流行語はウイルスに似ている。
と私は思った。「リスク」も「バブル」も、殻と遺伝子しか持たないウイルスのように語感が軽い。軽さゆえに日常会話に吸着して侵入し、内部で自己複製をして増殖する。気づかぬうちに身体を乗っ取られてしまうのである。(132ページ【リスク】より)
40年近くも昔に昔に遡るが
テレビ番組制作会社に勤めていた頃の高橋氏と
一緒に仕事をしていた時期がある。
彼は新米AD(アシスタントディレクター)、こちらは構成作家という立場だった。
当時の職場における呼び名は「モンゴル高橋」。
表紙裏の著者紹介欄のとおり、東京外大モンゴル語学科卒業から付いたものだ。
仕事上の立場と年齢差(こちらが上)ということもあり
遠慮なく「モンゴル」と呼ばせてもらっていた。
何冊も出版されている著作を読めば分かるだろうが
すでに当時(20代前半)から、どころ老成した雰囲気を漂わせており
常に当たりが柔らかく、いついかなる時でも笑顔を浮かべていたという記憶がある。
また、何かこちらから尋ねたり話しかけたりすると
決まっていったん「うーん、そうですねー」「えーと」などの間投詞を発し
一拍二拍のタメを作ってから、相手を刺激しない言葉を発していた。
きっと今お会いしても、その印象は変わらないのだろう。
ま、自己満足でしかない思い出話はこのくらいにして。
『不明解国語辞典』についても、少しぐらい書かないといけないな。
自身の祖先とルーツをたどる旅をメインに据えた『ご先祖様はどちら様』。
大人になって初めてスイミングに挑んだ経験を綴った『はい、泳げません』。
様々な社会の現場?を回りつつ、日本の奇妙な政治に迫る『からくり民主主義』など。
彼の著書には、本人が直接体験したあれこれを本にまとめたパターンが多いが
本書のテーマは、いま少し抽象的なジャンルを取り上げている。
日常生活のなかで我々が何気なく使っている「慣用句」にスポットを当て
ひとつひとつの言葉の《根源的な意味》に、迫ってみた
(「迫る」、ではなく、あくまで「迫ってみた」というのがミソ)一冊だ。
たとえば、最初の【あ】――あ、どうも は、次のように始まる。
「あ、高橋秀実です」
電話をかけて相手が留守番電話だった場合、私は必ずそう吹き込んでしまう。名乗る前につい「あ」と声を出してしまうのである。 (22ページ)
いつも通り自身の体験や言動を随所に絡めつつ、「あ」に関する考察は動き出す。
「あ」は呼ばれて応える時の返事だという。人に呼ばれて「あっ」とか「あー」などと言っているうちに、それがまず「吾(あ)」、つまり一人称になり、やがて「れ」が付いて「あれ」という二人称や三人称に転用されたというのである。
本当だろうか。 (27ページ)
いったんは、専門的な立場から迫ってみるものの
返す刀で、「本当だろうか」と自身の気持ちに揺り戻してしまう。
この、〈思索〉と〈感覚〉の"いったりきたり"が、著者の得意技のひとつだ。
かと思うと
女性たちの間でもこんな挨拶もよく耳にする。
「あらー」
「あらー」
呼ばれてもいないのに「あらー」。「あらー」と呼ばれて「あらー」。オウム返しを繰り返して、どっちが呼びかけたのかわからなくしているのではないだろうか。この「あら」は「ああ」「あな」「あよ」と並んで「あ」から派生した感動詞らしく、富山県では道で人に会うとこう言ったりする。
「あれー」 (29ページ)
著者の作品には、しばしば伴侶が登場するが
(そこで彼は恐妻家として様々な体験を披露している)
ここでも、女性の言動(習性)に感心を向けたかと思うと
そのまま言語学的分析へと、振り戻してゆく。
ちなみに本論とは関係ないが、富山の「あれー」は事実である。
富山出身である相方の実家を訪ねると、玄関に出てきた義母(80代後半)は
必ず「あれー、ようこられた~」と笑顔で迎えてくれる。
コロナのせいで二年近く会っていないので、すごく懐かしい。
それはともかく、「あ」に関して10ページほど費やした考察は
次のように、着地している。
おそらく「あ」は日本人のコミュニケーションの原型なのである。呼ばれてもいないのにいきなり「あ」と返事をする。「あ」にたいして「あ」で返す。実際、誰かが「あ!」と叫べば、「何?」「どうした?」と訊きたくなるわけで、お互いに「あ」「あ」と言い合って、何が「あ」なのかと言葉を引き出そうとしいるのだ。(30P)
こんな調子で、以後も「いま」「うそ」「えー」という断片的な言葉から
「意見」「リスク」「社会」「普通」などの無意識に使っている抽象的な用語
ひと言で意味を説明できない「スッキリ」「こころ」「しあわせ」「バカ」まで
縦横無尽に『日本の言葉』を切り刻んでは、再構成してゆく。
・・というほど、きっちり結論付けたものは、そんなに多くないんだけどね。
それでも、一般読者には近づき難い「社会言語学?」という岸壁に向かい
自身の体験を楔のように打ち込むことで、揺るぎない足掛かりを確立し
〈日本人と言葉のありかた〉を一望する頂へと導く著者の手腕は、半端ではない。
もしかして私たちは謝罪したくないのだろうか。「申し訳ありません」というのも申し訳(弁解)ができないと言っているだけで、謝罪というよりあらかじめ釈明を避けている。謝罪といえば「おわび」が定番だが、考えてみればこれもかなり不思議な言葉。「おわび」とはもともと「侘び」で「侘び寂び」の「侘び」なのである。〈中略〉
要するに、謝罪ではなく困惑。「本当に困りました」としょぼくれてみせることなのである。 (262-3ページ【すみません】より)
おそらく、再び言葉を交わすことはないと思うが
今後も、彼の著作を見つければ入手し
興味とローテーションの赴くまま、ページを開くことになるだろう。
なぜならば、文中で「あ、高橋です」と書かれた文字を目にするたびに
「モンゴル高橋(20代前半)」の、歳の割に落ち着いた
そのくせ低くはない声が、頭の中で蘇るのだから。
ではでは、またね。