あいかわらずの"巻き込まれ屋"杉村三郎が、今回も八面六臂?の大活躍。
きっかけは、バスジャック。
たまたま、バスジャック犯と同じバスに乗り合わせたことだ。
だがこの犯人(六十代半ば・男性)が、わざわざ人質をとって警察に要求したのは
身代金でも服役者の解放でもなく、「今から言う三人をここまで連れてこい」。
間もなく事件はあっけなく解決するのだが
もちろんそれは、巨大な悪へと続く入り口に過ぎなかった。
バスジャックが指名した三人を追い求めるうち
杉田は「ネズミ講」という、被害者が同時に加害者になりうる伏魔殿のような
組織犯罪の底なし沼に、ずっぽりと嵌ってゆくのだった・・。
読者の興味を巧みに誘導しつつ、思いもよらない非日常世界へと連れ出す
作者・宮部みゆきの手腕は、さすが!のひとことに尽きる。
しかし、シリーズ三作目となる本作を読み終えて、何よりも印象深かったのは
第一作『誰か』以来、絶えず漂い続けていた「もどかしさ」の正体が
ついにひとつの〈結果〉となって、杉浦の前に姿を現わしたこと。
おかげで一読者のうたたも、
ーーああ、やっぱりそうなるよな。
と呟きつつ、安堵にも似た強い納得感を手にできた。
そうして、改めて痛感したのだった。
『誰か』『名もなき毒』『ペテロの葬列』のシリーズ三作は
以上の3つまとめて、ひとつのストーリーを築き上げていたことを。
すなわち、これは
"優しさゆえに「逆玉」に乗った杉村三郎が
ひとりの男として旅立つまでの足取りを描いた物語"なのだ。
だから、『誰か』を手に取ったからには
第三作『ペテロの葬列』まで、全部ひっくるめて読み通していただきたい。
〈杉村シリーズ〉の"本当の面白さ"にたどり着くために、この条件は必須である。
今回いちばん言いたかったのは、そのこと。
すなわち――評価を下すのは、三部作通して読み終えた後で。
・・って、まんま俺の話じゃないか!
とか、ヘタクソな乗り突っ込みはこのくらいにして
ここから先は、本作で見つけた《勝手に名言集》みたいな。
「園田編集長のような肩を、私は大勢見てきました。だがああいうタイプの人は、一度折れると根元から折れてしまう。強いが脆い。そういう気質です」上169p
「核家族は駄目だの不完全だの、巷じゃいろいろ言うがな。良心と子供、この組み合わせが家族の絆だ。核をしっかり作りなさい」上250p
「セクハラって、女性に甘えてるんですか」野本君が目をばちくりさせた。「女性を舐めてるんじゃなくて?」 「舐めてるってことは、許してもらえると甘えてるってことよ」 なるほど。それは言えるか。上316p
「足立という人は、そこまで思い詰めている様子でしたか」 「さあ‥‥。ごく普通の、気真面目な人のようでしたけどねえ」 生真面目だからこそ、怒るとブレーキがきかなくなるということもある。上318p
「人間は基本的に善良で建設的だ。だが、特定の状況に置かれると、それでもなお善良で建設的であり続けることができるタイプと、状況に呑まれて良心を失ってしまうタイプに分かれる。その〈特定の状況〉の典型的な事例が軍隊であり、戦争だ」上379p
10年近く前に単行本が出版された作品なのに
なぜかウクライナでの果てしない闘いと重なる言葉に、視線が釘付けられてしまう。
ま、そんなの今に始まったことじゃなく、ただ見ようとしてなかっただけ。
シリア、アフガニスタン、チェチェン、ミャンマー、スリランカ‥‥それこそ世界中で
先の見えない泥仕合が繰り広げられている。
ああ。また、しょーもない愚痴が始まりそうなので、今日はここらで。
。。と書いたそばから、あといっこ。
悪は伝染する。いや、すべての人間が心のうちに深く隠し持っている悪、いわば潜伏している悪を表面化させ、悪事として発症させる〈負の力〉は伝染すると言おうか。45p
ではでは、またね。