう足手まといではありませんね フリーレン。

ごめんハイター。それだけはできない。足手まといになるから。

…諮ったな、ハイター。

はっはっは…

解読の手間賃は机の引き出しに。今夜にはここを発ってください。

なんのつもり?

見ての通り私はもう長くはありません。

私はあの子に これ以上誰かを失うような経験をさせたくないのです。

フリーレン、フェルンを頼みましたよ。

また格好を付けるのか、ハイター。

フェルンはとっくに別れの準備はできている。

お前が死ぬまでにやるべきことは、

あの子にしっかりと別れを告げて、

なるべくたくさんの思い出を作ってやることだ。

フリーレン、あなたはやはり優しい子です。        [69]

 

ねえ、なんでフェルンを救ったの?

勇者ヒンメルならそうしました。

そうだね。                  [72]

 

第4話 魔法使いの隠し事

フェルン、ごめん。

何故謝るのですか?

私はフェルンのこと何もわからない

だから、どんな物が好きなのかわからなくて…

そういえば 今日は私の誕生日でしたね。

綺麗な髪飾り… ありがとうございます。とても嬉しいです。

本当に?

フリーレン様は どうしようもないほどにぶい方のようなので 

はっきりと伝えます。

あなたが私を知ろうとしてくれたことが、堪らなく嬉しいのです。

知ろうとしただけなのに?

フリーレン様は本当に 人の感情がわかっていませんね。       [123]

 

Vol.

11話 村の英雄

竜が村を襲ったら シュタルク様は戦うのですか?

死んだって嫌さ。

でもよ、この村の連中にとっては 俺は英雄なんだよ。

この村の英雄シュタルクなんだ。

俺が守らなきゃならないんだよ。

とは言ってみたが 実際は逃げ出しちまうかもな。

額の傷だって 魔物と戦いたくなくて、師匠と喧嘩したときにできたものだ。

殴られたのは あのときが初めてだったな。

俺に失望したんだろうさ。

結局 俺は 師匠に一度だって、褒められたことはなかった。

…なんだよ。

…… シュタルク様は逃げないと思います。

俺の何がわかる?

微塵もわかりませんが、怖かったことを思い出したのです。

怖かったこと?

魔物と初めて戦ったときです。

修行はそれまでに十分すぎるほど積んできました。

ですが恐怖で足が竦-すくみ、逃げ出してしまいました。

どこまでも追ってくる魔物。

何故か助けてくれないフリーレン。

うちの師匠もそんな感じだわ…

追い詰められ、覚悟を決め振り返ったとき、

体が動いたのです。

必要なものは覚悟だけだったのです。

必死に積み上げてきたものは決して裏切りません。

シュタルク様はどうしようもない臆病者ですが、

村を守りたいという覚悟だけは きっと本物だと思います。

……覚悟か…                [65]

 

よし、じゃあ一丁やるか。

手が震えています。

怖いものは怖いんだよ。

ふふっ。

笑うことはねぇだろ…

アイゼンと同じだ。

…師匠と?

アイゼン 手が震えてる。 怖いの?

ああ。

あっさり認めるんだね。

怖がることは悪いことではない。

この恐怖が俺をここまで連れてきたんだ。

震え方まで同じだ。

そうか…

師匠も、怖かったんだな…               [71]

 

 Vol.

第20話 師匠の技

立て。シュタルク。

どんなにボロボロになっても 倒れることだけは許さん。

…そんなこと言ったって、俺が師匠に勝てるわけねぇだろ…

当たり前だ。俺はお前より強い。

じゃあ…

だが、お前はまだ負けていない。立ち上ったからな。

なんだよ それ…

強い相手に勝つ秘訣を教えてやる。

簡単だ。何度でも立ち上がって 技を叩き込め。

戦士ってのは 最後まで立っていた奴が勝つんだ。             [49]

 

第22話 服従の天秤-てんびん

人の場合は、例えばこの国の連中は地位や財産で偉い奴が決まる。

あの宮殿から出てきた身なりのいのが偉い奴だ。

人の偉さはわかりづらい。

だからああやって着飾って 見た目でわかるようにするんだ。

魔族-まぞくは違うの?

魔族-やつらは自分達が魔物だった頃と何も変わっていない。

強い奴が偉いんだ。人よりずっとわかりやすい。

強さってのは 見ればわかる。

魔力だね。

奴らにとっての魔力は 人にとっての地位や財産だ。

尊厳そのものと言ってもいい。

隠密の手段として一時的に魔力を制限することはあっても、

常日頃から魔力を制限する馬鹿なんて存在しない。

どこぞの貴族が お忍びで城下町に降りてくるのと、

地位も財産も捨てて身を落とすのじゃ まったく違う話だろ。

そして、魔力の低い連中に尊厳が与えられるほど 魔力の世界は甘くない。

だから、力の強い魔族ほど必死に魔力を誇示するんだ。

奴らにとっては 常に魔力を制限するメリットなんて皆無だし、

そもそも そんな発想すらない。

哀れだよな。人が地位や財産に縛られるように、魔族は魔力に縛られている。

魔族-やつらは魔法を誇りに思い 誰よりも魔法が好きなのに、

己の魔力すら自由にできない。
フリーレン、魔族じゃなくて良かったな。

そうだね。おかげで魔族を欺-あざむける。

魔力の制限を始めてから3年か… 私の見込みは間違っていなかったな。 [78]

 

Vol.

47話 フェルンと焼き菓子

ヒンメルは なんで人助けをするの?

勇者だからさ。

そういうことじゃなくて。

そうだね。

もしかしたら 自分のためかもな。

誰かに少しでも自分のことを覚えていてもらいたいのかもしれない。

生きているということは 誰かに知ってもらって 覚えていてもらうことだ。

…覚えていてもらうためには どうすればいいんだろう?

ほんの少しでいい。誰かの人生を変えてあげればいい。

きっとそれだけで十分なんだ            [183]

 

Vol.

77話 竜の群れ

そういえばフリーレン様って、

人助けをするときは ほぼ毎回報酬を貰っていますよね。

ヒンメルがそうだったからね。

意外だな。

てっきり そういうのは受け取らずに人助けをする人だと思っていました。

そうだよね。私もそう思っていた。

なんでヒンメルって 人助けのとき

毎回といっていい程 報酬を貰っているの?

報酬を貰っておけば 貸し借りは無くなるだろう。

僕達は勇者一行なんだ。

僕達が求めているのは 誰かを助けることであって 感謝の言葉じゃない。

相手に貸しを作ってしまったら 本当の意味で助けたことにはならないだろう。

だからこんなくだらない魔法でも 報酬として貰っておくんだよ。

フリーレン…

後で本当に噛まないか実験しよっと。

結局 魔法が欲しいだけじゃないですか…          [184]

 

Vol.

82話 万物を黄金に変える魔法-ディーアゴルゼ

私達は人間だ。生きられる時間は限られている。

いつかなんてときは私達の人生には存在しない。

本当に愚かだ。

私もデンケンも そんな単純なことに歳を取るまで気が付かなかった。

私もね、デンケンへの恩返しをずっと後回しにしてきた。

いつでも出来る。

いつか彼が本当に困ったときに 手を差し伸べればいいとね。

もう 今生の別れなんて いつやってくるかもわからないのに。

私達にはもう 今しかないんだよ。

だから私は協力は惜しまないし、

黄金郷からこの地を救う名誉を デンケンに譲ってやることにした。

これは老いぼれの 最後の悪あがきだ。

遠い昔の面影を残したまま、黄金に変えられた故郷を見て

彼は何を思うんだろうね。

きっとデンケンは見せてくれるよ。

私なんかには到底出来ないような 力強く美しい最後の悪あがきを。   [92]

 

Vol.0

90話 グリュック

私は城塞都市ヴァイゼの領主でね。

とは言っても 実験などあってないような お飾りの領主だ。

城塞都市ヴァイゼは 帝都での政争に敗れた貴族が最後に行きつく場所だ。

そして 人の悪意に満ち 腐り切っている。

多くの貴族が都市の運営に係わっているが、

ここでも懲りずに権力闘争を続けている。

実権を握っているのは 私とは別の一族で都市の運営を蔑-ないがしろにし、

私利私欲に走り圧政を敷いている。

毎年多くの民が飢餓で死に、

汚職も蔓延し 最早-もはや法も意味を成さない。

私も領主として その現状を憂-うれいていたさ。

だが人というのは不思議なものでな。

実際に尻に火が付くまで動こうとしない。

憂いてはいたが ほとんど行動には移さなかった。

だが息子は違ったようでな。

正義感の強い奴だったんだ。

だからヴァイゼの有力貴族達に直訴した。

お飾りとはいえ 領主の息子の意見だ。

さぞ煩-わずらわしかっただろうめ

息子はバルコニーから飛び降りたそうだ。

年の離れた妹の誕生日プレゼントまで用意していたのに。

もう7年も前の話になる。

正直、何故こんな残酷なことができるのか 当時の私は疑問に思ったものだ。

だが実際にやってみて わかったよ。

配下に一言 “殺せ”と命じるだけでいい。

まったく笑わせる。こんなことは馬鹿でもできる。        [48]

 

どういうつもりだ グリュック?

この半年で 私の身内が5人も死んでいる。

賊に襲われたそうじゃないか。

何故か昔から、城塞都市ヴァイゼでは こういったことが珍しくない。

きっと誰かの恨みでも買ったのだろう。調べさせよう。

とぼけるつもりか?

私の息子が死んだとき、卿-けいはなんと言ったか覚えているかね?

“ただの被害妄想では?”

今の卿が正-まさにそれだ。

家に帰ってゆっくりと休むといい。

戸締りにだけは気を付けてな。                [56]

 

 

首を長くして続編を待っているコミックス・シリーズのひとつ

多少の時間はかかって構わないので

なんとか無事エンディングまでたどりついてほしい

何の助けにもならんだろうが、祈っている

 

ではでは、またね。

 

『須賀敦子全集 第2巻』須賀敦子/河出文庫   ネタバレ御免のEXTRACTION -363-

ヴェネツィアの宿 

ヴェネツィアの宿

目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、激情のまえのゆるい傾斜の石段や、反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱えこむようにして地面に腰をおろしていた。あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。激情に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、舞台の音が中継されているのだとはっかり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。それほどすべてが意表をついていて、ふしぎな幻の世界にひき込まれたようだった。

その夜、フェニーチェ劇場創立二〇〇年記念のガラ・コンサートがあることは、夕方、ホテルに来たときに見たポスターで知ってはいた。でも、それ以上は読まないで通りすぎたのだった。そういえば、晩餐のレストランに向かう途中で、ずいぶんきらきらしたドレスを着こんだ女たちが、タキシードの男たちにエスコートされて石橋を渡ってくるのに出くわした。ミラノやローマのオペラ劇場なら、有名人めあての見物人が群がる車寄せに運転手つきの自動車で優雅に乗りつける種類の人たちが、車がないこの街では、どんなに身分が高くても歩いて劇場に入らなければならない。その光景がめずらしく、どこか滑稽で、出会ったそのときは目をみはったのだったが、晩餐会の喧噪にまぎれて、すっかり忘れていた。あの空色の星のネオンの路地を出る瞬間まで、オペラも劇場の二〇〇年祭も私のあたまにはなかったし、たとえ覚えていたにしても、音楽会の中身が劇場前の広場にスピーカーで通行人にまで分配されるなど、考えてもみなかった。

デイバッグを背負ったままで、男の子の胸に頭をもたせて聴きほれている少女。暗い空に広がっていく音を目で追うかのように、顔をあげたままうずくまる金色の髪の青年。ひっそりと手をつないで、用意よく小さな金属製の折りたたみ椅子にこしかけている夫婦らしい白髪の男女。四、五人つらなっている女子学生ふうの一群。そのうえを光と音がゆっくりと流れていて、まるで、どこか遠いところの川底で夢を見ているようだった。      [16]

 

カラが咲く庭 

行くところのないときは、駅で時間をすごす。お金をはらわないで、大きな荷物をもったまま、人にあやしまれないで長い時間待つには、駅はうってつけの場所だった。絶えず、人通りがあるから、その意味では守られている。それに、これから行くマリ・ノエルさんの寮は駅からさして遠くないから、理想的だった。      [87]                                        

 ずっとまえだれかが教えてくれたのを思い出した。見知らぬイタリアの男に話しかけられたら、ぜったいに返事をするな。ノーだけでも、いけない。すこしでも相手に反応を見せたとたん、おまえとならつきあっていいという合図になるんだから。でも、もう遅い。男は、コーヒーだ、荷物を持たせろだと迫ってくる。おそまきながら、返事をしないことにしてみる。やはり効果はてきめんだった。男は、さんざん話しかけようとして、こちらが答えないものだから、あきらめて立って行った    [87]                                      

「娘の部屋が空いてるから、あんたよかったら、うちに下宿しない?」

出会って十分も経たないうちに、おばさんの話は途方もないとこまでエスカレートしてしまった。いや、これはもう、なにかよくない魂胆があるに相違ない。

南イタリア、とくに自分がそこで暮らしたことのあるローマやナポリの庶民は、いや、ひょっとしたら庶民だけでなく、だれでもが、ほんとうに自然に、こういった突飛なことを思いつくことがあるのを、そのころの私はまだよく知らなかった。まして、彼らの思いつきがほとんどいつも、「そのあとはどうするか」という、より面倒な部分をまったく勘定にいれていないことから、この種の話にうっかり乗ると、たいへん厄介な状況に巻きこまれることなど、考えてもいなかった    [90]                                                    

 修道女のマリ・ノエルが、フランスでは名の知れたアラブ学者の家に生まれたこと、ヴェトナムが独立するまで、南部の有名な保有地ダラットの修道院にいたことなどを、私は知った。

フランス人の個人主義を、彼女はきびしく批判することがあった。

「フランス人はつめたすぎる。私たちは生まれつきのジャンセニストなのよ。自分にきびしいあまり、他人まで孤立させてしまう」

「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います」

私の意思を超えて言葉が走った。

「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです」

こちらのけんまくにのまれて、マリ・ノエルはすこし茫然としている。開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園の子供たちの声がとびこんできた。  [97]

 

夜半のうた声

父が家を出たことで、しかも愛人と暮らそうとしていると知ってから、それまでの、のほほんとした学生生活の風景がまるで裏返しになった。一週間、講義に出なかっただけなのに、寄宿舎に帰ると外国に来たような気がして、ついこのあいだまで、どうやってラテン語の授業をさぼろうかとか、おねがいだから西洋史のノートを貸してとか、くだらないことを言いあって、仲がよかったり、喧嘩したりしていた友人たちが、ひどくのんびりしてみえて、自分とは別の人種に思えた。もっと本を読みたい、本みたいな生き方をしたいと、そればかり考えてきたのが、なにもかも泡のように消えてしまって、家族のことだけを考えなければならないという重圧に潰されそうだった。だれに話せばわかってもらえるのか、寄宿舎も授業も荒野になった      [116]

 

大聖堂まで

すぐそこ、といっていい距離に、白くかがやくパリの大聖堂ノートル・ダムが、まだ昼間の青が残った夜空を背に、溢れるような照明の光をあびて、ぽっかり宙に浮かんでいた。それも、セーヌ河沿いの花やかな南面を惜しげなくこちらに向けて。後陣にちかいトランセプト(袖廊)の突出部の中央に位置した薔薇窓の円のなかには、白い石の繊細な枠ぐみにふちどられた幾何もようの花びらが、凍てついた花火のように、暗黒のガラスの部分を抱いたまま、しずかにきらめいている。宇宙にむかって咲きほこる、神秘の白い薔薇。トランセプトとネツ(身廊)の屋根の稜線が十字に交差する点にしっかりと植え込まれたように、天を突いて屹立する、細身の、鋭い尖塔。精神の均衡と都会的な洗練の粋をきわめるパリの大聖堂が目の前にあった。

なんでもないふつうの窓と思いこんで、力まかせにあけたものだから、その分だけ驚きは大きかった。ついさっきまで暮れなずんでいた背景の空には、もう暗い夜がいっぱいにひろがって、光のなかの薔薇窓は神秘に酔いしれて、いちだんとまばゆくきらめいた。十六年目のノートル・ダムは、もったいないほど美しかった     [125]                                                

 パリの大聖堂がようやく自分にとって日常の風景になろうとしていた一年後の六月の半ば、それは水曜日で、フランスでは神さまの祝日-フエット・デュと呼ばれる教会の祭りの前日だったが、いつも賑わしいカルチエ・ラタンの道すじが、その日は、とくべつざわめいていた。高校生と大学生をまじえた三万人のパリの学生が、その夜、シャルトルに巡礼に出かけるので、だれもが準備に大わらわだったからだ。山にでも登るような服装の、すこし興奮した若者たちが、街角のあちこちで声高に話しあっていた。大学の講義は平常どおり行なわれていたのだが、出てみると、早々にひきあげた学生が多いのか、教室はがらんとしていた。夜、八時に大聖堂まえの広場で大司教のミサがあって、そのあとすぐに出発するはずだった   [129]

 

私たちの話題は、勉強のことをのぞくとほとんどいつもおなじで、女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのかということに行きついた。私たちは三人ともカトリックで、家族のつよい反対をおして大学に行き、大学院にまで進んだので、だれに対してかはっきりわからない負目を感じることがよくあった。ぐずぐずいってないではやく嫁に行け、それがいやなら修道院にはいればいい、と先輩に言われても、そんなんじゃないという気がした。自分で道をつくっていくのでなかったら、なんにもならない。そのころ読んだ、サン=テグジュペリの文章が私を揺りうごかした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」シャルトルへの道で、私は自分のカテドラルのことを考え、そして東京にいるふたりの友人はどうしているのだろうと想った     [135]

 

シャルトル周辺の地方はボースとも呼ばれて、片仮名でこう書いてしまうとなんでもないが、フランス語だとBeauceで、それがbeau(美しい)に音が通じるのと同時に、ceという音もなかなかさわやかなところから、いかにも美しい土地のようにきこえる。じじつ、このあたりを、しかも六月の朝、こうして歩いていると、どこまでもつづく麦畑のひろがりが、いかにも創造主に祝福されたという感じで、ゆたかさがふっくらとつたわってくる    [137]

 

「ねえ、見てごらん、あのひと」

モニックの視線をたどっていくと、聖者像にはさまれて、洗礼者のヨハネが長いひげを波のようになびかせ、口をすこしあけて、ほとほと弱ったという表情で、壁のくぼみに立っていた。せっかくここまで来たのに、と気落ちして口をきく気もしない私を元気づけるように、モニックは明るい声でつづけた。

「あんなに困った顔して。でも、あの顔が、いまの私たちには、なによりもぴったりよねえ」

ほんとうだった。キリストの先駆者といわれる洗礼者のヨハネは、成人するとひとり荒野に出かけていって、苦行しながらキリストが世に出るのを待ちわびたというが、キリストのようにはではでしく弟子に囲まれるのでもなく、これといった逸話もないまま、ヘロデ王の逆鱗にふれて処刑され、孤独な生涯を終える。考えようによってヨハネは、生きることの成果ではなくて、そのプロセスだけに熱を燃やした人間という気がしないでもない。        [143]

 

カティアが歩いた道                                               

そのころ、私はよくパリの街を歩いた。自分にとってまるで異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手にあちこちと歩いた。セーヌの河岸の古本屋で売っていた詩集の、黄色い表紙にヴェルレーヌやランボーの名を見ただけで、めずらしいものを目にしたように、息を吞んで立ち止まることがあった。また、肉屋のまえを通るとき、店の奥からただよってくる血の臭いには、なにごともきれいごとで被ってしまう日本では嗅いだことのない剥き出しのなまなましさがあったし、ある友人が住んでいたムフタール街の日曜の市場の雑踏で、デュヴィヴィエの映画の場面から抜け出したような白い法衣をつけた巨大な体格の修道僧が、はげしく手をふりまわしながら、チーズ屋のおやじとなにやら大声で言いあっているのに出くわし、議論で話をつける風習のない国から来た私は、ただ目をみはるだけだった。なにをそんなにいっしょうけんめい議論しているのか知りたくて、寄りそうようにして耳をかたむけると、ただ、その年の葡萄酒の出来ぐあいについての意見交換にすぎなかったりした。 [191]

 

ノートル・ダム大聖堂を起点として、セーヌの左岸に発し、ソルボンヌ大学の建物の横を抜けて南に向かう、サン・ジャック街という通りがある。その名が示すとおり、むかし、パリからスペインのサン・ジャック(サンティアゴ)・デ・コンポステラに参詣する巡礼たちが通った道だ。ミサがおこなわれるサン・ジャック修道院は、その道が郊外に出ようとするあたりにあった。

ふつうなら、私のいた寮に近いモベール・ミニチュアリテの駅から地下鉄を乗りついで、三十分もあれば行ける場所なのに、どういうことだったのか、私は寮から目的地までの道のりを歩いていくことにした。サン・ジャック街は、ヴァル・ド・グラス、あるいはコシャンなどという、まるで中世の避難所のように不吉な外観の広大な私立病院や、ドームに見覚えのある天文台などがならぶ暗い道で、いったん日が暮れたあとは極端に人通りがすくなくなった。迷ってはいないかと、私はなんども道の名を街灯の明かりでたしかめ、自分の足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、その修道院に向けて歩いた。八時に寮を出たにもかかわらず、予想をはるかに越えた遠さで、めざす修道院に着いたのは九時を過ぎていた   [195]

 

サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者アクィナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争をしたという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ [197]

 

旅のむこう 

豊後竹田。私も妹も、夢のなかで聴いた音楽のように、ぼんやりとこの地名を耳底にとどめて大きくなった。ひびきだけは、なつかしさに満ちているのに、だれも、母でさえ、その町に行ったことがないものだから、なんの映像もともなわない、正真正銘、まぼろしの故郷なのだった。       [204]

                  

アスフォデロの野をわたって

ベストゥムは紀元前にはポセイドニアと呼ばれ、海神にささげられたギリシアの植民地だった。そのあとローマの軍隊がここに駐屯して、現在の名になったのだが、ギリシアの遺跡はそのまま残った。私たちが出発したソレントからは、さらに海岸を一〇〇キロほど南の降りた海辺の町で、遺跡そのものは、ポンペイやエルコラーヌムのように都市そのものとしてのおもしろさよりは、いくつかの神殿をふくむ建築群がすばらしい。学者たちの話だと、古代ギリシアの建物としてはどこよりもよく保存されていて、とくにポセイドニオンと呼ばれる紀元前五世紀の神殿の美しさは、アテネのパルテノンに比べても、あの丘の上というドラマチックな立地条件を除けば、優るとも劣らない。もっとも、とロサリオがつけくわえ。きみの嫌いな死者の街-ネクロポリスもあるにはある。

第二次世界戦争のとき、このあたりに上陸したアメリカ軍が発見したもので、死者の街と呼ばれてはいるけれど、ここの場合は貴族の墓地らしい。それだって、見たくなければ行かなくていいじゃないか      [233]

 

ベストゥムの遺跡の夏枯れの野に、私はひとり立っていた。着いて車を降りると、なんとなくみながそれぞれの方向に散ってしまったのだった。ゆっくりと傾きはじめた太陽がふいに速度をはやめて森のむこうの海に沈む時間で、オレンジをしぼったような光が、ふたつの神殿のうち他を圧して一段と高くみえるポセイドンの神殿をすっぽりと包み、言葉を失って立ちつくす私も同じ柑橘類の色に染まっていた。ギリシアの神殿に接するのはこれが最初だったが、完全なものがいつもそうであるように、しばらくのあいだはその偉大な調和がかもしだす静謐が、ほとんど人間の手を経ることなくそこに存在していると思わせるほど巧妙な錯覚の網で私をすっぽりと包みこんだ[234]                 

オリエント・エクスプレス

一年暮らすうちに知人が増えてしまったローマとはちがって、人間関係のほとんどないロンドンにいると、内面の時分がのびのびとしているようで、それが淋しいときもあったけれど、大体としてはしずかな、満ち足りた時間をすごしていた。たえず自分というものを、周囲にむかってはっきりと定義し、それを表現しつつけなければならない大陸とは違って、暗黙の了解のなかで相手の領域を犯さない、他人を他人としてほうっておいてくれる英国人の生き方は気のやすまるものだった   [241]                                         

 

トリエステの坂道 

トリエステの坂道 

サバが愛したトリエステ。重なりあい、うねってつづく旧市街の黒いスレート屋根の上に、淡い色の空がひろがり、その向こうにアドリア海があった。そして、それらすべてを背に、大きな白い花束のようなカモメの群れが、まるく輪をえがきながら宙に舞っている。     [265]

 

ユーゴスラヴィア〔クロアチア〕の内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステは、先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。というのも、紀元前二千年すでに、バルチック海沿岸の琥珀をギリシアやエトルスクの諸都市に運ぶ、《琥珀の道》と呼ばれた商業路のひとつが、トリエステを通過していたといわれる。さらに中世以来、オーストリア領となり、地中海に面した帝国の軍港として栄え、十八世紀から十九・二十世紀にかけては商港として繁栄の頂点をきわめた。とはいっても、言語的にいうと、トリエステ人の多くは、ローマ時代このかた(この地方がヴェネツィア・ジュリアと呼ばれるのは、ジュリアス・シーザーの覇権がおよんだ土地を指すからだ)、イタリア語の方言を話し、ドイツ語を話しても、自分たちをイタリア民族と考えてきた。そのため、とくに支配層に属さない大多数のトリエステ人にとって、イタリア統一運動がさかんになった十九世紀末には、一日もはやくオーストリアの隷属から解放され、イタリアに帰属することが精神の支えになった。じっさいにイタリア語になったのは第一次世界大戦のあと、一九一九年のことで、解放運動では多くの犠牲者を出している。だが、皮肉なことに、トリエステのイタリア復帰論者が念願をはたしたのを境として、この年は経済的に行きづまり、ながい下降線をたどることになる。地中海にいくつものすぐれた港をもつイタリアの領土になってからは、港湾都市としてのトリエステの存在意義は根底から揺さぶられ、イタリア東端の都市という空虚な政治的意味だけしか持つことができないのだ。 [268]

                                                                 

丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。時代がかった喜劇役者みたいに靴の大きさばかりが目立つ長身の老人が戸口の階段に腰かけ、合わせた両手をひざの前につき出すようにした恰好で、ぼんやりと通行人を眺めている。車はほとんど通らない。軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖にかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし     [270]

 

カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット〔ヴェルムットのトリノ風カフェ〕。とてつもなく愛国的で、とてつもなく長ったらしい屋号のコーヒー店の看板に、一日中歩きとおした自分をねぎらう気持ちと、イタリアの統一運動の中心地だったトリノへの夢と郷愁をこめたその名に惹かれ、入り口のドアを押してはいって、私は目を瞠った。未知の都市とはいっても、たかがコーヒー店であれほどのとまどいを覚えたことはなかった。

間口の狭さに比して、中はひろびろとしていた。奥野一段高くなったところには、壁面のすべてが鏡で囲まれた広間があり、そこにいたる通路の部分には、帝政時代様式というのか、絹を張った座席の固い長椅子をかこむようにして、マホガニー色の光沢のある椅子と、白地にイチゴをあしらった模様のクロスを掛けた小さな丸テーブルがならんでいる。ヴェネツィアのガラスではなくバッカラ系のクリスタルのシャンデリアの下を、いずれも髪の銀色がめだつ、白い手袋をはめた給仕たちが、テーブルのあいだを優雅な身のこなしで縫って歩く。だが、なによりも私をうならせたのは店にあふれる顧客たちの容姿だった。名七十代と思えるカップル、あるいは何人かの老婦人が、ひとり、あるいはふたりの老紳士をかこんで、声をひそめて話し合っている。男たちの着ている背広の仕立てにも、女たちが身につけている毛皮も宝石も、彼らがみずからの手をよごして得たのではない、ひそやかな美しさが光を放っていた。

若者たちがこぞって参加したイタリア統一にちなむ少々大仰な屋号には似合わせない黄金とピンクの光景をまえにして、私は、自分が幾時代かまえのウィーンにいるのではないかと錯覚しそうになりながら、父がこれを見たら、どんなによろこぶだろうと思った        [279]

 

雨のなかを走る男たち

イタリアで暮らすようになって、ひとつ、びっくりしたことがあった。学生をふくめて、生活がぎりぎりという階級の男たちが傘をもってないのだ。

ロンドンのシティーの紳士たちが、ボウラー・ハットをかぶり、傘を腕にかけて歩くのがかつて彼らのステイタス・シンボルだったが、イタリアでもすくなくとも二十年ほどまえまで、傘は一種の贅沢品だったのではなかったか。だいいち、傘屋というのが街にない。どこで売っているのだろう。そんなわけで、にわか雨にあったとき、上着の前を手で閉めて走る人種と、そうでない人種にわかれる。きっとギリシアでもおなじことだろう      [309]

 

ガードの向こう側 

城壁を都市の限界と考えるヨーロッパの町にしばらく住んでいると、ペリフェリアという、日本語ではあいまいに都市の周辺部などと訳される隠然たる地域の存在に気づく。市街電車やバスの終点があったりして、そのむこうに、冬の日に紙くずが白く舞っているような、淋しい空き地がひろがっている。地主がいないわけでもないだろうに、畑があるでなく、荒れたまま放置されていて、移民とか難民とか流浪の民といった、他の人たちにおくれてその町に着いた人たちが、住民らしいものを借りることができるまでの数カ月、あるいは数年という時間、当座の雨露をしのぐために、違法は承知のうえでバラックを建てて住む、そんな土地だ。

ローマなどでも空港から市街にはいる道路に沿って、元来はどういう素性の土地なのか、どこか荒れた感じの丘陵地の斜面などにトタン葺きのバラックが群がるようにしてあちこちに集落をつくっているのが見える。住居なのだが、イタリア人はこれらの建物をぜったいに「家-カーサ」とは呼ばない。バラックはあくまでバラックにすぎなくて、いうなればスラム以下なのである。ルイージ氏のいる信号所から見える土地が、家のない人たちからそういう場所にえらばれたのだったが、ローマとちがって平地にある分だけ、のどかさがなくて、殺伐としていた。

市の所有地でもあったのか、そこは一種の無法地帯だったから、戦後、爆撃や紫外線で家を失った人たちが流れこむようにして住みついてしまったらしい。そして、立ちなおるにも、これといった資本のない人間たちが日銭をかせぐには、ふたつの商売がてっとりはやい。いうまでもないが、廃品回収と売春だ。

土手の向こうにひろがっていた土地が周囲の人たちに嫌がられ、ルイージ氏の好奇心を刺激したのは、そんなところからだった [339]

 

土手のうえの信号所から、お天気のいい日の夕暮には、二キロほど離れた大聖堂-ドゥオモのどっしりとした姿が、逆光のなかで黒くわだかまる影のように見える。尖塔のてっぺんの金無垢の小さなマドンナ像に、今日もゆっくりと沈んでいく太陽が反射して、きらきら光り、大きなオレンジ色の麦わら帽子を思わせる空のまるさが、こころを捉えた。冬の日だったら、ずっと遠くに、雪をいただいたモンテ・ローサの峰々が白く輝くのが一望できたかも知れない[347]

 

 

冒頭の『ヴェネツィアの宿』は、以前取り上げた気がするので

『トリエステの坂道』からたくさん紹介したかったが

このあたり(中間点+30ページ)が限界っぽい

一言ひとこと、緻密に吟味された名文たち

その欠片を、味わってほしい

 

ではでは、またね。

『須賀敦子全集 第1巻』須賀敦子/河出文庫   ネタバレ御免のEXTRACTION -362-

以前紹介したEXTRACTIONと重複する箇所があるかもしれないが

改めて「全集」を通し読みする過程で心に響いた文章を、ピックアップしてみた

"メメント・モリ"の淡い香り漂う名エッセイを

ナナメ読みでもいいから、味わってほしい

                 

ミラノ 霧の風景 

遠い霧の匂い  

ポレンタは北イタリア特有の料理で、南ではポレントーネというと、北イタリア人の蔑称である。トウモロコシの粉を火にかけたお湯にふるい入れて、すっかり底が焦げついてしまうまで、ただ捏ねに捏ねて作ったパンの一種で、肉料理を添えて、そのソースで食べる。  [14]

 

そんな霧の季節になると、飛行場もまったく無用の長物となってしまう。私たちの家から遠くないリナマーテの辺りの霧はとくにひどくて、春が来るまでは飛行場もただの野原同然になった。やあ、飛行機がミラノに降りられなくて、ひどい目に遭いましたよ、と日本からの客はよくこぼした。鉄道の長距離列車の発着もあてにならなくなる。[15]                    

 

チェデルナのミラノ、私のミラノ 

ポルディ・ベッツォーリ家は今日そのまま美術館になっていて、スカラ座に近いミラノの中心街にある。チェデルナによると、これは侯爵が一八七九年(明治十二年)に遺言によりミラノ市に寄付したもので、彼が生涯をかけて蒐めた美術品に加えて、爾来、市が年々コレクションをうけついで現在に至った。 [27]                  

 

真珠は人肌にふれないと徐々に死んでしまうというところから、美術館はついにこの貴重な首飾りを競売にかけ、あるアメリカ人がこれを買い(これはアメリカ人でなければ話にならない)その売上金で美術館はヴェネツィア派のカナレットやグワルディの風景画を購入したというのが、話の落ちである[28]

 

プロシュッティ先生のパスコリ

キリスト教の慣習では、祭日は前日の夕方からはじまることになっている。

二十数年まえまでは、大きな祝日の前日には断食をするのが掟だった。一番星が出たら断食日が終わるので、貧しかった子供のころ、星の出るのを待ちわびた、と話してくれたのは南伊アブルッツォの山村で育った友人だった。  [39]

 

「ナポリを見て死ね」  

数度の外国軍による占拠の経験からは、ナポリ人は政治を信用せず、いかなる政府にも協力しないのがならわしとなったという。彼らはたえず活気にあふれてはいるが、それは今日の、あるいは明日の希望に裏打ちされた活気ではけっしてなく、彼等の血のなかを連綿と流れる、なにか不思議な精気のようなものによるのに違いない。 [53]           

 

ナポリ、あるいは語源のギリシア語ではネアポリスという名の都市ができたのは、紀元前二〇〇年ころと考えられている。それまでにもすでに存在したギリシアの植民地だった町を「古い都市」パレアエポリスと呼び、それにたいしてネアポリス、すなわち「新しい都市」と名づけたのである。そのころ、現在のナポリの中心を東西に走る三本の道路、アンティカリア通り、裁判所通り(トリプナーレ街)とスパッカ・ナポリが、当時の都市計画によって、目抜き通りとして設計されたものという。  [53]                  

 

ナポリとナポリ人が好きだった夫が生きていたころ、そのスパッカ・ナポリが、どれほどナポリの庶民精神を典型的に映しだしているかという話を再三聞いたことがある。そんな話のひとつの主人公は、この通りに住んでいたおるオバサンで、彼女は毎朝、ガタガタになった古椅子を一脚、自分の家のまえの通りの中央に運びだして、それにドッカリと腰をおろす。当然、そこで私は、おしりもなにもすべて豊満で巨大な中年の女性を想像するのだが(もちろんそれはソフィア・ローレンでもいい)、スパッカ・ナポリは幅四メートルほどの、かなりせまい道なのである。オバサンがすわると、自動車はともかく、トラックは絶対に通れない。そこでオバサンは、私設通行税を徴収するというのだ。  [55]

 

それまでにもイタリアでいくつかの大都市、あるいは小都市で一定の期間を過ごし、それぞれについて自分なりの理解を持つなり、理解に到る方法も身につけたと自負していた私は、いまナポリに来て、深い挫折感のようなものにおそわれ、しばらくはすべての感覚が鈍ったように思い、反射神経が正常に働かない自分にいらだつのだった。たとえば道路を横断しようとするとき、自動車がまったく予期しない速度で、いつ、どの方向からこちらに向かって走ってくるかわからない、というのがナポリでは通常の状況なのである。それが競技場で相手がボールなら、まったく初歩的な設定なのだが、道路を横断することとサッカー・ゲームをまったく別のことと判断するような学校教育や市民教育に慣らされ、知らぬ間に硬直してしまったわが精神と肉体は、これに対応するすべを知らず、私はある種の屈辱感にさいなまれるのだった。  [56]

 

ナポリで暮らしはじめた私が感じていたのは、父の恍惚感よりも、板垣氏の困惑にずっと近いものだった。この都市には、秩序とか、勤勉とか、まがりなりにも現代世界に生きると自負する私たちが、毎日の社会生活において遵守しなくてはならないと自ら信じ、人にも守らせようと躍起になっているもろもろの社会道徳を真っ向から無視して、大声で笑いとばしているようなところがあるのだ。ひろびろとしたテラスからカプリ島とヴォロメの丘とサンタ・キアラの直線的なゴシック建築の側面が見える、いかにも現代的でしゃれた室内装飾の私のアパートメントも、住んでみると、たとえば設備の面では、家中さがしまわっても、ひとつとして満足に使える電気のコンセントがなかったし、どの水まわりも、ちょっとのことで水はけがわるくなった。毎夕、ゴミを持って、エレベーターなしの(一八世紀に建てられた、すなわち、ひどく天井が高い建物だから一階分の階段がおそろしく長い)五階から一階まで降り、また五階まで上ってくるのは、ひどく息のきれる仕事だった。 [57]

 

そのおなじおばさんが、またある日、図書館での仕事がようやく終わった午後三時すぎに、おそい昼食にとサラダ菜を買うために立ち寄った私に、「あら、お昼まだなの」とあきれたように言い、「そんなら、あたしたちと一緒に食べて行かない?」と誘ってくれた。「どうせろくなものはないけれど、ちょうどうちでもいま食べはじめるところだったのよ。ここにすわって食べてくださいよ」

おばさんが指さした店の一隅で、彼女の息子が木箱の上に食器をならべて、熟したトマトと卵の簡単な料理を黙々と口に運んでいた。知り合ってたったひと月ほどの、いわば見知らぬ外国人を、こんな粗末な食卓に招いてくれるおばさんの気持ちがうれしくて、辞退はしたが私は涙が出そうだった。すばらしいナポリのおみやげをもらったと思った。十年余を過ごした北の都会では一度も経験したことのない、それは暖かいもてなしだった。ミラノが現代的で、ナポリは前近代的だから、というような説明は安易にすぎて、真相を伝えてはくれない。[60]                                

 

遠くまで行かなくても、スパッカ・ナポリには、旅行者相手の古ぼけた金細工の店や得体のしれない古道具屋(それから、ほっぺたの落ちそうな野イチゴのタルトを作るスカトゥルキオという菓子屋)にまじって、多くの由緒あるモニュメントがあった。一四世紀に『デカメロン』を書いたボッカッチョが勤めていたという銀行(それは現在もれっきとした銀行で、私がナポリに着いた翌日だったかに、そこの屋根を破って族が侵入した記事が新聞を賑わしたが、後日、私は大学の給料をその銀行で支払ってもらうことになり、同僚の教授がいっしょに来てくれてほんとうに心づよかった)や、一八世紀の哲学者ジャン・バッティスタ・ヴィーゴが住んでいた家などが、指呼の距離にあった。また、歴史的にも地理的にも近いところでは、わが家の真向かいに今世紀イタリア最大の哲学者ベネデット・クローチェの邸(いまでは研究所になっているが、私のアパートの窓からは、いつも日向で昼寝をしている一匹の白い猫が見えた)があり、その隣は、板垣鷹穂氏がどうにか許容してくれた「ルスティカを寺のファサードに応用した風変わりな」スペイン風のジェズ・ヌオヴォ教会だった。

さらにその向かいが、内陣は「俗悪きわまる」きんきらきんのバロックでつまらないが、外壁は垂直線を強調した、イタリアにはめずらしい北方系ゴシックのサンタ・キアラ教会があった。わがテラスからすぐそこのところに横たわるその教会のフランス風ゴシックの瀟洒なたたずまいは、バロックの曲線が支配するナポリに疲れた目と心に、深いやすらぎをもたらしてくれた。 [61]

 

なんといっても私とナポリのかかわりを根本的に変えてくれたのは、やはりスパッカ・ナポリに面したサン・ドメニコ・マッジョーレ教会での不思議な出会いだった。

ある日曜日のこと、新聞を買いに出たついでに、私はキオスクのすぐうしろにあるその教会に入ってみた。板垣氏はこの教会をただ「無味乾燥な」という形式だけで処理している。事実、私がこの通りに住んで数週間後のその日まで足を踏み入れたことがなかったのも、ひとつにはその外観が、いかにも平凡というのか、無洋式というのか、まったくなんの興味もそそらぬものだったからである。まず、その建物に入ろうとして、私はとどまった。建物の大きさにくらべて、入口が異様に小さいのである。そのことが、ほとんど大学への通り道にあったにもかかわらず、その日まで中に入ったことがなかった理由ではないかとさえ思った。いかにも裏口、といった扉を押して入るとすぐに、曲がりくねった上り階段になっていて、いわゆる本堂は、三階ほどのところにあったと思う。ミサの時間はとうにすぎていて、堂内はがらんとしていた。これが、あの中世神学の巨人トマス・アクイナスが晩年の研究生活をおくった場所とはとても信じられぬほど、それはまったく無味乾燥のお手本のような空間だった。

それでも私は、なんらかの足跡をもとめて内陣を歩きまわった。そして見つけたのが、トマスとはなんの関係もない、ふたつの奇妙なモニュメントであった。

そのひとつは、うす暗い隅の祭壇の下にあるガラス張りの箱に横たえられた人間のかたちをした物体であった。ヨーロッパでは聖者といわれた人々の遺骸を祭壇の下に安置して、とくにその生前のかたちがミイラ化して残っている場合などには、これを一種の奇跡として、尊崇するならわしがある。この、現代人の感覚からするとおぞましいだけの風習は、ことに南イタリアでは、おそらくはなにかの土俗的習慣とまざって、今日でもある社会層では篤い信心の対象となっているらしい。サン・ドメニコ・マッジョーレ教会の片隅にあったその聖人の遺骸は、なにか白いものを身にまとっていて、子供のように小さかった。

なんとなく興味をそそられて読んだ大きな文字で書かれた説明文は、なんとも奇抜なものであった。

それによると、この聖者はローマ時代、まだキリスト教が迫害を受けていたころに殉教した少年で、遺骸は古代からのローマのどこだったか教会に安置され、様々な病気、とくに「胸のやまい」をなおしてくれるとかで、崇敬されていた。

それが、一七世紀だったかにナポリの貴族のなんとかいう人物が、なにか大手柄をたてて、驚いたことに褒美として教皇からこの遺骸をもらいうける。あげるほかもあげるほうだが、もらうほうももらうほうだ。さらに滑稽なのは、その貴族が死んだとき(相続税に困ったわけでもないだろうに)、遺族がこれを保存しきれないとして、この教会に寄付してしまったのである。それでめでたしかと思ったら、まだ先があった。一八八〇年代に、フランスのリヨンから来た巡礼団の一行が、監視人のすきをねらって、遺骸の肋骨を一本盗んで行ってしまったのだ。いまでもその骨は、リヨンのどこかの協会にある、と説明文にはあった。〈中略〉

この発見に気をよくした私は、さらに堂内を歩きまわり、もうひとつの風変りなモニュメントに出会った。それはやはり主祭壇とは反対の方角の床に嵌めこまれた、ラテン語と英語で書かれた墓碑銘だった。その中にニューヨークとかアイルランドとかの地名が刻まれていたのが、まず私の注意をひいた。さてこの碑銘によると、この場所に葬られているのは、なんとニューヨークの初代カトリック司教なのだった。その人がどうして、ナポリなどで埋葬されたのか。

年代をすっかり失念してしまったが、なんでもこの人はアイルランドの首都ダブリンに生まれ、ローマに来て神学を学んでいたところを、教皇からニューヨークに行くように指名され、司教の座についた。そして、ナポリの港からニューヨークに向かおうとして、この地で伝染病にかかり、落命したのであった。

これだけなら、無念だったろうとか、いろいろな感慨はあっても、話はまず通常の埒を出るものではない。私を驚かせたのは、司教に任命されてからナポリに来るまでが、三十年だったか、信じられないほどながい期間だったことである。それは私が、ああ、それではこの人は一生ローマにいて、ニューヨークに行かなければ行かなければと思いながら、月日どころかほとんど一生をおくったのだ、とそんな感慨をもってしまうほど、それは長い時間だった。   [62]

 

この町は、全体をうけいれるほかないのだ、そんな思いが私の考えを占めるようになった。部分に腹を立てていると、いつまでたっても、この町と友だちにはなれない。まず、全体をうけいれてから、ゆっくり見ていると、ある日思いがけない贈物をくれることがある。それは、同時に、思いがけなく足をすくわれる危険をつねに伴ってもいるのだが。  [66]

 

セルジョ・モランドの友人たち 

トラ猫、と日伊辞典にはあるけれど、トラというのは黄色っぽい縞でなければいけないのであって、灰がかつた地に黒っぽい縞の猫は、サバ猫と言うのだと、かつて猫好きの友人から私は教わったことがある。 [78]                             

 

さくらんぼと運河とブリアンツァ 

ミラノを頂点として、このコモとレッコを結ぶ線を底辺に逆三角形にひろがるこの地方はブリアンツァと呼ばれ、古くからのミラノ人が一種のあこがればかりか、ほとんど畏敬の念を抱いている土地である。それが、マンゾーニを生んだ土地であり、彼の小説ゆかりの地であることだけでなく、往時はミラノの貴族たちが、そして産業革命以後はコモの絹糸で産をなした実業家たちがこの地に競って領地を拓いたからでもある。ブリアンツァは、多くの庶民にとって、いつかは自分も主人顔で(召使い、あるいは小作としてではなく)住んでみたい土地であったのかもしれない。  [100] 

 

コモ湖でも北のほうに行くと、もうアルプス山系で、山のかたちも峯々が屹立していて、その景観に息をのむ。しかしブリアンツァは、ただ低い丘陵がどこまでもつづいているだけで、すこぶる変化に乏しく、観光案内にもほとんど出てなくて、百科辞典などでも、「現在、ミラノ北部の工業地帯として急速に発展中」くらいで片付けられている。この地方に散在する大小の町の多くは、今日、薬品工業で栄えていたり、家具工場があったりで、なんの変哲もない。この地方を車で行くと、高い石垣にかこまれた領地によく出会う。巨大な鉄の門から、並木道を透かして広壮な館が遠くに見えるだけで、石塀はかたくなに外部の目を拒んでいる。  [101]                        

 

しかしある年齢以上の人に聞くと、この赤茶けた風景もこの半世紀のことであり、以前このあたりはどこを向いても桑畑だったという。現在もコモは絹織物で名高いが、養蚕業はほとんど絶滅してしまった。桑は見捨てられ、その代わりの農作物が考えられる以前に、ブリアンツァは、コモ湖にごく近い山の別荘地をのぞいては、急速に工業地帯としてのアイデンティティーを持ちはじめた。 

いま、ミラノの中心部をとりかこむナヴィリオ運河はすべて覆われて、その上が道路になっている。直径がおそらくは二キロに満たない環状線でもあるこのナヴィリオの南端には、いまもダルセナ(ドック)と呼ばれる地点があって、その辺りから南へ行く運河が二本出ている。その運河は、ナヴィリオ・ティチネーゼとか、ナヴィリオ・パヴェーゼとか呼ばれていて、環状線の「ナヴィリオ」と区別されているが、その辺りに行くと、貧しかった古いミラノの雰囲気がいまも漂っている(『北ホテル』というフランス映画があったが、ちょっとあの辺の雰囲気によく似ている)。 [108]                   

 

『さくらんぼの季節』というなつかしいフランスの歌があるが、ヨーロッパ人にとって、さくらんぼは、それが一年でもっとも美しい季節に実ることもあって、ミラノの人たちは、毎年、これ八百屋の店頭に出るのを楽しみにしている。さくらんぼは四月ごろに、まず都心の高級ブティック街の、初物ばかりを扱う青物屋の店頭にならぶ。それを町っ子は、もうさくらんぼが出ていたと話題にして、心を躍らせて初夏の到来を待つ。               [109]  

    

マリア・ボットーニの長い旅  

八十歳に手のとどこうとしているマリアが、遠路はるばる私に会いに来てくれた。でもそれは、マリアにとっては突飛でもなんでもない、ごく日常の行為にすぎなかったのである。ふだん着でジェノアに迎えてくれたマリアは、レジスタンスもふだん着のままで闘い、そのまま日本にもふだん着でやって来た。それは、日本という「みせもの」を見にきたのではなくて、ふだん着の私という人間に会いに来てくれたのだ。それはそれで、一貫性のある行動で、いかにもマリアらしかった。時事、彼女は三日の旅で訪れた京都については、ほとんど何の印象も語ってくれなかった。 [128]

 

きらめく海のトリエステ 

トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹きあげてくるので、坂道には手すりがついていて、風の日は、吹きとばされないように、それにつかまって歩くのだという。  [132]

 

鉄道員の家 

寒い冬の朝、レールが凍ると、重い貨物列車は車輪がすべって、登り坂で立ち往生する。レールに砂が撒かれるのだが、それでも車輪は空回りして、列車は前に進めない。その冬はそんな日が何日かつづいた。夫の出張で、姑の家に泊っていることだけでもせつないのに、この音で目覚めてしまうと、なぜか心細さがどっと押しよせてきて、自分が宇宙のなかの小さな一点になってしまったような気持ちになる。 [145]                 

 

自分があわや騙されかかった相手には、はじめから気にくわない相手に対してよりも、腹が立つものだ。  [154]                  

 

舞台のうえのヴェネツィア 

もともと、トマス・マンの作品はこの『ヴェニスに死す』や、『トニオ・クレーゲル』くらいでずっとお茶を濁してきたのだったが、最近になって、これも夏休みに、やはりアニタ・ロォ訳『ブッデンブローク』を読んで、私はこのドイツの作家の偉大さに目を開かれる思いがした。

北ドイツ、リュベックの大商人の家族の物語が、おそらくはマン自身の(すなわち私には読めない原文の)、積み上げ積み上げしていくような硬質で重層的な文体が見事なイタリア語に移されていて、それまでは想像もしなかった、中世の大伽藍を目のあたりにするような作風に心を奪われ、ああ、これが書くということかと感動したのだった。そして、それらの特質、とくに原文の文体がひしひしと読む者に伝わってくるようなアニタ・ロォの訳も、私にとっては衝撃的だった。  [161]                          

 

友人は、生粋のヴェネツィアっ子だったが、つい最近まで中央アフリカのチャドだったかで奉仕活動をしたあと、いまはミラノの病院で看護婦をしている。

名はルチッラという若い娘さんだった。

髪も目も濡れたように黒い、それでいてボーンチャイナのように色白で頬の赤い小柄なひと(ヴェネツィアを知るようになって、あの均整のとれた小柄な体格は、あの辺でよく見かけるタイプだとわかった)だった[162]

 

もうひとつ、印象に残ったといえるのは、ヴェネツィアの人たちの話し声の抑揚だった。ときおり立ち止まって、美術館の開館時間をたずねたり、ものの値段を訊いたりするルチッラの澄んだ高いピッチの声が、石畳にこだまし、運河の水に跳ね返った。町のあちこちには、高低の激しい、それでいて標準語にくらべると、なにか心もとないほど軽やかさのある、この町の言葉を操って楽しそうに立ち話をしているおばさんたちがいた。私はそれを聞いて、夫が死ぬ前年ぐらいから毎日、朝と夕方の一定の時間にミラノの家の中庭にどこからかいっせいに集まって来たスズメの囀りを思い出すほどだった。      [164]

 

夜、とたしかルチッラは言っていた。町を歩いてると、人の靴音や話し声なんかが、角を曲がるまえから聞こえてくるのよ。ヴェネツィアでいちばん好きなのは、あれかも知れない。  [165]

 

訪れる度にヴェネツィアは、以前には感じとることのできなかった新しい魅力で私に迫り、それまでの理解がとるに足らぬほど浅かったことを教えてくれるのだった。それは、ある日ある時間にふいに現れて、訪問者をはっとさせる。

きらきらと水面に燦めく夕陽の光がたえず波に砕け散るように、それはいつも限られた時間の中に現れ、突然、見るものを襲うのだが、おなじ経験が反復されることはほとんどない。そんな美しさをヴェネツィアは、少しずつ露わにして見せてくれた。 [165]                        

 

観光客相手のレストランで味気ない食事をして、駅の案内所がやっと見つけてくれた三流ホテルの狭い部屋にかえると、あとはすることがなかった。ひとりで夜の町を歩く勇気はなかったし、持ってきた本も読みあきて、なんだこんなことかと、なかば落胆して早ばやと明かりを消した。案の定、すぐには寝つかれず、暗闇の中で横になっていると、家の中のいろいろな騒音が気になった。

水道の音、ドアを閉める音、廊下の人声。わざわざヴェネツィアに来て泊まったのに、騒音で寝られないなんて最低だと思いながら、私はいらいらしていた。だが、それもだんだんと静まり、いつのまにか私は眠ってしまった。どれくらい眠ったのだろう。ふと、物音で目がさめた。暗い中で、耳を澄ませたが、先刻までの騒音と違って、今度の物音はおよそ見当のつかない種類のものだった。

しかし、じっと聴いているうちに、それが窓の外から聞こえてくる水の音だとわかった。運河の水が岸に当たっている、そこまではよかったが、その水音は、もうひとつの、まったく自分には想像のつかない摩擦音を伴っていた。なんだろう、といろいろ考えたが、わからない。私はとうとう起きだして、音がどこらかくるのか確かめようと窓を開けた。その窓は小さな運河の終点のようなところに面していて、最初、部屋に案内されたときは、眺めもなにもないのにがっかりして、すぐに閉めてしまったのだった。いまもう一度開けて見ると、考えたとおり、運河の水が岸の煉瓦にチャポチャポと当たっていた。そしてすぐそばの暗い街灯に照らされて、小舟が一そう繋がれているのが見え、私はあの摩擦音が、舟の舳先が波の上下につれて岸辺の石にこすれる音であることを突きとめた。それはスタンダールやアッシェンバッハの劇的なヴェネツィアとはほど遠い、そしてあの汗と喧騒に満ちた昼間のヴェネツィアには似ても似つかない、ひそやかでなつかしい音だった。何時ごろまで、その音がつづいたのだろうか。私はその音を聴きながら、なにかほっとしてまた眠りに落ちたのだった。 [167]                              

 

年月とともに、私は、ヴェネツィアという島=町が、それまで私が訪れたヨーロッパの他のどの都市とも基本的に異質であると思うようになっていた。そして、その原因のひとつとして私が確信するようになったのが、この都市自体に組み込まれた演劇性だったのである。ヴェネツィアという島全体が、たえず興行中のひとつの大きな演劇空間に他ならないのだ。一六世紀に生きたコルナーロはヴェネツィアに大劇場を設置することを夢みたが、近代に到って外に向かって成長することをしなくなったヴェネツィアは、自分自身を劇場化し、虚構化してしまったのではないだろうか。サン・マルコ寺院のきらびやかなモザイク、夕陽にかがやく潟の漣、橋のたもとで囀るように喋る女たち、リアルト橋のうえで澱んだ水を眺める若い男女たち、これらはみな世界劇場の舞台装置なのではないか。ヴェネツィアを訪れる観光客は、サンタ・ルチアの終着駅に着いたとたんに、この芝居に組み込まれてしまう。自分たちは見物しているつもりでも、実は彼らはヴェネツィアの見られているのかもしれない。かつて、私がヴェネツィアのほんとうの顔をもとめたのは、誤りだった。仮面こそ、この町にふさわしい、ほんとうの顔なのだ。    [170]

 

ある年の十二月、もう年の暮も近いころにある会合があって、ヴェネツィアを訪れた。観光客のいない季節のヴェネツィアははじめてだった。参加者は朝八時半には会場に着くように指示されていた。八時すぎ、ホテルを出たところで、私は不思議な光景に出くわした。それはとりわけ底冷えのする朝で、凍りつくような空気の中に濃い霧がしっとりと立ちこめ、つい目のまえの家具店のショーウィンドウが、霧の中で見え隠れしていた。だが、私を驚かせたのは霧ではなかった。                          

ホテルと隣の建物のあいだには、人と人がやっと擦れ違うことのできるくらいの狭い路地があって、それを通りぬけると、大運河の水上バスの船着場に出るはずだった。その路地に入ろうとしたとき、向こうからだれか人が出てきた。

一人、また一人、それは、出勤途上の男女らしく、みな、せわしげにホテルの前の広場を過ぎていった。私を驚かせたのは、その一群の中の女たちが、一様に口を閉ざして、死線を石畳に落として、足早に歩いていたことだ。夏の日に耳をくすぐったあの甲高い笑いさざめきは、もう、どこにもなかった。そして、その服装。大半が、黒、あるいは濃い緑色の裾の長いマントを着て、膝までのブーツを履いていた。私は数年まえのルチッラの服装を思い出した。あのとき、少々芝居がかっていると思った彼女の服装は、ヴェネツィアの女たちが、このつめたい冬の気候から身を守るために考え出した武装だったのだ。芝居の季節はとっくに過ぎていたが、彼女たちは、登場人物であることを忘れず、しゃんと背筋をのばして、ひとりひとりが、それぞれ振り当てられた舞台の場所をめざすかのように、黙々と足早に歩き去っていった。それは、なぜか心を打たれる光景だった。冬のヴェネツィアの女たちに魅せられて、私は立ちつくした [173] 

 

アントニオの大聖堂  

朝霧の中に立ちはだかっていたルッカの大聖堂が忘れられなくて、私は日本に住むようになってからも、もう一度、あの町を訪れたいと思いつづけたが、なかなか機会はめぐってこなかった。そんなある日、タヴィアーニ兄弟というイタリアの監督が作った『グッドモーニング・バビロン!』という映画を見た。一九三〇年の恐慌の時代にピサの大聖堂を修復した職人の一家が、そのために倒産し、父親がかわいがって、もっとも将来を楽しみにしていた末の二人の男の子が、アメリカに渡って、さまざまな苦労を重ねた末に、ハリウッドの舞台装置で成功をおさめるが、第二次世界大戦で、二人とも戦死してしまうという話だったが、作品のライト・モティーフにピサの大聖堂、キエサ・ディ・ミラコリ(奇跡の教会)のファサードの映像が何度も出てくる。この教会はガリレオ・ガリレイの振子理論ゆかりの建造物として有名だが、ピサ・ロマネスクと呼ばれる、特徴のある様式の完成美でも知られている。映画では、カリフォルニアに流れついた兄弟が、困難に遭遇するたびに、このファサードと、その建築の作業にいそしむ先祖のイメージが(ちょうどガリレイのころの服装で)、彼らの目前に現れる。「ぼくらの先祖はピサやルッカの大聖堂を建てた人間たちだぞ」と、あるせっぱつまった場面で、二人を理解しようとしないアメリカ人に向かって彼らは叫ぶ。映画の冒頭の部分に映るの、が大きな白い花を想わせるピサの大聖堂のファサードで、最後に戦場で死んでいく二人の脳裏をよこぎるのも、当然のことながら、おなじファサードのイメージだった。                           [185]

 

セルキオ川の沿岸に発達したルッカは、古くから農産物の集散地として栄えたが、現在はごく平穏な一地方都市である。それでも、いくつかのモニュメントはあって、私たちはそれをひとつひとつ訪ねてまわった。ピアッツァ・デル・メルカート(市の立つ広場)と呼ばれる、古代ローマ競技場跡は、今世紀はじめまでローマのコロッセオがそうだったように、観覧席にあたる部分が現在もまだ住宅として使われ、ごくあたりまえのことのように、中に人が住んでいるのがおもしろかった。ローマ時代の遺跡といえば、この町が古来の城壁にかこまれていることも、中世かルネッサンスがまず目につくトスカでは、めずらしく思えた。しかし、もっとも意外だったのは、名は思い出せないが、ルッカ銀座といった感じの目抜き通りが、アール・ヌーヴォーのデザインであふれていることだった。立ち寄ったコーヒー店は、真鍮や大理石をふんだんに使った一九二〇年代の装飾がそのまま残っていて、私たちの目を楽しませた。そういえば、第一次大戦後にルッカが非常に景気のよかった時代がある、とフィレンツェ生まれの友人も、これは期待してなかったとめずらしがった。  [186]

 

二十年まえ、日本に帰ってきたとき、いろいろな方から、イタリアについて書いてみてはと勧められた。自分でも、書きたいとは思ったが、自分にしか書けないものをどのように書けばよいのかわからなくて、時間が過ぎた。それが、ある日、チェデルナの本を読んでいて、ふと、書けそうな気がして、そのことを友人の鈴木敏恵さんに話したときから、この文章は書きはじめられた。

本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、翻訳という世にも愉悦にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。そして、なによりも、尊敬する友人たちの支持とはげましがあったから、私はこれらのページを埋めることができた。〈中略〉

いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる[489]

 

コルシア書店の仲間たち 

入口そばの椅子 

ふつう握手をするとき、手のひらをたてにして差し出すものだけれど、手にキスを受けることになれている上流の婦人たちは、手にひらを下にして、ふわっとこちらの手にゆだねてくる。

ツィア・テレーサの握手も、そのてのものだった。 [195]

 

ゲルマンの血をひくといわれる、ミラノを中心とするロンバルディアの人々は、イタリア人に多いシニカルなものの見方がもっとも欠落した人種である。それが東京とおなじく、近代産業の発展の原動力となったことはいうまでもない[199]

          

銀の夜 

それにしても、ダヴィデはよく人と衝突した。「ガラス屋に踏みこんだ象みたいだ」と、彼のことを友人のガブリエーレがよくいった。「そっと歩くことをあいつは知らない」巨躯、といえる体格で、こころもち膝をまげ、まるで突進する消防車みたいに、風をきって歩く。黒い修道衣を旗のようになびかせ、すねたこどものように、口をとがらせて。「あいつは経験によって賢くなるということがない」とこれもガブリエーレがいっていた。 [230]

 

街 私のミラノには、まず、書店があって、それから街があった。その街の中心は、まぎれもなく、あの地上に置きわすれられた白いユリの花束をおもわせる、華麗な大聖堂だった。ふつう、上へ上へとのびていくゴシックの垂直線が、どういうものかこの建築には欠落していて、ある友人は、「立っているのにくたびれて、すわりこんでしまったゴシック」とこの大聖堂を形容して私を笑わせた。きらびやかではあるが、パリやシャルトルの大聖堂にみられる精神性からは、ほど遠い、饒舌なゴシック。 [238]                 

 

中世の設計者たちの意図によるものなのか、偶然の産物なのか、ゴシックの大聖堂を、とくに側面から眺めたときに、私は巨大な木造船を想像することがある。それをはじめて明確に感じたのは、イタリアとユーゴスラヴィアの国境に近い、アクイレイアというさびれた古都のバジリカを訪ねたときだった。ビザンツのころに栄えたというこのアドリア海に面した町の聖堂、はすくなくとも私がそこを訪れた三十年まえには、教会としては使われてなくて、美術館のような観覧するのだった。内部のモザイクのひなびた美しさもさることながら、外に出て、まばらな松林のなかに建ったこの教会を側面から眺めたとき、私はおもわず、あ、船だ、と思った。それは、建物というよりは、帆を上げさえすれば、空中にぽっかり浮かんで、どこかわからない、私たちには計りしれない寄港地をめざして、飛びたっていきそうな船に似ていた。ローマ時代にバルチック沿岸につづく「琥珀の道」の重要な拠点だった港町アクイレイアの人たちが、十一世紀になって、自分たちにふさわしい教会を建てることになったとき、巨大な船をあたまに思い描いたことは、容易に想像できるのではないか[242]

 

大聖堂が街の中心であることは、ミラノも変わりないのだけれど、この都市を他のどの都市ともちがうものにしたのは、これとほぼ同じ時期に掘られた運河である。ミラノ人にとって、城壁よりも大切なこの運河は、いわゆる城壁のずっと内側に、半径が狭いところで五〇〇メートルほどの不規則な円を描いて掘られた。もともと、大聖堂の建設につかう石材を運搬するために掘ったといわれるが、幅二〇メートルもないぐらいのこの運河は、ミラノの南西でアルプスから流れてくるティチーノ川につながっていて、本来、重要な交通機関である。

と同時に、セーヌのあるパリ、テヴェレのあるローマのような自然の流れをもたないミラノ人たちにとっては、なくてはならない風物詩をそえる要素でもあった。そして、運河によって閉じられた、まるで都心の空間が、ミラノという都会の中核をつくりあげて、街の繁栄をもたらした。惜しんでも惜しみたりないのは、戦後の復興の途上、性急な都市整備案によって、この運河が、ほとんど跡をのこさずに埋められてしまったことである。   [244]

 

大聖堂の左側の庶民的で形而下的な賑わいに対して、右側の街のたたずまいは、まったく対照的である。まず、大聖堂前の広大な広場そのものが、十九世紀の統一前には存在しなかったのだが、その右手にそびえるのが、ミラノの人たちが、単純に「ガレリア」と呼ぶ、ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレ二世という、巨大なアーケードだ。最近はニューヨークやボストンにも支店を出しているリッツォーリ書店や、楽譜やオペラの台本で有名なリコルディ、現在は往年の華やぎをすこし失ったレストラン、サヴィーニやビッフィなどが、このアーケードには軒をつらねている。しかし、ふつうのミラノ人にとって、ここは買物の場所というよりは、格好の散歩道といったほうが似合う。仕事のあと、家に帰るまえに、友人たちと、あるいは、職場のちがう連れあいどうしが待ちあわせて、食前酒をいっぱい空けながら、一日をふりかえる。あるいは、近所に住んでいる人が、犬の散歩にかこつけて、ショウ・ウィンドウを眺め眺め、ぐるっとひとめぐりする。貪欲な視線の、騒々しい観光客にまじって、そんな人たちがゆっくり歩いている。

しかし、ほんとうの「右側」がはじまるのは、ガレリアを出たことろからである。ガレリアの北の出口に立つと、広場をへだてて向かい側に、スカラ座がある。はじめてミラノに来た人は、たいてい、このスカラ座の前面を見て、これといった特徴のないのにがっかりし、戦争でやられたのですか、などと訊く(内部は、じっさいに、こっぱみじんにやられた)。パリのオペラ座にくらべると、ほんとうに貧弱ですねえ、などと日本人もいう。たしかに、華麗という言葉がぴったりな内部のしつらえにくらべて、この外面は、不釣合いなほど質素にみえる。理由はもちろん、設計者の責任だろうけれど、私はひとつだけ、スカラ座のために言いわけをしたい。というのは、十八世紀にこれが設計されたころ、周囲の建物が、だいたい、この建物に釣合いのとれた高さだったのだ。周囲が仰々しくなったからといって、スカラ座のように、オペラの歴史と栄光がぎっしりつまった劇場を、おいそれと建てかえるわけにはいかない。  [248]

 

 

直上の「」を落とすことができず

今夜もまた、少しばかり後半にはみ出してしまった

それでも、「よく我慢したな」と己を褒めたい

 

ではでは、またね。

 

 

 

6月初旬の桃岩遊歩道(レブンキンバイソウ) 悠々自適?の格安シニア旅-礼文島花巡り、ふたたび- 2026.5.31-6.4 3日目② 桃岩遊歩道(元地灯台👣キンバイの谷👣桃岩展望台)

2026年6月2(火) 

民宿はまなす👣桃岩遊歩道(知床~元地灯台~キンバイの谷~桃岩展望台)

たぶんレブンキンバイソウ 一年前同じルートを歩いたときには会えなかった

 

刻々と視界を塞いでゆく霧の中、元地灯台を出発

本コースのハイライトと呼べそうなキンバイの谷へ北上してゆく

灯台から先は左右が見渡せる尾根道風のルートが続くのだが

たちこめる霧のため、周囲数十メートルより外は白一色の世界が広がるばかり

それでも時折吹いてくる強風に、一瞬白いカーテンが崩れ

遥か下方の青い海が見えたりして、ここが高山ではなく礼文島だと教えてくれた

同時に、灯台から北東に向かう道に入ってからは植生が換わるのか

その日初めて目にする、様々な花に出会いはじめた

 

少し前を歩いていた相方が、道の途中でしゃがみこんでいた

どうやら、写真に残しておきたい花を見つけたらしい

立ち去った跡を見ると、遊歩道のど真ん中にパステルカラーの小さな花々が

房のひとつひとつが微妙に異なる色合いを帯びており

人の手で作られたアクセサリーみたいだった

その後も、次々と"初対面"らしき花々が登場

昨年訪れた7月上旬とは、咲いている花がずいぶん違うことを実感する

礼文島を何度も訪れるリピーターが多いのは

こんな風に短期間で次々と"旬の花"が交替するため、と言えるのかもしれない

キンバイの谷から東に分岐する展望台へと続く木道の周辺には

呼び名の通り「レブンキンバイ」らしき、黄色い花がポツリポツリと顔を出していた

やや時期が早かったのか、どれもがツボミか咲き始めといった若い花々だった

さらに先へと進むうち、見えない巨人が息を吹きかけかのように

ミルク色の霧が、ふっと掻き消えたと思ったら・・

突然、はるか海岸線まで視界が広がり

ガイドブックに載っていた「桃岩荘」の赤い屋根までが、くっきりと見えた

気まぐれな海風が刻々と創り出してゆく、緑と白の絶景の中

ほとんど誰にも出会わぬまま、花巡りの旅は後半へと入ってゆく

・・そう、7&8月のハイシーズンとは異なり

6月初旬の桃岩遊歩道は、行き交う人が意外なほど少なく

広大な絶景を独り占めした気分で、自在に歩き回ることができたのだ

おかげで、あっこの花カワイイ! と思えば

他の人を気遣う必要もなく、心ゆくまでベストな一枚を追求することができた

続々と現れるグループ客に頭を下げつつ

追い立てられる気分で撮影に臨んでいた去年とは、まるで違うのだった

おかげで、撮った写真の数も去年の数倍に達してしまったけどね・・

至近距離で咲いていたレブンキンバイソウ、順番待ちの人は誰もいなかった

10枚ばかり撮っただろうか・・おそらくこれがベストショット

ふと顔を上げると、はるかかなたに見える人影はひとつだけ

空模様はイマイチながら、気分は最高だった

その後も、ちょっと元気のなさげなクロユリをはじめ

ぼってりと膨らんだ白い花(名前は確定できず)だったり

2度目だけど、美しいのでしつこく撮ってしまった花(これも不明)とか

花だけに留まらず、赤く色づいた葉っぱまで

気に入ったページに栞を挟み込むように

デジカメのコレクションを増やしていった

久しぶりに尾根を渡る霧(雲?)が切れ、左右に緑の世界が拡がった

左側の斜面を見下ろすと、岸壁のすぐ沖に小さな岩が立っていた

ひょっとして、これが噂?の「猫岩」か!?

よく見ると、確かに岩の天辺が猫の耳っぽくツンツンしている

1年前は厚い霧の向こうに隠れていた「猫岩」に、ようやくご対面!なのだった

少しづつ桃岩展望台が近づき、遊歩道の旅もあとわずか

クライマックスを盛り上げようとしているのか

足もとの草むらを彩る花々は、よりいっそう鮮やかさを増してゆく

元地灯台の周辺で咲いていたレブンハナシノブにも再会

絶妙な色彩に、またもベストの一枚を探したくなった

チシマリンドウ!?・・にしては、いささか時期尚早か

こんなに鮮やかな花なのに、容易には名前が分からぬもどかしさ

そのうちわかる時が来るだろう--と、ひとまず一枚確保なのだ

終点・桃岩展望台の少し手前で、またもや霧が晴れてきた

東側の斜面が緑に染まり、初めて香深港あたりまで視界が広がる

続いて、右(西)側の斜面を覆う白いカーテンがふわりと持ち上がり

突然、目の前に巨大な岩の塊が立ち現れる―――初めて目にする「桃岩」だった

しかも少しずつ見える範囲が上に拡がっていくようだ

ひょっとして、と期待しつつ待つこと十数分

 

岩の頂上まで霧が晴れ、ついに「桃岩」の全貌が顕わになる

その後、終点の桃岩展望台で"ツーショット撮影"にも成功

2年連続で決行した礼文島の旅も、これでひと段落という気分だった

 

 

ではでは、またね。

 

『僕には鳥の言葉がわかる』鈴木 俊貴/小学館   ネタバレ御免のEXTRACTION -361-

これぞまさに、"コロンブスの卵"

新しい学問の誕生に、心からの称賛を贈りたい

----Excellent!!!!

             

はじめに

主な研究対象はシジュウカラ。日本全国、街から山までどこにでもいる身近な鳥だが、鳴き声のレパートリーは驚くほどに豊富である。「どうしてこんなにいろんな声を出すのだろう?」という素朴な疑問から始まった研究は、ワクワクするような新発見の連続で、気がつけば十八年以上の月日が過ぎていた。

そして、僕は突き止めた。シジュウカラの鳴き声の一つひとつには意味があり、かれらはそれらの鳴き声を組み合わせて文を作ることまでできるのだ。

古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけだと決めつけられてきた。そして、今日の人間と自然の乖離-かいりが生まれた。

しかし、シジュウカラたちは、それが間違いであることを教えてくれた。人間には人間の言葉があるように、鳥には鳥の言葉がある。人間の言葉は動物の言葉の一つにすぎないのだ。現代人のほとんどは正しく自然を見る目を失ってしまったが、鳥たちは他の種類の動物の言葉まできちんと理解し、生きている。

僕は信じている。鳥たちの言葉の世界を知ることで、僕たちの毎日はもっと豊かで色鮮やかなものになるはずだ     [11]

 

鳥たちの世界へ

バードウォッチングには、生き物を飼育するのとまったく違う魅力があった。

虫や魚をケースに入れて観察するのは、自然の一部を切り出して自分の手元に置くことだ。そこには天敵もいなければ、食べ物もこちらで準備する。一方、野鳥の観察とは、かれらが自然界を生き抜く姿をありのままに見ることなのだ。

食べ物を探し、仲間と集まり、子育てをして、時には敵に立ち向かう。野鳥を観察していると、あたかも自分が小鳥になって、かれらの世界へと入っていくよな、そんな不思議な感覚があった。――動物たちの世界を知るとは、まさにこういうことなのかもしれないと、大事な気づきを得た気がしていた    [15]

 

軽井沢は国内有数の探鳥地。年間を通じて百種類を超える野鳥が観察でき、日本で最も初めに制定された国設“野鳥の森”もある。フィールドガイドをめくると、この季節はシジュウカラやアカゲラなどの留鳥-りゅうちょう(季節による移動をしない鳥)だけでなく、ウソやイスカ、ヒレンジャクやキレンジャク、オオマシコなどの冬鳥も見ることができるとある   [18]

 

三十メートルほど前方から、「ディーディーディー……」と甘えたような声が聞こえてきた。コガラである。激しく、繰り返し鳴いている。「なんだろう?」と疑問に思っていると、シジュウカラやヤマガラたちがコガラの方へと急いで飛んでいくのが目に入った。僕も「ディーディー」の方へと急いだ       [20]

 

歩いている時とは違って、足の裏から体温が奪われる。足踏みしながら一時間くらい待っただろうか。ようやく群れが近くまでやってきて、その中の一羽の鳥がヒマワリの種を発見した。

そして、「ヂヂヂヂ……」と鳴き出した。シジュウカラである。

すると、今度はコガラやヤマガラが集まってきて、ヒマワリを発見した。他の鳥たちが餌場に来ると、シジュウカラは鳴くのをやめ、ヒマワリの種を一粒取って、枝の上でつつき始めた。シジュウカラの「ヂヂヂヂ……」も、仲間を呼ぶために鳴いているように見える。    [22]

 

すぐに気づいたのは、カラ類の鳴き声のバリエーションが驚くほどに多いことだ。特に、シジュウカラのレパートリーは群を抜いて多そうだ。「ヂヂヂヂ」「ヒヒヒ」「ツピー」「ヒッヒッ」「チッチッ」など、実に多種多様   [24]

 

小鳥が餌場で鳴く理由

僕が初めて研究したのは、小鳥が餌場で鳴く声だった。                 

シジュウカラなら「ヂヂヂヂ」、コガラなら「ディーディー」。誰かがまいたヒマワリの種やピーナッツ、たくさん実った木の実など、まとまった餌を見つけるのと、激しく繰り返し鳴くのである。「餌場に仲間を呼ぶために鳴いているのではな?」と、見当はつけていたものの、本当のところはどうなのだろうか [26]

 

――約二か月もの間、僕はこの実験を繰り返した。すると、いくつかのパターンがみえてきた。

まずいえるのは、餌を見つけた時に出す声は、それぞれの鳥の種類で決まっているということだ。以前から観察していた通り、コガラは「ディーディー」と鳴くし、シジュウカラは「ヂヂヂヂ」と鳴く。その声が森に響くと、他の鳥たちが次々と集まってきて、みなでヒマワリの種をついばみ始める。さらに実験を繰り返すと、ヤマガラにも同じような声があることに気がついた。ヤマガラの場合は「ニーニー」と鳴き、群れを餌場に導く。

さらに興味深いことにも気がついた。鳴き声を出すのは、多くの場合、一羽で餌を発見した時なのだ。すでに餌場に他の鳥が集まっている時や、偶然他の鳥たちと同時に餌場に来た時には、こうした声はほとんど出さない。つまり、鳥たちは、まだ群れの仲間がヒマワリの種の存在に気づいていない時にだけ鳴くようなのだ。そして、他の鳥が餌皿の近くまで集まると、鳴くのをやめて、ようやくヒマワリの種をつつき始める。

やはり、仲間を集めるための鳴き声なのだろう……。         [30]

 

こうした実験を通して、コガラの「ディーディー」、シジュウカラの「ヂヂヂヂ」、ヤマガラの「ニーニー」は、すべて「集まれ」という意味になっていることが、やっとわかった。

当時、シジュウカラの「ヂヂヂヂ」を“警戒の声”として紹介している図鑑もあったが、その意味を科学的に確かめた研究は一つもなかった。それが今回、きちんと観察し、実験をしてみることで、本当は「集まれ」という意味だとわかったのだ    [33]                                                   

どうしてカラ類は、せっかく見つけた餌を独り占めせず、親切にも仲間たちに教えてやるのだろうか?

ヒントはヒマワリの種を食べる鳥たちの“頭の動き”にあった。小鳥たちは種をつつく時、かなり頻繁に空を見上げる。種をツンツンし、頭を上げて、またツンツンしたらすぐに空を確認するといった具合だ。実はこの動き、タカなどの天敵を警戒しているのだと考えられている。木々が葉を落とす秋から冬は、天敵の猛禽類から見つかりやすい。常に空を見張らないと、いつ襲われるかわからないのだ   [34]                                                

ヒロシ先生の思い出

ヒロシ先生は、何十年も“鳥島”という無人島に通い続け、アホウドリを絶滅の危機から救ったすごい人。毎年数か月、無人島でアホウドリの保全活動をしているので、大学にいない期間も長かった。     [50]

 

ある日、こんな話をした。

「ジョン・クレブス(John Krebs)は天才だ。鳥に何をしたらどう動くかわかった上で実験している。ああいう人になれたら強い」

ほろ酔いになりながらも真剣にそういった話を振ってくれるので、僕は毎日興奮していた。クレブス博士といえば、僕の中では有名人で、ヨーロッパシジュウカラを研究していた鳥類学者である。ヨーロッパシジュウカラのさえずりのレパートリーが多ければ多いほど、縄張りを維持する効果が高いことを実験的に示した論文は、科学誌の最高峰であるネイチャー誌に掲載されている。 [53]

 

また別の日は、こんなことも話してくれた。

「たまに逆の発想をしてみることも大切だ。みんなが当たり前だと思っていることも、間違っている場合がある」

ヒロシ先生から聞くととても説得力のある言葉であった。       [54]

 

もっとも印象に残っているのは「ヒロシ先生はどうしてそんなに一生懸命にアホウドリを守れるんですか?」という素朴な問いへの返答だ。

「だって、かわいそうじゃない」

ヒロシ先生はサラッとそう答えたが、僕は思わず目頭が熱くなった。その一言に、先生のすべての想いが凝縮されていたからだ。普段は非常に論理的だが、研究の動機は鳥に対する愛なのだ。そうでなくては毎年一人で無人島に通えまい。   [55]                                                            

巣箱をかけた話

シジュウカラは主に木にできた空洞(樹洞)に巣を作って繁殖する。自分自身で穴を掘ることはできないが、幹の一部が朽ちてできた樹洞や昔キツツキ類が空けた巣穴を利用し、その中にコケを敷き詰めて巣を作るのだ。とはいえ、いい大きさのきれいな樹洞は限られていて、いつも鳥たちによる争奪戦。森にたくさん巣箱をかければ、きっと喜んで使ってくれるに違いない。それに、巣箱であれば中を観察するのも簡単だ。小型カメラを仕掛けることもできるだろう。シジュウカラにとっても僕にとってもよいことずくめなのである。

そうは言っても現実はそんなに甘くない。僕の前には一つの大きな問題が立ちはだかっていた。お金がないのだ。巣箱を作るにしても、その木材や工具を買わなくてはならないし、森に巣箱を仕掛けるには国有林の使用料を納める必要がある。軽井沢までの往復代や現地での宿泊費も(山荘は安いにしても)バカにならない。

とにかくお金が必要だ。僕は資金集めから始めることにした。大学生なので獲得できる助成金などはなく、バイトでコツコツ貯めるしかない。      [58]

  

脱線するが、昆虫の中にはよくわからないモドキもいる。ナナフシモドキだ。

ナナフシモドキはいるのに、なんと、ナナフシという昆虫は存在しない。あの枝そっくりに擬態していて、みんながナナフシと呼んでいる昆虫は、実はナナフシモドキなのである。モドキはいるのにナナフシはいない。これぞナナフシの七不思議の一つといったところだろう          [61]

 

シジュウカラは雑食性。草木の種子や果実だけでなく、昆虫やクモ類もよく食べる。繁殖期に大切になるのは昆虫類。なかでもチョウやガの幼虫は栄養満点で、ヒナを育てる餌になる。ある本によると、シジュウカラの親鳥が一回の繁殖でヒナたちに与える幼虫の数はおよそ五千匹。ものすごい数だ    [62]

 

都会の住宅事情

シジュウカラはもともと森だけに住んでいた野鳥である。それが、一九七〇年頃から急速に都市に進出し、今では街中でも普通に見られる野鳥となった。

シジュウカラが街に進出できたのは、巣作りに使える穴の空いた人工物がたくさんあったからかもしれない       [69]

 

繁殖の観察

標高約千メートルの軽井沢は五月といえども肌寒く、桜もようやく咲き始めたばかりであった。

そんな春先の森の中、鳥たちは盛んに歌っていた。「ホーホケキョ」と響くウグイスのさえずりに、「ヒーコーキー」と聞こえるイカルのさえずり。カラマツのてっぺんからは「チュピンチュピンチュピン」とヒガラの元気な歌声が聞こえてくる。鳥たちの美しいさえずりは縄張り宣言。餌場やメスをライバルから守るために、オスたちは高らかに鳴くのである       [74]

 

六つ目の巣箱を開けようとした時、事件は起きた。巣箱の蓋に手をかけると、中から「シャー!!」と音が聞こえてきたのだ!

「わっ! ヘビ!?」と、僕はとっさに手を離した。今の音はホビの威嚇音に違いない。しかも、怒っている時に出す音だ。僕はよくヘビを捕まえるので、しょっちゅうこの音を向けられていた。

「いやいや、でもなぜ巣箱にヘビがいるのだろう?」

びっくりしている場合じゃない。確認しなくてはならない。飛びつかれないように気をつけながら、もう一度巣箱の蓋に手をかける。すると、また「シャー!!」と音がする。慎重に蓋を開け、鏡で中の様子を映してみると、驚くことにそこにいたのは一羽のシジュウカラだった。

尾羽を広げて、体を左右に揺らしながら「シャー!!」と鳴いているではないか。よく見るとシジュウカラの腹の下には卵があった。「そうか、そういうことか、シジュウカラ!!」とそこで僕は気がついた

シジュウカラの親鳥が卵を温める間、野生動物に卵を狙われることも多いだろう。そういう危険を感じた時に、「シャー!!」とヘビの威嚇音を真似ることで、体の大きな捕食者を驚かせて撃退しているに違いない。僕もまんまと騙-だまされたのだ!  [76]                                                      

巣作りはメスの役割。一週間ほどかけてせっせと巣材を運び入れるが、その仕上がりは個体によってだいぶ違う。まず、初めにコケを敷くのはどのメスも同じだか、その厚さは五センチほどのものから二十センチほどのものまでさまざまだ。そして、卵を産む場所にふかふかのクッションを作るのだが、その材料はカモシカの毛、イヌの毛、ふわふわのウールなど個体によって大きく違う。

巣が完成するといよいよ産卵。一回の繁殖で産むのはだいたい六~十三個。

平均すると八個程度だ。産卵の時期、メスは巣箱の中で寝て、朝が来ると卵を一個、産み落とすようである。

卵を産んでもすぐに温めるわけではない。温め始めるのは、基本的にすべての卵を産み終えてから。ちなみにシジュウカラの場合、卵を抱くのもメスの役割だ    [79]                                                         

カメラを付けてしばらくすると、親鳥が戻ってきた。餌をくわえている。そして、すぐに巣箱に入った。すかさずモニターを確認すると、驚きの発見があった。

巣箱に入った親鳥は、ヒナに向かって「ゲゲッ」と聞こえるユニークな声を出したのだ。すると、ヒナは天に向かって大きな口をパカッと開けた。完全に、親鳥の声に対して反射的に開けている。

なるほど、これならばまだ目が開いていないヒナにも、餌を与えることができる。「ゲゲッ」という声に対するヒナの反応は、おそらく生きるための本能。

やはり巣箱の中を見ないとわからないこともたくさんありそうだ    [80]

 

シジュウカラのオスとメス

オス ①ほっぺの下の黒いラインが太い ②胸のネクタイ模様が太い

メス ①ほっぺの下の黒いラインが細い ②胸のネクタイ模様が細い

オスは頭がテカテカしている

慣れてくると頭のテカリ具合でもオス・メスの区別ができるようになるよ![86]

 

修士課程の秋と冬                             [88]

シジュウカラやコガラ、ヤマガラなどは、まとまった餌を見つけると、特徴的な鳴き声を繰り返し、同種や多種の鳥たちを呼び集める。群れをなして餌を食べれば、仲間同士で警戒行動を分担できるし、タカなどの捕食者にいち早く気づくこともできるからだ                                          

より詳細に調べていくと、餌を見つけた時に鳴き声を出す動物は他にもいることがわかった。たとえば、ワタリガラス。シカなど大型動物の死骸を見つけると“わめき声”を上げるらしい。そして、この声は仲間のカラスを死骸のもとへと引き寄せるようである。セキショクヤケイやイエスズメ、アカゲザルも餌を見つけた時に声を出すことが報告されていた。もしかすると、他の多くの動物でも似た行動が進化しているのかもしない    [90]

 

巣箱荒らしの犯人 

僕は激怒した。ある日を境に、森にかけたシジュウカラの巣箱が、次々と荒らされ始めたのだ。巣箱の入り口が大きく広げられていたり、親鳥がせっせと集めた巣材が外に放り出されていたり、卵が突如消えたりと、状況はさまざまだ。前の年までは順調だったシジュウカラの繁殖も、その年は失敗だらけ。二十つがいが巣箱で繁殖してくれたのだが、十個以上の巣箱に荒らされた形跡が残っていた。

このままでは、シジュウカラたちがかわいそうだ。この犯罪をなんとしてでも阻止しなくてはならない。これは研究者としての使命である!      [96]

 

CASE1 広げられた入り口

翌日、仕掛けたカメラを確認すると、見事、犯人の姿をとらえていた。

撮影時刻は深夜二時。すらりとして細長い体に黒い顔。犯人はイタチの仲間、ホンドテンだった。短い手足に似合わず、軽やかな動作で巣箱に飛び乗り、屋根の上からのぞき込むような体勢で、入り口に前脚を突っ込んでいた。どうにかして卵を引っ張り出そうと必死である。しばらく試行錯誤していたが、卵までは手が届かなかったようで、最後にはあきらめて去っていった。〈略〉

森にはたくさんのテンがいるので、どのテンがやったのか区別しようがない。

そこで、荒らされないよう対策を練ることにした。

まず、屋根の軒を長く延ばした。屋根の上から巣の入り口に手が届きにくくなるよう工夫したのだ。また、巣箱の入り口広げられないよう、金属プレートを打ち付けた。他にもいくつかの策を講じ、テンによる被害を食い止めることに成功した。これにて一件落着だ         [98]

 

CASE2 消えた卵の行方

まず、トカゲやヤモリはありえない。小鳥の卵を食べるには口が小さすぎるし、すべての卵を食べるほど胃袋も大きくない。考えられるのはヘビである。

ヘビについて詳しく調べる。本州に棲むヘビは八種類。そのうち、木を登れるのは二種類に限定できた。アオダイショウとシマヘビである。この辺りで見かけるのは、アオダイショウがほとんど。犯人はアオダイショウの線が濃厚だ。

数日後、たまたまその証拠をみつけることができた。森で捕まえたアオダイショウが、小鳥の卵を吐き出したのだ。殻の模様や薄さからして、シジュウカラのものに間違いない。さすが僕。推理は見事に的中したのである      [101]

 

CASE3 バラバラ解体事件

二つの事件を解決し、森は再び平穏を取り戻した。しかし、それもつかの間、新たな事件が発生。なんと今度は、巣箱がバラバラに壊されていたのである。

木の幹から引き剝がされて、巣箱を支えていた頑丈なシュロ縄も切れていた。

落ちた巣箱はもはやただの木材と化していて、巣材も無残に散らばっている。

〈略〉次の瞬間、協力者のメガネが鋭く光った。そして、木の幹を指差してこう言った。「これ、クマの仕業じゃない?」

「え?」と思ってよく見てみると、そこにはなんと鋭い爪跡が残っていたのである!

犯人は未知の怪人ではなくて、ツキノワグマだったのだ   [102]

 

大発見! ヒナの力

ちょうどお昼を過ぎた頃、その瞬間はやってきた。観察のため三十六番の巣箱に向かうと、聞きなれない声が聞こえてきたのだ。

「ジャージャージャー……」

レコーダーをオンにして巣箱の方へと近づくと、思った通り、声の主はシジュウカラであった。翼を広げ、何だかあわてた様子である。

「一体何が起きたんだ!?」と思って巣箱の方に目をやると、そこにはなんと大きなヘビが迫っていた! アオダイショウだ。深緑色で光沢のある体、大きさは一・五メートルほどあるだろうか。

アオダイショウといえば小鳥の天敵。卵やヒナはおろか、親鳥さえ丸呑みにすることもある。

シジュウカラの親鳥は、そんな危険な天敵に接近し、必死に威嚇していた。

オスもメスもヘビに近づき、追い払おうと羽ばたいている。そして、「ジャージャー」と鳴いていた。

驚いた。それまで朝から夕まで毎日シジュウカラを観察していたので、僕はシジュウカラの鳴き声のほぼすべてを把握しているつもりでいた。だが、こんな声、これまで聞いたことがない。親鳥がカラスに威嚇するのを観察したこともあったが、その時は「ピーツピ」と鳴いていた(「繁殖の観察」参照)。僕が巣箱に近づいた時にもそれに似た声を出す。ネコの時も同様だ。それなのに、ヘビに対してだけ「ジャージャー」と鳴いていたのだ。       [107]

 

手に汗を握りながら観察を続けると、親鳥はけたたましく「ジャージャージャー!!」と鳴き始めた。「さっき聞いたのと同じ声だ!」と思った瞬間、目を疑う光景が飛び込んできた。

バタバタバタバタッ!!

なんと、親鳥が「ジャージャー」と鳴いた直後、巣箱から次々とヒナが飛び出してきたのである! ほんの十数秒ほどで、十羽ほどいたヒナたちはすべて巣箱の外に出た。

シジュウカラのヒナの場合、半日から一日かけて一羽ずつ巣立つのが一般的。二日かかる場合もある。それが瞬時にすべて飛び出したのだから、驚かずにはいられない。

交感神経が最大限に活性化し、心臓はバクバク鼓動を打つ。よくわからない汁までにじみ出てくるし、腕には鳥肌まで立っている。自分の体の変化に精神がついていけないような、初めての感覚だ。

僕は気づいてしまったのだ。ヒナたちに隠された秘密の力に!!

アオダイショウは巣箱に侵入してヒナを襲う。巣箱の中に残っていたら、ヒナは間違いなく丸呑みだ。ヒナがヘビから逃れるには、巣箱を飛び出すより他にない。だから、親鳥の「ジャージャー」を聞いて、思い切って飛び出したのだ!シジュウカラの親鳥は、巣箱の周りでいろんな声を出している。「ツツピーツツピー」と聞こえるさえずりや「ピーツピ」という警戒の声、仲間を呼ぶ「ヂヂヂヂ」など、本当に様々だ。ヒナは、その多様な声から、ヘビに対する「ジャージャー」を確実に聞き分けて、巣箱を飛び出したのである。

一斉に飛び出したヒナたちは、巣箱に戻ることはなく、親鳥と共に群れをなして森の奥へと消えていった。どうやら、シジュウカラのヒナたちは、ふ化後十七日目にはもうある程度飛べるようだ。「ジャージャー」と聞いて巣箱を飛び出す行動は、巣立ち直前のヒナだけが、一生で一度使うかどうかの緊急オプションなのだろう   [110]                                               

どうしたらこのヒナのすごさが伝わるだろうか? もちろん、「ジャージャー」の声で巣箱を飛び出すのはものすごい発見なのだが、どこがすごいのかというと、ヒナが親の声の種類を聞き分けているという点だ。      [112]

 

驚くほどクリアな結果が得られた。誰がどう見ても一〇〇対〇。一目瞭然とはまさにこのことだ。ヘビを見せた十個の巣すべてで親鳥は「ジャージャー」と鳴き、ヒナは巣箱を飛び出した。一方、カラスを見せた実験では、十一個のすべての巣で、親鳥は「ピーツピ」と鳴き、ヒナは巣箱の中でうずくまった。

どのヒナも聞き分けができるとなると、おそらくこれは本能的な能力だ。

そもそも巣箱の中から外の天敵は見ることができないし、天敵対策に失敗は許されない。もし、逆の行動をしたら大変なことになる。ヘビが来た時に巣箱の中でうずくまっていたら、侵入したヘビに食われてしまうし、カラスが来た時に巣箱を出たら、簡単に捕まってしまうだろう。長い進化の歴史の中で、親鳥の声を聞き分けて、天敵の種類に応じて対照的な対策をとる本能が、ヒナに備わったのである。おそるべし、シジュウカラ語の世界!       [115]

 

動物の博士 

世の中には、簡単には説明のつかないミステリーも存在する。動物学者を見渡すと、習性だけでなく“容姿”が似ていることも多々あるのだ。

チンパンジーの研究者はちょっとチンパンジーっぽい顔をしているし、ネコの研究者はやはりネコ顔。動物行動学会などに参加すると、いろいろな動物を研究している人に出会うが、たいていの場合、顔とテーマが一致している  [134]

 

「動物の研究者って、容姿が研究対象の動物に似ていることがありますよね。アレって、どうしてだと思いますか?」と尋ねると、山際先生は笑いながらこう答えてくれた。

「動物を長く観察していると、その動物の動きが無意識に自分にも移ってくるのだと思うんだ。たとえば、チンパンジーを研究している人は、果物を食べる時の口の動かし方がチンパンジーに似ているんだよ。そうすると、口元の筋肉もそれに合わせて発達してきて、顔つきもだんだんチンパンジーっぽくなるんだと思う」 [136]                                                       

 

井の中の蛙-かわず

シジュウカラには言葉がある。研究を始めて五、六年過ぎた頃には、自然とそう思うようになっていた。空にタカが現れたら「ヒヒヒ」と鳴くし、ヘビを見つけたら「ジャージャー」と鳴く。仲間を呼ぶ時は「ヂヂヂヂ」だし、警戒を促す時は「ピーツピ」だ。それぞれ絶対に意味がある         [158]

 

なんということだ……。紀元前から二千年以上ものあいだ、言葉を持つのは人間だけで、動物たちの鳴き声は感情表現だと決めつけられてきたのである。

僕の尊敬してやまないローレンツ博士やダーウィン博士でさえ、そのように考えていた。身近な小鳥のシジュウカラにもこんなにいろいろな言葉があるのに、誰一人としてその存在に気づいていない。

僕は思った。

このままでは人類は「井の中の蛙」である。他の動物たちの言葉に気づかずに、自分たちが言葉を持つ特別な存在だと思い込んでしまっている       [161]

 

しかし、証拠がないことは、ないことの証明にはならない。

大切なのは、動物の鳴き声が単なる感情の表われなのか、人間の言葉のように特定の意味を伝えているのかを区別する“方法”を考えだすことだ。もし、思考節約の原理に沿って考えても、具体的な意味を伝えているとしかいえない証拠を示せれば、動物にも言葉があることを証明できるはずである。

そして、これを成し遂げられるのは、世界中で僕しかいない!“動物はしゃべらない”という二千年以上にわたる史上最大の誤解を解き、井の中の蛙化した人類を救うため、僕は立ち上ったのだった    [164]

 

シジュウカラに言葉はあるのか?

もし、シジュウカラの鳴き声の中に一つでも言葉があることを証明できれば、「人間以外の動物には言葉がない」という、紀元前から続く誤解を解くことができる。しかし、シジュウカラの音声レパートリーは実に二百パターン以上。ただ漫然-まんぜんと研究しても決定的な証拠にたどり着くのは難しそうだ。

いくつかの鳴き声に絞り込み、徹底的に研究する。そして、“思考節約の原理”に従っても、言葉であるとしか解釈できない証拠を見つけるべきである[166]

 

熱心な読者であれば、「『ジャージャー』はヒナを巣箱から脱出させるための号令なのでは?」と思われるかもしれない(「大発見、ヒナの力」参照)。そうなのだ。実際、巣立ち間近のヒナたちは、この声を聞くと一斉に巣箱を飛び出す。巣箱に侵入してくるヘビへの対抗手段である。しかし、研究を進める中で、ヒナがまだ幼く羽毛が生えていない時期であっても、親鳥はヘビを見つけると「ジャージャー」と鳴くことがわかったのだ。これは、ヒナの脱出を促すというより、つがい相手にヘビの存在を知らせるために鳴いていると考えられる。

以上、実験からわかったことを整理すると次の通りである。

結果1. シジュウカラはヘビを見た時だけ特別に「ジャージャー」と鳴く。

結果2. 録音した「ジャージャー」をスピーカーから聞かせると、巣箱の周りの地面を見下ろす             [168]

 

人間の場合、言葉とは、その意味のイメージを聞き手の頭に思い描かせるものである。たとえば、「リンゴ」と聞いたら頭に赤くて丸い果物を思い起こすし、絵に描くことだってできる。名詞はモノや出来事のイメージを、動詞は動きのイメージを、形容詞は様子や状態のイメージを伝える言葉である。

もし「ジャージャー」が「ヘビ」を意味する言葉であれば、それを聞いたシジュウカラは、頭にヘビをイメージしているはずだ。そしてそれを示せれば、シジュウカラにも言葉があると主張できるはずである    [170]

 

――考え続けて二年以上が経ったある日のこと。突然、一つのアイデアが頭に浮かんだ。それは、動物の言葉を証明するための、前代未聞の新しい実験方法であった。以下、次話へつづく!         [172]

 

「ジャージャー」はヘビ!

もし、シジュウカラの「ジャージャー」が「ヘビ」を意味する“言葉”になっているのであれば、それを聞いたシジュウカラは、ヘビをイメージしているはずだ。そして、もしそうであれば、普段はヘビに見えないモノをヘビと見間違えたりしないだろうか。

そこで、この“木の枝”だ。木の枝であればそこら中に転がっているので、普段、シジュウカラにとっては気にする物ではないだろう。しかし、「ジャージャー」と聞かせてみたらどうだろう。ヘビと見間違えるかもしれない。木の枝に紐を付け、それでちょこっと動かしてみたら、なおさら見間違えてくれそうだ。

僕はスピーカーと黒い紐、そして一本の木の枝を持って森へと向かった [175]

 

「ジャージャー、ジャージャー……」と声を流すと、すぐにシジュウカラのつがいがスピーカーに近づいてきた。ちょうど枝が見える位置に来たところで、今度は紐を引っ張り、木の枝を幹に沿ってゆっくりと引き上げた。

すると、二羽のシジュウカラはすぐに枝の方に近づいてきたのである! 

まるで正体を確かめるかのように、枝を見ているではないか。まさに、思った通りの行動だ![176]

――僕は自分が怖くなった。毎日シジュウカラを見ていたせいか、“こういう実験をしたらこう動く”というのを、かなりの高精度で予想できるようになっていたのだ。しかも、今回は見間違いを利用した新しい実験。誰もやったことがない世界初の試みである。もちろんシジュウカラにとっても「ジャージャー」を聞きながら這う枝を見るなんて初めての体験だろう。それにもかかわらず、僕はシジュウカラの反応を正確に予想できた。もはや前世はシジュウカラなのではないかという疑いまで出てくるほどだ                          

それと同時に頭に浮かんだのは、“大・発・見”の三文字だった。「ジャージャー」を聞いたシジュウカラは、頭の中でヘビの姿をイメージしているはずである。そして、そのイメージをたよりに視界の中からヘビを探したから、木の枝をヘビと見間違え、確認したに違いない。つまり、「ジャージャー」は「ヘビ」を意味する“言葉”になっているはずだ!     [178]

 

実験計画は固まった。あとはたくさんのシジュウカラの協力を得て、遂行するのみである。この研究が完成すれば、ついに二千年以上信じられていた“人間のみが言葉を持つ”という常識を覆すことにつながるはずだ。何年かかっても構わない。僕の人生をこの実験に捧げよう!       [181]

 

 ここまできて、ようやくシジュウカラの鳴き声にも“言葉”があると証明できた。「ジャージャー」という声を聞いたシジュウカラは、頭にヘビのイメージを思い描き、それを用いて視界の中からヘビのようなものを探す。だから、ヘビのような動きをする枝を、ヘビと見間違えて確認してしまうのだ。つまり、「ジャージャー」はヘビを示す“名詞”のようなものだといえる。

これはすごい発見である! それまでにも、多くの動物学者がベルベットモンキーやミーアキャット、プレーリードッグ、ハンドウイルカなどの鳴き声を調べてきた。しかし、ある鳴き声が内的な感情ではなく、外的な対象物を指示し、聞き手にそのイメージを想起させることを明らかにした例は一つもなかった。

僕の研究が、初めてそれを証明したのである         [183]

 

一か月後、論文の審査結果が戻ってきた。

その内容を読んでみると、三人の審査員が声を揃えて「エレガント!!」と大絶賛!

改訂はほぼなく、論文はそのまま受理に至った。それまでにも数多くの論文を投稿してきたが、こんなに褒められたのは人生で初めてであった。うれしすぎて、それからしばらくは「エレガント鈴木」と名乗っていた。

快進撃はそれだけにとどまらなかった。PNASの掲載号の表紙はなんと、シジュウカラ! 「ジャージャー」を聞いてヘビを探しているシジュウカラのどアップ写真を送ったところ、見事、表紙に選ばれたのだ。

論文公開後の反響もすさまじく、サイエンス誌やナショナル・ジオグラフィック誌をはじめ、国内外の様々なメディアから取材が殺到した。僕の斬新な実験手法と日本のシジュウカラは、この研究で一躍有名になったのだった。   [184]

 

 

ずいぶん後半にはみ出してしまったけれど

ここまでは出しておかないと取り上げた意味が激減すると判断し

「世紀の大発見・その1」まで紹介させてもらった

第2、第3の新発見が繰り出されるラスト100ページは、さらに見逃せない!

 

ではでは、またね。

『世界の指揮者』吉田 秀和/ちくま文庫 ネタバレ御免のEXTRACTION -360-

Ⅰ 世界の指揮者 

ヴァルター〔Walter, Bruno

 私は、ヴァルターについて、解釈のうえでの一つの仮説を立てる。

ヴァルターは、二十世紀の真中までもちこまれた古き良きヨーロッパの音楽の体現者だった、と。《古き、良き》。また彼の場合、この《古き、良き》というのは、ほとんど十九世紀を通じてみた十八世紀の姿に通じる。

周知のように、ヴァルターは、モーツァルトの最良の指揮者の一人に数えられると同時に、マーラーの最も正統的解釈家といわれてきた。ヴァルターの芸術のほとんどすべては、この両者を結ぶ射程の中に入ってくる     [19]

 

 私は、今度ヴァルターについてかくので、改めて何枚かレコードをきき直してみたが、その際気づいた一番大きなことの一つは、彼の指揮できく時、バス――つまり低音が目だって強く耳に入ってくるという意味である。      [20]

 

指揮者ヴァルターの芸術の根本は、この「よく歌わせる」演奏にあるのだが、しかし、「歌う」「歌わせる」指揮とはどういうことか?

私は前に、彼は低音を強調するといったが、このことと、「歌わせる」というのは、深い関係にある。

ベートーヴェンの『第五交響曲』を、まず、例にとろう。

この交響曲は、もちろん、特に「よく歌う」といった様式でひかれるのが主題の音楽ではない。誰もが知っているように、これは音楽を構成していく手続きが、あの「運命が戸を叩く」主題から発して、ほとんど、それによって終始しているところの、構成の奇跡的傑作である。それに、ここにはもう伴奏というものもない。副音声も埋め草的楽想さえも、ほとんどすべて、この主題の処理によって作り出されている  [21]                                       

総体にヴァルターのフェルマータの扱いは、短めである。マーラーの、たとえば『第一交響曲』の終楽章には、実に数多くのフェルマータが書きこまれているが、ヴァルターは、それを、まるで歌手がひと息つく、いわゆるルフト・パウゼ的に、ごく短い休止をはさむ機会として解釈しているかのようだ。歌のつづき具合の問題なのである。ヴァルターの旋律は、呼吸している  [22]

 

私は、ヴァルターがバスを強調する傾きがあるとかいた。「歌う」というのは、今かいたように第一に呼吸を感じさすということだが、それはまた、テンポのごく目立たない緩急、つまりテンポ・ルバートその他ののびちぢみの問題でもある。だが、第三に、こういうことがある。それはヴァルターに典型的にみられるのだが、旋律の呼吸にクレッシェンド、デクレッシェンドのダイナミックな変化を加えることである。ヴァルターの特徴は、そのクレッシェンドに当たって、特にバスの強調に力を入れていることによくみられる。

バスは、和声的短音楽-ホモフォニーの場合、単に低い音域の声部というだけでなく、これは和声の根本になる声部である。そのバスが強いと、倍音関係で織りなされている和声上の共鳴音がより充実してくる。響きそれ自体として、あるいは重厚に、あるいは生理的快感を喚起するだけでなく、何というか、いかにもりっぱな音楽をきいたという充足感を呼びさます。これの最適例の一つは、『第五』の終楽章、それもコーダに入ってからみられる。『第五』のこの箇所は、やたらと長くて、もう音楽としては、大切なことは言い終わってしまっているのに、ベートーヴェンがいつまでも《勝利》の快感を圧倒的で全体的なものにするために、いつまでも、終止形をくり返しているといった印象を与えかねないのだが、ヴァルターのは、ここにきて、俄然-がぜんすばらしい音楽になる。その見事さはたとえようがなく、私はこういう例は、ほかには知らない。[23]

 

このフィナーレは、これ以下もすばらしい出来だが、ほかにも、こういう例はいくらでもある。たとえば、シューベルトの交響曲。特に『未完成交響曲』の見事なことは、もちろん、歌う音楽を演奏する以上、当然予想されるわけだし、演奏団体もそれを裏切らない。だが、この場合『未完成交響曲』の主要な旋律――というより、素人的にいえば、ききどころのふしが、いずれもチェロを主体とした低音楽器によってまず提出されていることも見逃せない。それにホルンがつきそっていたり、あるいはホルンがいつまでも音を保続してオルゲルプンクト的に働いている場合、深い響きの、安らぎにみちた、充足感とでもいったものは、当然誰がやっても出るはずだが、ヴァルターの指揮する場合ほど、明らかに強調されるのは、いつも、みられるとは限らない[24]             

  世界の管弦楽団をきいていると、ベルリン・フィルハーモニーやヴィーン・フィルハーモニーといったドイツ・オーストリア系の名門交響楽団では、コントラバス、それに金管木管の低音楽器の音に、ほかの楽団とくらべて、一段と幅と厚みのあることに気づくだろう。フランスの管弦楽団の木管の美しさ、アメリカの交響楽団のトランペットとか、弦楽器の音楽でのめざましいばかりの輝かしさ等々、話を簡単にするため、まずは、こういった誰の耳にも、一度きけばすぐ気がつく特徴を拾いながら言えば、ヴァルターの《音楽》は、まぎれもなく、ドイツ・オーストリアの管弦楽の響きを土台として築かれたものである。それによって養われ、またそれを追求したものである [26]  

ヴァルターのレコードをきいて、あまりにもバスの強調が耳につくので、私は、初め、これはレコードの録音技術、あるいはプロデューサーの好みででもあるかととまどったこともある。しかし、ヴァルターに関する限り、これはほぼどこでもきかれる。とすると、ヴァルターがそれを望んだと考えて、ほぼまちがいはなかろう。ヴァルターは、アメリカの管弦楽団を指揮する時、バスの重要性について特に注意をうながしたに相違ない     [26]

 

全体に、ヴァルターのモーツァルトは、優雅であると同じくらい明朗であり、柔和甘美であるに劣らず堅実な姿をしているのだが、響きそれ自体としては、何というか、カラッと晴れ上がった爽やかさとはやや趣がちがう。それが、私に、ときによると、少しもの足りない思いを抱かせるもととなる。穏和であって、切れ味の鋭さにやや欠ける、とでもいうか       [27]

 

それにしても、ヴァルターの指揮した『大地の歌』、ことにミルドレット・ミラーのメッゾ・ソプラノによる終曲〈告別〉の演奏の美しさは、まったく二度とあるまいと思われるすばらしさだ      [29]

 

「音楽はどこまでも美しくなければならないのだから……」とモーツァルトは書いた。これは「真実を言うために破ってはならない美の法則などはない」と言ったベートーヴェンとは別の世界から生まれた言葉であり、その境界が、十八世紀の音楽を十九世紀のそれと隔てることになる。私はいずれまたこの対極について戻るつもりだが、今はヴァルターについて、彼の演奏は彼がこのモーツァルトの側に立つ人間だったことを示しているとかいておく。   [29]

 

ヴァルターのマーラーは、かの神経質で爆発的な歓喜と絶望の交錯の中でさまようバーンスタインのそれとは、ひどくちがう。また、それは草いきれのむんむんするような野趣にみちたクーベリックのそれともちがい、洗練された都雅を失わない。同じ『第五交響曲』の第三楽章に出てくる三拍子がもの憂いレントラーではなくて、第二拍に重みのかけられたヴィーン・ワルツのリズムになっているのが、その最もわかりやすい証拠である。ユダヤ系の芸術家や知識人の中には、往々にして想像を絶するほどの洗練の高みに達した柔和と敏感をあわせもつ精神の持ち主がいるものである。ヴァルターはその一人だった。  [30]

 

セル〔Szell, Georg

2  セルを考える場合、彼が自分の理想に憑-つかれた人らしい、ということをまず知っておくことが大切なのだ。そうである以上、この人は管弦楽を指揮して、徹底的に自分の考えでひっぱってゆくタイプに属していると見てもよいのではなかろうか   [36]                                         

 「セルはアンサンブルに関しては狂信主義者である。彼はまるで室内楽でもやるみたいにオーケストラを扱い、百人を越す楽員たちの一人一人が他のメンバーの演奏に注意深く傾聴するところまで、訓練しようと望む。彼は自分は水平線に――つまりポリフォニックに――きくが、たいていの指揮者はモノディックなきき方をしていると考えている」       [37]

 

 シューマンの交響作品には、問題が少なくない、というのが定説である。

私は、ここでは、シューマンがベートーヴェンみたいに、ブラームスみたいに交響音楽をかく力がなかったという問題には深入りしない。しかし、彼の楽器編成のうえでの問題は、よけて通るわけにはいかない。

かわいそうな天才ローベルト・シューマンはオーケストラのために書く時、いわばモーツァルト的な、音のテクスチュアの透明と輝かしさも発揮できなければ、ベルリオーズ、R・シュトラウス的な多彩にして豪華な響きも楽器のソロ的組合せも手中のものとすることができなかった。

彼は、とかく、弦、木管を重ねすぎ、結局どの楽器の音もその特性を失い、音の艶-つやと輝きも出せぬ中間色的なもので全曲を塗りつぶしてしまう。そのうえ、最大の欠点は、高音域と中声と低音域都の音の配分が悪いために、バランスが失われがちな結果をひきおこす。

シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を操縦して、海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。

それを、セルは、見事にさばいてみせた。第一楽章の、あの三拍子なのに四拍子みたいに聞こえる、奇妙にシンコペートする主題の提示からはじまる音楽以下終楽章にいたるまで、一貫して見事な手綱さばきを示したほか、彼はこの音楽の中に、どんなにたくさんの詩趣と誠実との貴重な結びつきが隠されているかを、あますところなく、鳴らしてみせた        [39]

 

 セルは、しかし、究極的には、大ぜいの聴衆を喜ばせるとともに、専門家のための専門家的音楽家である。少なくとも、現代の指揮者中、この人ぐらい専門家を嘆賞させる力をもった人は、ほかに何人いるだろうか。

セルがクリーヴランド管弦楽団といっしょに入れたレコードのすべては、その意味で、現代の演奏の一つの典型的存在である。        [42]                 

たとえば、ハイドンの『交響曲第九三番ニ長調』と『第九四番ト長調驚愕』を表裏にいれたレコード(アメリカ盤ML六四〇八)。これなども、名盤中の名盤である。ハイドンだけきかせて、現代人を心から満足させるのは容易なことではない。セルのハイドンは、そのごく少数の一つであり、私の今日まできいたレコードの中でいえば、おそらくフリッツ・ライナー指揮のそれとならんで、最高の列に数えられるべきものである。                              

 セルの指揮の秘密の一つは、彼のフレー人具の正確と精緻にある。これは、前かいたシューマンの単純な民謡風な旋律の提出ぶりにもよく出ていたのだが、レコードのうえで、最も衝撃的な効果で出ているのは、ドヴォルジャークの交響曲『新世界より』(アメリカ盤EPIC・BC一〇二六)だろう。この曲は出だしから、もう、フレージングの精密さで、きく人をびっくりさせずにおかない。こんなに精緻な『新世界より』はほかにないのではないか。これはもうアメリカ・インディアンの新世界ではなくて、セルの居住しているクリーヴランドな何か、アメリカの大工業地帯の工場の高性能の工作機械の精密さが、同時に唸りをたてて日夜をおかず巨大な工業製品を産みつづけている、そういう新世界のものと呼びたくなる。   [43]

 

それにしても、クリーヴランド管弦楽団というのは、物凄い管弦楽団である。ことに弦の良さは言語に絶する。第一ヴァイオリンからコントラバスにいたるまで、およそこれほどはっきりしていて、しかもよく響く音で、均質化された性能をもったものは、アメリカにもヨーロッパにもかつてなかったのではないか。これは表面だけの艶と磨きのかけられた「オーマンディのフィラデルフィア管弦楽団」とは違うのである

ベートーヴェンの『第七交響曲』とともに入っている『レオノーレ』序曲の三番のレコードなどをきくと(SONC一〇〇三九)、ただもう圧倒され、溜息が出るばかりである。〈略〉セルの名は、この管弦楽団をここまで育てたというだけでも、指揮者の歴史から消えることがないだろう     [47]

 

ライナー〔Reiner, Fritz

 1 ブラームスの曲はおよそオーケストラの能力を披露するにはこのうえなく適した、いわばオーケストラの検定試験の最上の課題曲だし、『第八』はベートーヴェンの数ある傑作中、オーケストレーションのうえで最上の洗練と、同時に問題点のみられる音楽だろう。それにファリャの色彩。シュトラウスの官能美と機智。そう考えてくると、このプログラムは、よほどの剛毅と自信がなければ、組めないものだということになる。

演奏はすごかった。私のうろ覚えでは、特に、シュトラウス、それにファリャが傑出していたと思う。

シュトラウスは、周知のような音楽だから、音楽の流れと性格がめまぐるしく変る。拍子、速度、それに伴う表情が、といってもよい。それがライナーの指揮では、いかにもテキパキしていて、破綻がないうえに、変りめが実に鮮やかなのである。ことにはやい旋律や楽句の流れの変化が、印象的だった   [50]

 

 私は、彼のベートーヴェンは、『第五交響曲』のレコードをきいてみただけだが、これだけきいてみてもすでに、そうではないことがわかる。

もちろん、これは恐ろしく筋肉質の演奏であり、骨と筋肉とだけからできているみたいな音楽になっている(それには、ベートーヴェンも、少々は責任がある。こんなに凄い内容の音楽を、こんなに一切の無駄をはぶいて、緊密にかいたことは、さすがのベートーヴェンだって、ほかに類がないのだから。『第九』はもちろん、『第三』だって、もっとずっと脂肪も多いし、汁気も多い。逆に、『エロイカ』ほどいろいろと異なった楽想がたくさんつめこまれている交響曲は、ベートーヴェンはほかにかかなかったといってもよいくらいである)。 [54]

 

それにしても、もう一度スケルツォを呼び戻すという天才的着想のあったあとで、再現部以下の、あの長大なコーダも入れて二〇七小節から四四四小節までの二三八小節を、局部的にヘ長調つまり下属音の調性を見せるだけで、あとはほとんどハ長調だけで押しきっているベートーヴェンの豪放にして雄渾-ゆうこんな度量と力量には、ほとほと、兜をぬがざるをえない。

まったく、大変な曲をかいたものである    [58]

 

デ・サーバタ〔Sabata, Vittore de

1 芸術が、音楽が、現在私たちの知っているようなものとして人間の社会に存在しているのも、一つには、その人間の生活、生の営みのはかなく過ぎ去りやすいことへのアンチテーゼとして、永遠のものへの憧れ、日常性からもう一つ高められた次元の世界への一つの予感であり、手がかりであるような何かとしてであるのだろうに、そうして、名演奏家とか、大指揮者とかに接した時の私たちの感激や感銘のなかには、その一つの要素として、その演奏が、私たちの前を横ぎって、そうして過ぎてゆく瞬間が「いや、ことも美しく充実した瞬間は過ぎさってゆくことはあるにしても、永遠に消滅するということにはならないので、何かが残るだろうし、私もこのすべてを忘れることはあるまい。少なくとも私が生きている限り、現在この瞬間に私の経験しているものは想い出となって生き続けるだろう」と信じないではいられないようなあるものに変わってゆくという、いわば「束の間に過ぎさるものの永遠性」とでもいった価値の転換の、私たちの精神の内部の世界での実現につながっていなければならないだろう。それなのに、わずか十年、十五年、二十年の歳月が経過するだけで、渡したちの内でも、外でも、何とたくさんのものが、過ぎさり、姿を消してしまうことだろう。

音楽についてというのではなく、演奏と演奏家についてかくということが、とかく、やりきれないほど皮相的で、あわれなことになりやすいのも、その理由は、演奏の本質によるというより、むしろ人間の心の深いところに潜在しているのであろう   [60]                                                

  たとえば、このブラームスの『第四交響曲』のレコードをきいてみると、イタリア人だからまずオペラがうまかろうなどという大雑把な考え方がどんなにくだらないものか、すぐ、わかってしまうのである。

サーバタ、この人もまた、いわばポスト・トスカニーニの存在であって、トスカニーニ以前の主観的主情的なロマンティックな指揮者とはちがって、どんな細部にいたるまでも厳格に統制のとれた、実にきちんとした音楽をつくる人なのだが、それでいて、この人には厳しさを、冷たさ、鋭さといったところまで、一面的に追いこんでゆくところはない。厳しいが、同時に優しいのである。

いや、あるいは、これは心情の優しさというものではなく、もっと感覚的な甘美な香りというものかもしれない。表情は比較的むき出しに率直に出てくるのだが、それでいて露骨な、俗悪さに堕さない。そのことは、この『第四交響曲』の、たとえば、第二楽章のアンダンテ・モデラートによく感じられるのであって、ここでのサーバタの見事な歌わせぶりは、フルトヴェングラーやヴァルターとはもちろんトスカニーニとも際立ってちがうものでありながら、わざとらしさはまるでない   [62]                                               

 

 サーバタをきいていると、私は、レコードについてかくことの空しさを思い、名演奏の意味とは――実演であろうと、レコードであろうと結局はそれをくり返しきき直しのきかない一度かぎりの感銘を決定的に大切にすることと切りはなせないところで追求すべきであって、それを何度もくり返しきき直し、考え直してみることとは対立し、矛盾するのではなかろうか?と、考えこんでしまう。[68]  

                                                         

クリュイタンス〔Cluytens, Andre

3 私は、クリュイタンスがベルリン・フィルハーモニーを指揮したベートーヴェンの『第七交響曲』をきく。実に整った演奏である。だが、ちっともおもしろくない。それに、これは最後まで、きき終わらないうちにわかってきたことだが、この演奏の最大の弱点は、ダイナミックのうえでの変化、つまり強くなったり弱くなったりすることと、テンポのうえでの動き、つまりはやくなったりおそくなったりすることとの間に、何のつながりもない点にあるのである。

第一楽章の導入部から終楽章にいたるまで、ベートーヴェン特有の、主観的な強烈なクレッシェンド、ディミヌエンドの変化とか、爆発的なフォルテとまったく意外なピアノとの対比が、そういったダイナミックのうえでの劇的な動きは正確に、明快に捉えられ、見事に音になって生きているのだが、テンポはまるで動かない。どの楽章をとってみても、基本のはやさというものが、がっちり全楽章を支配している。はねまわるダイナミックの小悪魔どもを力強い巨人が、がっちり両足でふまえて、確固不抜の力強さで抑えつけている。というか――いや、同じ比喩的に言うなら、こう言ったほうがよいかもしれない。汽車が遠くから近寄ってくるとする。当然、近づくにつれ、音が大きくなる。それにつれて、汽車の姿も、大きくなるわけだが、どういうわけか、私たちの目には、その汽車の動きがちっともはやくなるようには映じないのである   [74]

 

ただし、クリュイタンスの独特のところは、以上だけでいうと、まるでトスカニーニ流のイン・テンポのスタイル、あるいは冷たい即物的な様式のように思われるかもしれないが、そうではなくて、この不抜のテンポの持続性から一種の威圧感が生まれてくるのだ。重苦しさといっても、よいかもしれない。トスカニーニでは、表面には鋼鉄の意思が支配しているにもかかわらず、それに挑戦する強い表現的衝撃の突きあげがあり、この両者の矛盾と確執の間から生まれる瞬間があった。それが彼の最上の演奏に、彼の亜流たちのそれとは比較を絶した強い輝きを与えた所以-ゆえんなのだ。あれは、地中海的ラテン的古典芸術の厳しい緊張のもり上りに支えられたものだった

もしクリュイタンスのベートーヴェンを、古典的と呼ぶとすれば、それは動的であるよりも静的な様式のそれであろう        [76]

 

 指揮者クリュイタンスの真骨頂は、ベートーヴェンとかブラームスの演奏にあるのではない。フランス印象派、特にラヴェルがよい。それも私のきいたレコードでいえば、『ダフニスとクロエ』といった傾向のものよりも、むしろ『ラ・ヴァルス』『ボレロ』、それから『スペイン狂詩曲』の中の舞曲的なものなどが、傑出しているように思える。

クリュイタンスのは、印象派といっても、私的で輪郭の曖昧なものより、散文的で明快や論理をもち、雄弁の力強さをもっているものにすぐれているのである   [76]                         

クレンペラー〔Klemperer, Otto

 1 彼は優に六尺はあろうかという大きな人だが、それだけでなく、終始怪我をしたり病気をしたり不運にも見舞われ通しの人で、一九三三年ライプツィヒで練習中ステージから下に落ちて頭を打って以来というもの、頭痛から癒えることがなく、一九四〇年には精神が異常だと言われたり、私のきいた年の少し前一九五一年には右足を何かで骨折したというし、一九五九年にはベッドでタバコを吸っているうち眠ってしまう目が覚めたらあたり一面の煙と火。そばにある水をかけたら、それが何か揮発性のもので大火傷してしまったとか、そのあとでも一九六六年にまた転んでたしか腰の骨を折ったときこんな調子で、やたら大怪我のしどおしなのである            [82]

 

私が特に印象づけられたのは、全般的にテンポのとり方が極度にゆっくりしていることだった。そのために、きき手は、普通私たちがなれている快速なスピードで進められ、全体の構造をいわば大きなパースペクティヴの下に把握するのに適した行き方とは、正反対に、ゆっくりしたテンポのために当然生ずる細部の細かいニュアンスづけ、それからクレッシェンド、デクレッシェンド、アッチェレランド、ラレンタンド、テンポ・ルバートといったいろいろに変化するダイナミックと店舗との相関関係の妙味をたっぷり味わうことになる。

こうかくと、何かひどく古めかしい演奏をきかされたような気がするかもしれないが、そうではないのである。

クレンペラーについては、ヴィーラント・ヴァーグナーが、かつて「古典的ギリシア、ユダヤの伝統、中世のキリスト教精神、ドイツのロマンティシズム、現代のレアリスム、彼が、ほかにまったく類のない独特な指揮者である所以-ゆえんは、こういったものの混在にある」言ったことがあるそうだが、事実、クレンペラーには、実に、いろいろな異質な、普通の人の場合ならば当然矛盾しあい、相排除しあうはずのものが、ごたごたといっしょなっているのである。

だから、ベートーヴェンにしても、バッハにしても、ブルックナーにしても、クレンペラーの指揮できくと、現代一般にきかれるものとはかなり遠いものでありながら、しかも古くさいという感じはしないのである。むしろ、名指揮者ののこした演奏でも、ひところ流行はしたが今はすたれてしまったという行き方もあるのであって、そういうもののほうが、よっぽど古くさく聞こえるものだ。同じことは、今日評判の高い指揮者について――いわゆる大家から中堅、新人にいたるまでの各世代にわたって――言えるかもしれないので、今日の流行児で、案外早く忘れられる日のくるような予感のする人もあるわけだが、クレンペラーについては、そういうことはないのではないか。

ただ、私がきいた限りのレコードでいっても、この人の指揮には、むらがあり、出来不出来が多少あるらしいのはやむをえない       [85]

 

 レコードに関する限りは、晩年のクレンペラーは、レッグという世紀の名プロデューサーの知遇を得て――というより、レッグが、クレンペラーの偉大な才能を敬慕するあまり――、ロンドンのニュー・フィルハーモニアという管弦楽団をいわば彼の準専用楽団としてあてがわれ、それを思いのままに使用して、大量の録音を遺すという運に恵まれることになった。       [88]

 

レコードでは、『第四交響曲』を先頭に彼の指揮したマーラーを比較的よくきいており、また、それだけ好んでいる      [89]

この演奏の最大の特質は、あらゆる意味で、「誇張」「一つの面の他の面を犠牲にした強調」というものがみられない点にあるのではないかと思う。

演奏における「誇張」ということを、私は単純に悪い意味にだけ使おうと考えているのではない。そこに、この問題は、いずれ、どこかでゆっくり考察してみるに値するものを含んでいる。しかし、クレンペラーに関する限り、この大家は、ベートーヴェンから、ブラームスから、ブルックナーから、マーラーから、「誇張」することなしに、実に大きなプロポーションをもった音楽をひき出すことを知っている。実に類いまれな人である、と私には見えるのである。 [90]

あるいは、むしろ、「一面に執着しない」からこそ、大きなプロポーションが浮きぼりされてくるのだ、というべきだという人もあるかもしれない。しかし、こういう言い方から、「好々爺」的円満さの演奏を想像してはいけない。クレンペラーのは、そういった穏当主義とは正反対の、厳しいものである。その厳しさが誇張を禁じるのである                                       

 ベーム〔Bohm, Karl

 1 ドイツのテレビは日本のテレビは比較にならずおもしろい。日本のテレビは娯楽、それもごく薄っぺらなものが中心だが、ドイツのは、もっと完全に生活し、考える人間としての大人のためのものが中心である。ニュース一つとってみても、新聞の見出しだけよんでいるのと、解説記事つきの報道に接するのとに匹敵するくらいの差があった。日本の報道は、カメラ操作とか何とかの技術ではずいぶん進んでいるらしいのだが、知的な分析は――意識してか無意識なのか――まるで貧弱である                   [92]

 

ベームの練習での指示をみていると、その内容は、リズムの正確な扱い、特に付点音符、それからクレッシェンド、ディミヌエンド、フォルテ、ピアノといつたダイナミックの綿密忠実な扱い、いろいろな楽器の間でのバランス、特におもしろいのはいくつかの声部が重なって和声をなす時と、そうでなくて声部がいわば横の線の流れとして旋律的な役目をもつ時との、そのけじめの厳守等々といったものが主である。要するに、楽譜に書いてあることが忠実に守られて音になって出てくるかどうかを厳重に監視しているというわけだが、その監督の厳しい細かさはちょっとやそっとのものではない  

〈略〉ベームの指示が、徹頭徹尾こういった細かい、いわゆる重箱の隅をほじくるような行き方につきるのに、それによって音楽がどんどん見事なものになってゆくのは、驚くほかはない      [93]                                      

 

ここで最も重要なのは、本番といわず練習といわず、ベームにしてみれば、いつも、彼には音楽の姿が微細な点にいたるまで、ganzgenau――一点のあいまいさも残さず、はっきりと明確にみえている点である。彼はその心にみえているモデルの通りに、正確に再現しないではいられない。それが、ベームにとっての演奏ということの意味なのである。もし、演奏におけるレアリスムということが言えるとしたら、まさに、ここに一つの典型がある。それは一見しただけでは、日常性を越えた、特に創造性の高いものと思われない。だが、何というか、実にreliableな――安心してきける、信憑性の高いものであり、後味もよろしい              [96]

 

2 ベームには、日本のグラモフォンから、このシューベルトの『ハ長調交響曲』をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とやった練習風景のレコードと本番のそれとが出ている。〈略〉結局、ベームの演奏の真骨頂を示すものは、終楽章ではないか。この、どちらかといえば反復が多くて、やや単調なしくみの音楽を相手どって、ベームはちょっと彼からは想像できない大きさの音楽をつくりだす。終わってみた時のすごい迫力がその証しであって、こういうことは、そういつもきけるものではない。そうして、さっきもふれたが、木管や金管で交替させつつ一つの楽想を展開させているうちに、いつとは知らず、そこにヴァイオリンが台頭してきて、リードを奪うというか、指導性の肩代わりをするというか、そういう時の管弦楽に新鮮な艶が加わるその快さには、本当に目のさめるような鮮やかさがあるし、力強さも欠けていないのである。 

こういう演奏をきいていると、カール・ベームこそは本当に巨匠と呼ばれるにふさわしい人物だ、という気がしてくる     [99]

 

 ひと口にいうとオペラ、楽劇の演奏というものは演奏会での私たちがききなれている水準とはくらべものにならないくらい雑なものになりやすく、また、そうなっても不思議ではないのである。

ところが、ベームの指揮できくと、ほかの名だたる指揮者のそれとくらべても、はるかにおもしろくきけ、充実した感銘が残るのである。   [101]

 

 私はいつかある夕食会で彼の隣に坐り、少しゆっくり話をきく機会をもった。その時、彼が「オペラでいちばんむずかしいのは、もちろん、モーツァルトで、これは何しろ楽譜が簡単なだけにいくら精密にやってもやれるはずなのに、どうしてもそういかない。簡単な音符のならんでいる楽譜をみながら、さて、この一つひとつはどういう意味だろうか?と考えていると、疲れて疲れて仕方がなくなるくらい、むずかしい。『フィガロの結婚』でもそうだし、まして『ドン・ジョヴァンニ』ということになると、とてもそうそう一生に何回も指揮できるような代物ではない。それに、こういう音楽は、年をとればとるほど、ますますむずかしくなってくる。指揮者も若いうちはよいが、だんだんいろいろなことがわかるにつれて、本当にすぐれた第一級の音楽作品をやるということは結局、解決のつかない問題をつぎつぎ提出させられるようなものだ。私も、ときどき、楽譜を前にして、若い時はよくもこの曲をやれたものだと、呆然としてしまうことがある」と話すのをきいたことがある。私には、この話、忘れられない。    [103]                                                    

 正直なところを言わせてもらうと、ベームという人は本当にすばらしい名指揮者だが、さっきの彼の話にもあるように、第一級中の一級、名品中の名品ともいうべき作品を扱うとなると、何かが少しもの足りなくなるのである。〈略〉  [107]

ある意味では、現代、これ以上の人はいないといってもよいほどの指揮者なのに。音楽家としては申し分ないのだが、ベームという《人間》に何かが欠けているのだろうか?                                                

 バーンスタイン〔Bernstein, Leonard

3 指揮者バーンスタインの第一の特徴は、それが非常に逞しい活力にあふれたものだということだ。それは肉体的なエネルギーにあふれたものであり、そうして強烈な情緒を発散するタイプである。それも爆発的な衝動的なものというよりも、もっと持続性のある、粘り強いものだ。ときとして、粘っこくてやりきれないこともあるけれども、これは反射的な非省察的な性格のものではない。

もっと、根本的本質的に、彼の人並み以上にすぐれた知性――音楽的知性にいたるまで一貫してあるものだと思われる。

というのは、私には、これがバーンスタインの独特なところかと思われる急所は、この強烈な情緒への傾斜が、同時に、いつも、ある種の非常に覚めた意識的な働きと結びついて働いているらしいことにあるからである。

別な言い方をすると、バーンスタインの指揮するマーラー。バーンスタインは、現代の代表的マーラーの指揮者であるが、彼のマーラーをきいていると、深刻な感情の動揺、非常に幅のひろい振動と起伏のほかに、感情と悟性との対照とか均衡とかのとり方にも、その猛烈さが一歩も弱められることなく出ているのである。その結果、これは極度に主観的でありながら、感情一点張りの演奏ではなくて、かなりに計算のゆきとどいた演奏になっている。こういう人の場合、主観的感情的とはならない                        そういうのを、かりに、私の好きな言葉ではないけれども、ユダヤ的な性格と呼ぶとすれば、バーンスタインの音楽は、多くのユダヤ人芸術家に共通する、あの都会的な、反牧歌的な点でも、際立った特徴をもっている。ただし、ここで都会的というのは、感覚の過度の洗練、過度の敏感さというものとは、むしろ逆のものである。都雅でもなければ、蒼白い、ひよわな神経質でもない。むしろある種の大都市の住民や子供たちにみられる、すでに多くの害毒や混乱や騒音に免疫となったものの感情と知性の機敏な逞しさとでもいったものである [116]

 

たとえば、彼のふったベルリオーズの『幻想交響曲』を耳にしたものは、この音楽から、実に多くの「ものがたり」と「描写」をひき出してくるバーンスタインの力に驚かずにいられないのではなかろうか。少なくとも、私はびっくりした。そうやって音楽の抒情的な性格を浮きぼりにする、そのやり方の烈しさと生々しさ、迫力と鋭さはほかに類のない粋に達している。これをきいたあとで、モントゥーの指揮のレコードできいてみると、その、「柔らかく、夢幻的」に響くこと。まるで別の曲どころか、別天地みたいだ!

ベルリオーズがエキセントリックな物語り手であったことは確かだろうが。

この「物語り手」としてのバーンスタインの特性は、彼の啓蒙性を解明する糸口にもなるだろう     [118]

 

この名指揮者は、ときどき、情熱を生きるのではなく、情熱の何たるかを、きく人に教えるような演奏をする時がある。それから、特に、優しさ、甘美さ、快適さを表現しようとする時のバーンスタインには、私には少しやりきれないような甘ったるさがつきまとう場合がある。特にヴィーンで、自分で独奏しながらモーツァルトの協奏曲の指揮をする時、右に左にと合図をしながら、ときどき「うまくやった、ありがとう」とでもいわんばかりに唇に指をあてて、甘いキッスを楽員に送っているのをみた時は、私にはそのまま席にのこっているのに、かなり努力がいった 〈略〉名指揮者というものは、彼自身の中にすぐれた音楽としての素質をいっぱいにもっているというだけではたりない。彼は、管弦楽の楽員たちにも、少なくとも彼の棒の下にある限り、一人ひとりがすぐれた音楽家なのだという信念を吹きこむ能力がなければならない。つまり、彼は、楽員を魔法にかれ、ふだん以上の能力を発揮できるようにする素質をもっていなければならない。日本人でも、たとえば、小澤征爾にはそれがある      [118]                     

 

ムラヴィンスキー〔Mravinsky, Evgeny

1 事実、レニングラード・フィルハーモニーの性能の良さといったら、世界中を見渡しても、そのトップの五つに数え入れなければならぬほどの高さなのだから。性能がよいといっても、彼らの演奏をよくきいていると、その基礎は、一つは、楽員の一人ひとりの粒がものすごく精選された、非常に高いものであること、それから、もう一つは、技術的な一点の非もないところまで訓練に訓練を重ねた――というより、筋金入りの鍛錬に耐えぬいてきたという事実にあるのだろう。私はそこから、ことにこの後の点から、ムラヴィンスキーの指揮者としての一つの特徴に想いいたるわけで、この人は偶然と霊感を信ぜず、何事も訓練によって、一つひとつ手に入れていこうという鉄の意志と合理精神に貫かれた芸術家であるのではなかろうか。彼の音楽は、いってみれば、ヴァルターとは逆のものである。いわゆる《雰囲気の音楽》でもなければ、その結果がどうであるというよりも、むしろ自発的な音楽をする喜び、いわゆるmusizierenの喜びから生まれてくるというものではない。セルに近く、しかももっと徹底的に族長的権威的なのかもしれない。       [121]

 

同じレニングラード・フィルハーモニーの演奏といっても、ムラヴィンスキーの指揮によって、たとえば、チャイコフスキーの『第四』から『第六番』の交響曲のレコードをきいてみると、楽員たちが、それこそソロをふくフルートやオーボエ、あるいはクラリネット、ファゴットたちはもちろん、弦楽器奏者の一人一人にいたるまで、いかに彼らが、自分たちの演奏に全身的にうちこんでやっているかが、それこそ、手にとるようにわかるのである           [122]

 

そのつぎに、レニングラード・フィルハーモニーをきいて、ムラヴィンスキーの《音楽》を考える手がかりになる第二の点は、このオーケストラのたてる響きの性格だ。まず誰がきいてもすぐ耳につくのは、低音の響きの並々ならぬ分厚さと、ダイナミックの幅の異常な広さだろう。この二つは、ヴィーン・フィルハーモニーやベルリン・フィルハーモニーの特徴でもあるわけで、その点からもレニングラード・フィルハーモニーが中欧のドイツ・オーストリア系交響楽団の行き方を継承しながら発展してきた団体であることがわかるのだが、それにしても、この楽団の低音の厚さは、また一段と耳につく。部隊にならんだ彼らの姿をみただけでもわかるが、この交響楽団は、アレクサンドル・ドミトリエフという人の指揮でチャイコフスキーの『くるみ割り人形』組曲を演奏する時でさえ、チェロが十二挺-ちょう動員されているのだ!     [124]

 

クナッパーツブッシュ〔Knappertsbusch, Hans

 1 クナッパーツブッシュの演奏をきく人は、レコードがあっても、ほかの場合は常識になっている細部の正確さ、よく計算された、平滑冷静な演奏の美しさといったものを期待するわけにいかない。ここにあるものは、音楽的精神のもっと直接的な燃焼。そのときどきの感興のより自由な放射の喜びである。どだい、クナッパーツブッシュは、演奏会の時もあらかじめリハーサルを重ねて細部まできっちり固めてしまうよう行き方を好まなかったと伝えられるが、こういうことも、現代の常識とはずいぶんかけはなれたやり方である     [132]

 

 ブルックナーのことは、正直いって、私はわからなかった。あの荘重なアダージョの途中で眠ってしまった私は、目がさめてもまだその音楽が鳴っているのにすっかり恐れ入ってしまった。それにつづくスケルツォでも、単純なリズムの音型が無限に反復されるのに閉口した。要するに、えらく単純なものが、やたらこみ入ったものとして、提出される音楽という印象をもったにつきる。

あの大指揮者をもってしてもわからなかった。バカである      [135]

そのクナッパーツブッシュの『パルジファル』は、本当に幸いなことに一九六二年のバイロイトの実況録音がレコードになって残っている。それにこれこそは天下周知の名レコードであって、私としても、これについては今さら何もいう必要もなくて大変ありがたい    [138]

 

 クナッパーツブッシュという人のつくる音楽には、何か自然の力の爆発とでもいうか、一度流れ出したら、ちょっと止めどのないようなものの躍動があった。そういう点がまた、彼のヴァーグナーには、ときにあまりにも猛烈なクレッシェンドがあったりして、少し神経の細かいものにもついてゆかれないものがあることは、私にもわかる。 そういうことは、「クナッパーツブッシュの芸術」とかなんとかいう呼び方で、彼の指揮したヴァーグナーの演劇からの断片を集めたものとか序曲集とかいったレコードでもよくわかるのだが、そういうものの中では、私は、『ジークフリート牧歌』を、最も好んでいて、たびたびきく。         [142]

 

トスカニーニ〔Toscanini, Arturo

3 『第五交響曲』――これもベートーヴェンのである――をきいてみるがよい。

その第一楽章Allegro con brioでの第一主題に属する部分のいかにもブリオのきいた、壮烈で果敢な疾走と、第二主題に属する部分のひきずるような重い足どりの歩みとの対比は、劇的な点で、ほかのどんな指揮者にくらべても、一歩もひけをとらない。ここで特に、おもしろいのは、展開部からしだいに再現に入ってゆく少し前、小節で数えると一九六小節の二分音符だけの動きになってからの箇所である。

ここで第二〇〇小節ぐらいから押えつけるような響きに交換しながら、こころもちテンポもおとして、重い石を押しあげながら坂を上るとでもいった、いかにも苦しそうな歩みをつくりだす。その巧妙さ、というより、表現の切実さはいくら感嘆してもしきれないほどで、そこには全面的に真実なもののみのもつ荘重な説得性とでもいった力が備わっている。

それにしても、この交響曲の全体を通じ、何という輝かしさ、光明の力強さが支配していることだろう       [152]

 

トスカニーニの『第五』は壮大な勝利の歌であり、凱旋の行進である。フルトヴェングラーのように暗黒の力との抗争というのではなくて。私は、フルトヴェングラーのをきくたびに、悲劇というよりも、暗い血と大地の重さを感じる。

それはもうやりきれないほどだ。ことにフルトヴェングラーのすごいのは、第一楽章と同じくらい終楽章であって、比較的おそいテンポでひかれてきたフィナーレが、たいていの場合、長すぎるくらい長くて退屈なコーダに入って以後、最後の追い込みにいたるまで、何段にも区切られて、つぎつぎとテンポをガッ、ガッと上げてゆく。これはもうすさまじさの限りである。

トスカニーニには、そんな血の呪-のろいみたいな暗さはない。[153]  

そういう印象が生まれるのは、テンポだけでなく、フレージングに対するトスカニーニの並外れた正確さ、というより潔癖さが、また大いにものをいっているのである                                                  

 彼のヴァーグナーは、私には、とてもおもしろい。ここではもう、それがどういうことかを細かくかくわけにいかないが、その本質を一言でいえば、トスカニーニのハーモニーとダイナミックとの相関関係が、つかみやすいからだ。 [157]

                                                                

マゼール〔Maazel, Lorin

1 マゼールは一九三〇年生れ。大変な早熟ぶりで、九歳の時、おりからニューヨークで開催された万国博を機会に、公開の席で指揮を披露したとか、十一歳の時、トスカニーニに見込まれてNBC交響楽団の指揮者としてデビューしたとか、彼の履歴にはそういった話がたくさんかきこまれている。ベルリン・ドイツ・オペラに同行来日して、東京で『トリスタンとイゾルデ』を指揮したのも、その当時すでに病気が重くて来られなかった同歌劇場の初代音楽総監督フィレンツ・フリッチャイが万一の場合には、彼がその後任となることが既定の事実となっていた結果による。三十歳をいくつも出ないで、ヨーロッパでも最大の歌劇場の一つの音楽総監督に就任するというのは、並大抵のことではない

音楽の世界には、実は、そういった《神童物語》的なものは、食傷するほどたくさんあるのだし、現代はもう、《出世物語》に対しては、かつてのような熱狂を示さない時代ではあるけれども、それでもやっぱり、こういう話は、少なくとも、それを経験する当人にとっては、重大な影響をおよぼさずにはおかないことだろう

音楽家というものが、どだい、早くから世の中に出ること自体には、なにも不思議はない。ことに演奏家の場合、自分の肉体がすなわち楽器である声楽家を除けば、楽器をあやつる技術そのものは、少なくとも根本的には、十代の後半から二十代の前半にすでに出来上がってしまっているのが当然だろうから。

しかし、それだけのことで、若くて人気ものとなり、世界中の都市をいそがしくかけ廻って多くの国々の多くの人びとに接し、そこで自分の音楽を提供するというのは、純粋に人間的に考えてみても、そう単純な話ではない。[174]

なかでも、指揮者になって、そうでなくとも気難しいところのある演奏会用交響楽団の百人を越す楽員たちとか、そのうえにすぐ興奮しやすい歌手を大ぜい相手にしなればならないオペラで指揮するとかいうことになると、問題はまた一段と複雑になる。そういう中で、簡単にいって、困難にぶつかっても、ますます強気になって自分の思うところを存分に発揮しようと向かってゆくタイプと、そうでないタイプとが、想像できよう。ズビン・メータとか小澤征爾といった人びとは、その前者の例かもしれない。いずれ指揮をするほどの人間に、人前に出るのに気おくれを覚えるような弱気な人間がいるわけはないのだが、マゼールの場合などは、弱気とか強気とかで分類しては少し具合の悪い、もう少し屈折した事情がそこにあるように、私などには、感じられるのである

 

私がまず感ぜずにいられなかったことは、マゼールという人が、これだけのキャリアをもちながら――彼は現在ベルリン・ドイツ・オペラの音楽総監督と同時にベルリンの放送交響楽団の常任指揮者、音楽監督も兼任している――、まるで世慣れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。彼は、来客に手をさしのべて握手する時でも、どちらだったかの肩をおとし、頭をまっすぐあげて相手の顔を、目をみつめることさえ――できないというのではなくとも、そこに、ある努力が必要なのだということを相手に感じさせてしまう人なのである[176]                             

ちょっと考えてみても、たとえ音楽の天分にめぐまれ、三度の飯よりも音楽がすきだとしても、その音楽に接する前に、その中間に、百人ものオーケストラの楽員たちの壁を越えてでなければならないのだ。しかも、その人たちは――私は何もオーケストラの楽員たちを怪物視する気は毛頭ないのだが――何といっても、鋭敏な感覚と、とかく興奮しやすい、いわゆるtouchyなテンペラメントに富んだ性格の人びとが少なくないところにもってきて、それが一人一人でいるのではなくて、一つの集団として、集団の性格、集団の形態、集団の意志、集団の思考と感受性、集団の意思というあり方で、目の前に坐っているのである。その人びとの先頭に立ち一体となって、音楽をやるのはさぞかしすばらしいことだろう。ことに、年が若く、情熱が純粋である間にすでにそういうことを経験するのは。だが、映画じゃあるまいし、それが現実の生活ということになると、話はそれだけでは済まなくなるにきまっている

このことは、私は、ある日、彼と面と向かって立ち、彼のよく左右に動く目をみながら話している時、急に感じたことである。その時のマゼールの目は、自分の前に坐っている百人の音楽家たちの背後、はるか彼方-かなたにある《音楽》を感じながら、そこに直接に手をさしのべられないのを、もどかしく思っている人の眼差し、それの悲しみと憧れを、無言のままに語っているのだ   [177]

 

 マゼールのレパートリーは、現代の指揮者なみに、バロック音楽からクラシックとロマン派を経て、バルトーク、ストラヴィンスキーにおよんでいるし、そのほかにまた、非常な数にのぼるオペラのナンバーが加わるわけであるが、そういう音楽の中でも、彼が、とりわけて、好んで演奏するのは、J・S・バッハであるという話も、私には、無条件で納得できる。                

私は、ベルリンの放送交響楽団の演奏会で、彼が『ブランデンブルク協奏曲』を、三曲ずつ演奏するのをきいたことがある。〈略〉これはレコードもあるから、日本でもきいた人も少なくあるまいが、実によい演奏である。カラヤンの考え方は、バッハのこういった管弦楽曲に関しては、根本的にとても洒落た遊びの精神から出たものであるが、マゼールにとっては、バッハこそ、彼が安心して、彼のすべてをありのままに託して悔いることのない、ほとんど唯一の音楽であり、そこでは、ふだんマゼールが人との交わりの中ではめつたに出すことのできない心の奥に流れているものが、巧-たくまず、自然な形で出せる状態になっていることがよくわかる    [179]

 

マゼールの指揮できくと、『ブランデンブルク協奏曲』全六曲の中には、ずいぶんいろいろなものがあることに、改めて気づくだろう。作品が無類の確固たる形をしてくれているおかげで、マゼールは、行きすぎる心配なしに、自分を投入できるのだ[181]

                                                 

 マゼールのベートーヴェンは、すばらしい! もっとも、私のきいたのは、一つは例の東京でやった『ミサ・ソレムニス』であり、もう一つは『フィディーリオ』である。〈略〉『フィディーリオ』のほうには、幸いなことにレコードがある。私は、日本でのこのレコードの評判については何も知らないが、今度マゼールについてかくに当たって、改めてきいてみて、とてもよいことをしたと思った。私は、オペラをレコードできくことはほとんどない。したがって、オペラのレコードもほとんどまったく買わない。しかし、もし二枚続きで何かおもしろいレコードでもあったら買いたいが、という相談をうけたら、今のところは、まず、このレコードをすすめるだろう。そのくらい、これはりっぱな出来栄えであり、おもしろいレコードである     [184]

                                     

総じて、これできいていると、マゼールの「ベートーヴェン」を演奏するうえでの最大の武器が――バッハの時のあのメトリックなアクセントに匹敵するものとして――実にいろいろのクレッシェンドの使い方となって現れているのに気がつく。長くかかって、じわじわともり上がってくるもの。ときにはまた単刀直入に、アッという間にぐっと迫ってくる感じのそれ               [187]

 

モントゥー〔Monteux, Pierre

1 二十世紀前半から後半にかけて、フランスには三人の名指揮者がいた――とかくのは、三人とも、今はすでに故人になってしまったからである。その三人とはピエール・モントゥー、シャルル・ミュンシュ、それからエルネスト・アンセルメのことである。このうちミュンシュはストラスブールの出身であり、彼が生まれた当時、アルザス、ロレーヌの両県は一八七〇年の普仏戦争の結果ドイツに領有されていて、フランス領に帰ったのは第一次大戦の後なのだから、厳密にいえばドイツ生まれということになる。それにミュンシュという人は、指揮者になったのもおそく、それもライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラのコンサートマスターをフルトヴェングラーの下で、すでに長いことつとめたあとのことだった。これは有名な話だ。これは、また、ミュンシュのレパートリーからもみられることで、あの人はドビュッシーやラヴェルといったものも、もちろんよく指揮し、そうしてすぐれた演奏をきかせていたが、それとともに、あるいはそれ以上にバッハからはじまって――それも『ブランデンブルク協奏曲』といった器楽だけでなく、カンタータもさかんにとりあげていた(もっとも、今日では彼のような様式のバッハはもうすたれてしまったが)――、モーツァルト、ベートーヴェン、それからブラームス、ヴァーグナー等々の音楽を得意にしていた。それに、フランスものでは、まず、ベルリオーズ、現代ものではオネゲルからデュティユといったところに、彼の特に強い共感があった。こういう事実をみてゆくと、そこに、二十世紀フランスを代表する大指揮者の中では、この人はむしろ独仏混合というか、つまりは劇的で、ダイナミックで、そうして構成のがっしりした、対位法的な音楽を好んでやった人といってもよいことになろう。ミュンシュは、日本もボストン交響楽団といっしょにやってきたから、きいた人も少なくないはずである。彼のベルリオーズやベートーヴェン、ブラームスといった音楽は、ドラマティックで、激しく逞しく、色彩にも燃えるような輝きがあった。画家でいえば、モネよりはドラクロワに近かった。 [190]                       

こういう二人にくらべると、モントゥーは、言ってみれば、ゆったりとくつろいだ。そうして楽々としたものがあり、それが彼をはじめてきいた時から、私を魅了したのだった         [193] 

 

ヴァイオリニスト出の指揮者は、単に管弦楽の楽員たちに何をしなければならないかを指示するだけでなく、それを音にするためには、どうやらなければならないかを、少なくとも古典派以来ロマン派にかけて管弦楽の主体をうけもってきた弦楽奏者たちに具体的に示すことができるはずである。ピアニスト出身の指揮者がアイデアを与えるとしたら、かつて弦楽奏者だった指揮者は音の作り方の見本を与えられるということができよう。

だからというわけでもなかろうが、モントゥーは、どこのオーケストラにいっても楽員たちに愛されるので有名だった      [194]

 

モントゥーの指揮姿を一度でもみたことのある人は、みんな知っているわけだが、この人は指揮台に立って、全体としてはほとんどまったく動かないようでいて、しかも棒さばきは精緻を極め、実に細かいところまで指し示していた。

それは本当に見ものだった! だから、ある意味では、モントゥーはクナッパーツブッシュと同じように、動きの極度にすくない、すべてを棒にまかせた旧式の指揮者のようにみえながら、さて、その棒の表現の細かさとなると、クナッパーツブッシュとは正反対の精密さをもつ。的確、柔軟、敏感、明快という点で、これをぬく人が果たしているのかどうか。肩をならべるにたる人でさえ、何人いるかどうか。少なくとも、私は、いま即座に思い当たる人は、一人もいない。まったく、この人のは、無類の棒さばきであった          [194]                                        

 

モントゥーは、若くしてディアギレフのロシア・バレエに指揮者として、ドビュッシーの『遊戯』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、ストラヴィンスキーの『ペトルシュカ』、特に『春の祭典』のあの歴史的なスキャンダルの初演を受けもったのを皮切りに、一九六四年、八十九歳でロンドン交響楽団の常任指揮者として現役のまま死ぬまで、その間の半世紀以上をパリで、ボストンで、ニューヨークで、サン・フランシスコで、ハンブルクで過ごしたわけだが、その間一体いくつのオーケストラの常任指揮者となり、演奏旅行や単独での客演も含めて、一体何千回にのぼる演奏会を指揮したもの、それはもう想像を絶するような回数に上ったろう。しかも、ステージの上にいる楽員たちとステージの下にいる聴衆たちのその両方にわたり、これほど多くの人びとに、またこれほど熱烈に愛された指揮者もないのではないか                           [195]

 

 モントゥーのレコードに、ベートーヴェンの『第二』『第四』交響曲をハンブルクの北ドイツ放送交響楽団で指揮したものがある。これをきくと、曲は同じでありながら、あのいつもの悲愴がかった、芝居気たっぷりの、そうして前進し、のびのびと歌い、元気より走り、考え深そうな眼差しになり、まじめで省察的な表情をとったり、ある時は思いきり活力にあふれた身ぶりで両腕をふりまわしたり、とび上がったり、障害物を跳びこえたりといった具合の、非常に生き生きした音楽になっているのに、気がつくのである。このベートーヴェンには、何の誇張も強がりも無理も感じなれない。それでいて、『第四交響曲』の面に針をおろすと、それは、申し分なく深くて、重々しい、音楽になっている。冒頭のアダージョからして、新古典主義の人びととちがった、たっぷりとゆったりした、まるでヘンデルのような歩みがあるのである。

〈略〉ベルリオーズの『幻想交響曲』でも同じである。今、ベートーヴェンの交響曲、ベルリオーズの交響曲ということで現代の代表的指揮者を考えるとして、すぐモントゥーの名を上げる人がいるかどうか。少なくとも、私には、すぐ、彼の名を思いつくことはないだろう。だが、こうして改めてきいてみると、モントゥーのベートーヴェンは実にすばらしい。精妙さと率直さが、きず一つない演奏の中で、こんなに見事に同居しているということは、モントゥーの指揮の異常な高さを証明している。[197]                        

それというのも、モントゥーは、音楽を客観的に眺め、自分をその中に埋没させもしなければ、まして、『幻想交響曲』の主人公と同化するような羽目にはまったく陥らないからである。彼は、むしろ、ある距離をおいて、音楽がよく眺められる地位に自分を保つ。彼の務めは、そこに鳴るべき音楽がどんなものであるか、それを正確に描き出すことにある。それがわかると、ここでは明快とならんで、均衡ということが、また非常に重要であることもわかってくるのである。そうして、この均衡という点では、彼のヴァーグナーの演奏がまたすばらしい実例となる。コンサートホールのレコードは一般に音はそんなによくないかもしれないが、ときどきおもしろいのをきかせてくれる。モントゥーが『トリスタン』の〈前奏曲〉と〈愛の死〉や『さまよえるオランダ人』や『タンホイザー』の序曲を指揮したレコードも、その見事な一例で、これできいていると、ヴァーグナーの管弦楽のかき方のすばらしさ――単によく鳴るというだけでなく、少しの無駄もない練達と、それから天才的な霊感としか呼びようのないものとをあわせもつ最高級の傑作にほかならないということ――を、これくらいよくわからせてくれる演奏が、ほかに、どこにあるだろうかと、考えてしまう。[199]                                                         

それにしても、モントゥーで『春の祭典』をきくその楽しさには、また、かけがえのないものがある。それは何もモントゥーがこの曲の初演をうけもったという、そういう歴史的な事情があるだけではない。棒の無類の精密さと、音楽に対する非耽溺的で賢明なアプローチ、透明で均衡のとれた音響を獲得する手段を探し当てるうえでのあやまつことのない判断力、こういったものが相集まって、この二十世紀の最高のバレエ音楽を扱ううえでのモントゥーの特別な適性が、そこに、十二分にあるからである。〈略〉       『春の祭典』には、実にいろいろなレコードがあり、その中では、たとえばブーレーズがクリーヴランド管弦楽団を指揮して入れものすごいのもあるけれども、このモントゥーの盤の楽しさは、また、格別である       [201]

 

ブーレーズ〔Boulez, Pierre

 2 ブーレーズの『春の祭典』のすばらしさは、個々の点で正鵠を極めているというだけでなく、全体をきき通すと、比類のない迫力をもっている点にある。

音の輝かしさだって非常なものだ。これもクリーヴランド管弦楽団というアメリカ第一の性能を誇るオーケストラを存分に駆使しているからでもあるが、このオーケストラにしても、ジョージ・セルがああして逝去してしまった以上、果たして、いつまで、この高性能を持続できるものか。そう思うと、実に、よい時に、レコードに入れておいたものである。

そのうえに、ブーレーズできいていると、それまではっきりしなかった個々の音型がよく聞こえるというだけでなく、それらのリズムのパターンのもつ構造上の意味がよくわかるようにひかれているのが、すばらしい。これまでのように、ただものすごい力だ、迫力だというのでなく、よく理解できて、しかもそのためにヴァイタリティが少しも失われないのである。これが、この演奏の優秀さの最大の特徴である。    [237]

 

ミュンシュ〔Munch, Charles

1 ミュンシュの率いるところのボストンでは、やはり、何といっても、ほかのオーケストラよりはフランス的な味が濃く、弦も柔らかくてきれいだが、特に管の音色の磨きたてられたような艶-つややかさが売りものという、その評判通りの見事な演奏をきいて感心したものだ。       [245]

 

 手近なもので拾えば、ミュンシュがボストン・シンフォニーを指揮して入れた、ベルリオーズの『幻想交響曲』の出だし、〈夢心地〉と名づけられた導入のところに針をおろしてみていただきたい。やるせなさの極みを秘めたとでもいいたいような高い管による冒頭から、弦が入り、それから数十小節にして、低音が入る時にしても、ここでは、ズシンと腹にまで響くような入り方はしない。低音は低音で、無限のうらみをこめた音楽を奏してはいるのだが、しかし、その音は、あくまでも全体の響きの構築の中での一部をうけもっているにすぎない。

指揮者の仕事の一つは、いつかもかいたように、オーケストラの各声部の内部での釣合、正しいプロポーションを常に失わないようにすることにあるわけだが、そのプロポーションが、ミュンシュの場合、たとえば、これも前にかいたブルーノ・ヴァルターとちがうのである。ヴァルターのバスは本当に響きの殿堂のすべてを支えるがっちりした土台としてのバスであり、そのバスがあったので、彼の音楽は、また、あんなに豊麗で、しかもよく歌ったのである

ところが、ミュンシュのは、ちがう。ヴァルターに劣らずよく歌うけれども、ここには、ああいった重量感はないし豊麗さもない。そのかわり、とびきり色艶のよい音の輝きがある。しかも、その艶やかな輝きの中で、「各声部が、まるで、それぞれが別々の生きもののように、自在に動いているのがみえる」といっても、あまり誇張できないくらい透明な音の織地が展示されてくるのである。

彼のそこを指揮する様子が目にみえるようだ        [247]

 

私が、ミュンシュで好きなのは、ベルリオーズと、それからラヴェルである。

ベルリオーズでは、前あげた『幻想交響曲』は、お互い、ずいぶんいろいろな人の実演やレコードをきいてきたわけだが、私は、これまでのでは結局、ミュンシュのものがいちばん好きである。華麗で、劇的で、憂鬱で、無限にやさしい気持ちと、残忍で冷酷なものといったさまざまの矛盾するものをいっぱいつめこんだこの音楽を扱って、ミュンシュの演奏は、何よりも、そのパレットの上の色彩の豊かなことと、表現の即興性の豊かさと、この二つの点で、私には、最初から、心に直接訴えかけてくる演奏なのである              [249]

 

同じような意味で、私は、ミュンシュ指揮のベルリオーズの『ロメオとジュリエット』のレコードがひどく気に入っている。これはまさに、「おもしろくて、やがて、悲しき」劇的な展開の、これ以上のことは考えにくいほどの名演ではないだろうか?

それから、同じ作曲者の『イタリアのハロルド』が、また、日本でこんなに有名なのも、私には、まったくもっともとしか考えられない     [250]

 

 もう一つ、ベルリオーズに少しも劣らずおもしろい例は、ミュンシュの指揮で、ラヴェルをきくことである。

『ボレロ』を例にとってもよい。だが、圧巻は、私の知る限り、『ダフニスとクロエ』の第二組曲である         [253]

 

フルトヴェングラー〔Furtwangler, Wilhelm〕 2

フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性と、それから高い精神性と、その両方が一つにとけあった魅力でもって、きき手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるのではないだろうか?

このことは、彼の指揮したものなら、たいていどこにも見出される。それはブルックナー、ブラームスや、モーツァルト、バッハだけでなく、ベートーヴェンにも、ヘンデル、R・シュトラウスにも出ている。それから彼のシューマンがそうだし、彼のチャイコフスキーだってそうである      [263]

 

フルトヴェングラーが第二次大戦中のベルリンでフィルハーモニーを指揮したベートーヴェンの交響曲が近年日本でもレコードになって、簡単に買えるようになった。なかには、ヴィーン・フィルハーモニーとのもあるが、ともかく、それらによっても、『第三』『第四』『第五』『第六』『第七』『第八』『第九』の各交響曲がきける。

みんなすばらしいが、それらをきいていて、そこで圧倒されるような想いがするのは、演奏の不思議な生々しさである。これは実況をとったものだからというのとは、全然何の関係もないことである。そうではなくて、ごく単純に、そうして純一に、これらの曲が、そこでは、それぞれ一つの生きた劇として、生きた抒情として、生きた運命として、生きた観念として、全面的に生きられて提出されているからである    [263]                                   

フルトヴェングラーが指揮すると、ベートーヴェンがこれらの音楽の中に封じこめていた観念と情念が生きかえってくるのがきこえるのである  [265]

 

同じ『第九』のベートーヴェンが、また、第三楽章では、ずいぶん変わってきこえる。私には、この曲の中で、この楽章が、さっきいった高度に精神的でしかも強い官能性をもった音楽の魅力という点で、フルトヴェングラーの一般的な精緻の枠にいちばんうまくはまっているように思われる。と同時に、他面、ここほど一枚ヴェールでへだてられた向こう側の出来事のような間接性というか、夢幻性というか、そういう定かでないものとしてきこえてくる音楽は、ほかにないのである。こうしてきいてみると、どうしても、「ベートーヴェンは、ここで、夢をみているのだ。そうして、終わりのあの金管の響きは、現実の世界からの呼びかけ、召集である」と言いたくなるのである。[266]            

精神的な演奏といえばフルトヴェングラーがベートーヴェンを扱って、その方向への傾きを最も截然-せつぜんとみせているのは、メニューインを独奏者に迎えて『ヴァイオリン協奏曲』を指揮した時である。この演奏は、単に目立っておそいテンポでひかれているというだけでなく、全曲を通じて、いやがうえにも澄みきった音色をきかせるメニューインに合わせて、フィルハーモニア管弦楽団を指揮するフルトヴェングラーも、まるで重苦しい足音は絶対に立てまいと決意したかのように――『第五』の場合とは正反対に――、まるで雲の上でもゆくように、そっと歩いている。こういう演奏は、フルトヴェングラーには極度にまれなのではなかろうか。特にここのメニューインには、何かの宗教の教祖とでもいったものが放射されている。    [266]

 

私は、彼をあまりにも晩年にききすぎた。そうして、晩年ということも、ピアニストと指揮者では、意味がちがいすぎる。指揮者は何のかのといっても、自分で音を出さない。これに対して、ピアニスト、ヴァイオリニスト、歌手、その他の演奏家たちのうえには、肉体の条件がはるかに大きくのしかかっている。どんな大家だって、あまり年をとってしまうと、《音》から脂っ気がぬけてしまう。 [268]                                                             

フルトヴェングラーをはじめてパリできいた時、そのプログラムにブラームスの『交響曲第三番』が含まれていた。これがまた、私にはおもしろかった。

その一つは、ブラームスのオーケストラ曲の響きというものを、ここではじめて納得した点にある。それは室内楽と管弦楽の混ざりあったようなもので、同じ時代に生きながらも、ブラームスはヴァーグナーとちがって、金管の使い方などが古風で、それだけに、木管が非常に重視されていた。それは誰しも知っている。だが、その木管の音色が、ブラームスではずいぶん地味な、艶消しをしたようなものであることには、必ずしも誰もが気がついているわけではない。それというのも、そういうことは、スコアに書きこめないものであって、もっぱらブラームスの生前から彼の音楽を演奏してきた中欧の管弦楽団、ヴィーンとかプラハとか、あるいはライプツィヒとかいった各地のオーケストラの伝統となって残っているもの、それをきいて、逆に判断するほかないのである[269]

 

アメリカの交響楽団で何度もきいてきたその耳で、ヨーロッパに来て、ベルリン・フィルハーモニーの演奏で、ブラームスをきいた時、私は、本当に「そうか。これがブラームスの音色なのか」と思ったのは事実である。実にしっとりした、くすんだ、よい音だった   [270]

 

ブラームスの四曲の交響曲の中でも、『第三交響曲』は、最もまれにしか演奏されないものだし、私も、ほかの三曲にくらべて、実演できいた回数は、これがいちばん少ないだろう。しかし、それたけにまた、大指揮者名指揮者といわれるほどの人の手になる演奏できいた時は、当然忘れにくく、ほかの演奏と混同しにくくなる。それでも、私は、この時のフルトヴェングラーの演奏ほど、感心したことはない。ディミヌエンドとかピアノとか、それに休止がすごく、生きてくるのである。

いったいに、フルトヴェングラーのブラームスはすばらしかった    [271]

 

 周知のように、ブラームスは『ハイドンの主題による変奏曲』をかきのこした。これは、単にブラームス一代の傑作の一つだというだけでなく、およそ何百曲かに上る古今の管弦楽曲の名作を洗いざらい数え上げる場合でも、管弦楽の変奏曲という題目では、抜きにして考えることのできないものである。

それに、指揮者の力量をはかるのと同じように、管弦楽団の力を知るうえにも、この曲は最適の作品となっている     [272]

 

その中で、演奏の水際立ってうまいのは、ジョージ・セルの指揮、クリーヴランド管弦楽団の演奏によるものだった。これはもう数ある名門オーケストラの演奏にくらべても、一段とまた高水準の出来栄えであった  〈略〉

アンダンテの主題が、オーボエとファゴットで提示され、それを低弦とコントラファゴットが支え、そこにさらにホルンが加わる。この主題の前半は五小節プラス五小節という変則的な構造なのだが、ブラームスはホルンを二小節やらしては、一小節休むという形で、その五小節という変形をさらにおもしろくいろどっているのである。そういう感じが、セルの棒だと実によく出てくる。そのうえに、それこそ一部の隙もない完璧な合奏のおかげで、最初からひきしまった実によい響きがする。誇張していえば、この最初の五小節をきいただけでも、耳が洗いきよめられたような気がするほどの名演である。あとも、ずっと、その調子。

これほど、欠陥のない演奏は、ほかになかった          [273]

 

ジュリーニ〔Giulini, Carlo Maria〕 2 実は、今度、ジュリーニのレコードをきいてみて、最近の、というか、彼がシカゴ交響楽団といっしょに入れたベートーヴェン、ブラームス、マーラーといった曲のレコードのほうが、たとえばロンドンのフィルハーモニア・オーケストラと合わせたモーツァルトなどより、一段と迫力があり、音楽として力強いうえに、何というか本当にしっかりした手応えのあるものになっているのに気がついたからである        [289]

                                             

 ベートーヴェンの交響曲といい、ブラームスのそれといい、このレコードできいていると、気持ちのよいのは、音がきりっとひきしまって、まったくむだがないという印象を与えられるのである。しかも、前にかいたように、やたらと各パートの分離がよいにもかかわらず、そうなのである。           [293]

 

だが、ブラームスの交響曲の演奏では、ベートーヴェンではあまり気がつかなかった別の要素が加わってくる。それはテンポの動きがかなり著しい点である

〈略〉ジュリーニは、ベートーヴェンでは一切つつしんでいたが、ブラームスだからこそ、きっと、こういう指揮をしたのだろう。たしかにブラームスの音楽では、この種の詠嘆の声が、きき出そうとしさえすれば、いくらでもきこえてくる。そればかりでなく、この先のほう、展開部が終わりかけて、再現部に移ってゆく箇所で、音楽は歩幅をゆっくりゆるめてくるのだが――そうして、そうやることによって、この交響曲の全体を支配している3度の連続下行という最も重要な思想の意味がこれ以上やりようのないほどはっきりしてくるのだが(スコアで第二二七小節から、特にフィルハーモニアのポケット・スコアでVの印のついた第二四六小節から再現のはじまる第二五八小節にかけて)――ジュリーニのやり方では、テンポをゆるめることは同時に、たっぷりとまるで

イタリア・オペラのテノールのアリアみたいに、歌い上げることでもあるのであって、それが、私などには、はじめてきく時、軽い違和感を抱かせ、「何かがおかしい」という感じを与えもするのである          [294]

 

私は、何もジュリーニがイタリア人だから、よく歌わすのだというような紋切り型を言っているつもりはない。いやもし、そんなことから言うならば、ジュリーニのブラームスの歌わせ方は、むしろ少し疎外感があるのだから、むしろ歌わせ方が下手だと言っても、よいくらいだろう。

そうではなくて、彼には、際立って独特な歌わせ方があり、それがきくものを驚かせたり、納得させたりするというだけのことなのである。

そういうなかで、私が、今度ジュリーニの何枚かのレコードをきいているうち、最もびっくりしたのは、マーラーの『第一交響曲』をきいた時で、この交響曲の第三楽章の出だしで、ニ短調の旋律がコントラバスからはじまって、ファゴット、チェロ、バス・チューバ、クラリネット、ヴィオラ、それからホルンとしだいにカノンで重ねられてゆくのをきいているうち、「ああ、そうだ。これはベートーヴェンの『第九』のあの〈歓喜による頌歌〉の、最初の器楽の、入りあれのパロディーなのだ。そうしてあちらの歓喜に対し、こちらは葬礼の哀悼の歌なのだ」と気づいた時である   [296]     

 

ここまで読んでくれて、ありがとう&ご苦労様

茶者の名調子に酔いながら

欲張ってフルトヴェングラーとジュリーニまで抜き書きしたら

ほぼ3万字という、空前の長編になってしまった

 

クラシック音楽や指揮者に関心のない方には

呪文だらけの不気味本かもしれないが

さすがは「指揮者論の最高峰」と称賛されるだけの名著なのだ

 

ではでは、またね。