「人間の本質って、たいがい第一印象どおりものでしょう。親しくなったら、そのぶん相手をよく知ることができる、というわけでもない。ひとは、言葉や態度でいくらでも自分を装う生き物だからね」
ずいぶんさびしい意見だ、と多田は思った。 (『多田便利軒』48ページ)
東京郊外のまほろ(町田)市で便利屋を営む多田啓介(30代バツイチ)と
彼の元に転がり込んだ高校時代の同級生・行天春彦(同学年バツイチ?)が織りなす
便利屋稼業の日々と、仕事先で出逢う人々との関わりを通じて
二人の秘められた過去が少しずつ明かされ、"止まっていた時間"が動き出してゆく。
簡単にまとめると、そんな雰囲気で展開してゆく物語だ。
とはいえ、そこは〈クセモノ作家〉三浦しをん。
ありがちな「青春・友情・成長ストーリー」のパターンになど、陥るものか。
仕事の増加とともに人間関係も広がり
途切れていた関りが芋づる式にたぐりよせられるつれ
多田の離婚した原因(息子の死)や
行天の過去(レズカップルの片方に精子を提供した)などが明らかになるものの
だからといって、"絡まった糸"がすんなり解きほぐされるわけもない。
まるでふたりが暮らす「まほろ市=東京都町田市」のように
どこにも着地することなく、プカプカ浮遊するばかりだ。
まほろ市民はどっちつかずだ。
まほろ市は東京の南西部に、神奈川へ突き出すような形で存在する。東京の区部から遊びにきた友人は、まほろ市に都知事選のポスターが貼ってあるのを見て、「まほろって東京だったのか!」と驚く。地方に住む祖母は、何度言い聞かせても、「神奈川県まほろ市中町一丁目23 多田啓介様」という宛名で手紙を送っている。(同 60ページ)
上記の〈どっちつかず感〉は、うたた(俺だ)自身が東京都青葉区としばしば呼ばれる
田園都市線沿線エリアに長年暮らしているだけに、身に染みて実感できる。
しかも普通、こうした"認識のズレ"はマイナス要因と受け取られるものだが
東京都(横浜市)青葉区も(川崎市)宮前区も、隣接するまほろ(町田)市と同様
むしろ、この〈どっちつかず感〉を好ましく受け止めている・・ような気がするのだ。
同じように、本作の主役である多田啓介と行天春彦も
己の最奥にカギをかけて封印した〈苦悩〉や〈迷い〉の根本的な解決を
心底からは願っていないように思えてならない。
少なくとも、組織の一員となることに何ら価値を見出せなかったうたた(俺だ)は、
決して心から"分かり合う"ことがないだろう彼らの"宙ぶらりん"な関係に
・・うんうん、人間って、そんな簡単に理解し合えるわけないよね!
と、強い賛同の念を抱くのだった。
作者お得意の「コミカルな会話」や「チグハグな行動」のおかげで
数ページに一回はクスリと笑わされる、そのいっぽうで。
ときおり、遥か上空からすべてを見つめている〈醒めた視線〉が
雲の切れ間から降り注ぐ"天使のハシゴ"のような
容赦ないスポットライトを浴びせ、その〈本質〉を暴き出す。
ダイヤモンドの大きさや、婚約者のお披露目や、職場での過剰な気づかいや意地の張り合い。由香里の語ったすべてに、多田はたじろいでいた。それらが愛とはべつの次元にあると思えるからではなく、愛の本質を突いていると思えるからだった。
金額や周囲の評価やプライド以外に、愛を計る基準があるだろうか。殉教者ですら、天秤の自分の命を載せて愛の重さを知らしめてみせる。
最適な秤を見いだせていれば、多田の結婚生活ももう少しましな結末を迎えていたかもしれない。
しかし、計ってもむなしいとも思えるのだった。どんなに堅実に計画し、実行に移したとしても、一瞬ですべてが崩れることはある。計量器の針は測定不能値を指し、星が消滅するときに似て、莫大なエネルギーが暗い空間に吸い込まれていってしまう。
〈『番外地』29ページ)
「宮本さんの話から受けた印象と、どうもちがうと思わないか。武内さんは気が利くし、そんなにひどい性格じゃなさそうだぞ」
「俺はたまに、あんたはほんとのアホなんじゃないかなと思う」
と、行天は淡々と言った。「気が利くってのは、裏返せば外面がいいってことだ。この部屋を見ればわかるでしょ。それに、本当の悪人なんてめったにいない。だれだって愛されたいからね」 (『番外地』34ページ)
もちろん、こうしたドライな視点とバランスを取るように
ウエットな表現もまた、随所に顔を覗かせている。
年を取ると堪え性がなくなると言うが、本当だ。怒りや不安は場面に応じてまだ抑えられることができる。けれど、愛おしいと思う心だけはあふれでてしまう。互いしかしない老後のさびしさがそうさせるのか、ひとの心を構成する本質が愛情なのかは定かではないが。 (『番外地』173-4ページ)
ま、この〈秀逸なバランス感覚〉こそ、"宙ぶらりんの強み"でもあるのだが。
そんなわけで、最終巻『まほろ駅前狂騒曲』に至っても
物語は――大多数の読者が抱くだろう期待などどこ吹く風とばかり――
大団円どころか、着地体制すら見せぬまま
ドライとウエットを噴出しては、さほど高くない空中をふわふわ漂い続ける。
「大事なのはさ、正気でいるってことだ。おかしいと思ったら引きずられず、期待しすぎず、常に自分の正気を疑うってことだ」
「自分の正気を?」
「そう。正しいと感じることをする。でも、正しいと感じる自分が本当に正しいのか疑う」 (『狂騒曲』382-3ページ)
相手の求めるものがなんなのか、想像し、聞き、知り、応えようとすること。「ふつうに愛する」とは、そういうことではないか。 (『狂騒曲』383ページ)
一度味わった感情や経験を消すことはできない。抱えて生きるだけだ。行天はそれを淡々と実践しているし、淡々とした実践の軌跡に満足しているのではないかと、多田には思えた。どれほどの努力と苦しみを要する実践であるか、吹聴するのは行天のよしとするところではないだろう。 (『狂騒曲』444ページ)
物語のエピソードをなぞってみれば
多田は新しい恋人を得て、終始後ろ向きだった気持ちを見直しはじめた。
いっぽう行天は、遺伝子上の娘と暮らすうちに
長らく封印していた"己の過去"と向き合うきっかけ?を掴んだ・・のだろうか。
周囲の人々との関りが深まった分、親密になったように錯覚するけれど
ふたりの(心の)距離が、大きく狭まったとは思えない。
いや。
心さえ通い合えば万事OK! って、ことじゃないだろ。
安易に踏み込んで、もたれ合う関係(=運命共同体)に陥らないからこそ
ひとりひとりが、"己の意志"で生きていけるのだ。
うーーーん。
ライトな小説のふわふわした終わり方をどうやって消化すればいいのか
あれこれ思い巡らせるうちに
三浦しをんの作品に通底する《ドライとウェットの並立》に触れたくなって
ずるずる話がややこしいほうへと、流れてしまったよ。
だって、どう考えても「みんな笑顔でめでたいめでたし」なんて薄っぺらい言葉で
終わらせられる作品じゃないだろう。
もちろん、心に傷を抱えるふたりの元少年が再生・成長していく物語
なんてプレーン&ソフトに紹介しようと、何も問題ないんだけど。
一皮めくって飛び込んでみると、意外に深いところまで潜れてしまう作品だ。
ってことにも気づいてほしいのだ。
少なくとも、うたた(俺だ)にとって、この三部作は
ドライとウェットの二律背反(アンビバレント)にシビレつつ
どこまでもいつまでも低空を漂い続ける"宙ぶらりん感覚"を満喫できた
ある意味、〈生きる哀しみ〉に彩られたストーリーだった。
すくなくとも。『狂騒曲』末尾の解説の
何となく背筋が伸びて、やみくもに、良く生きよう、と思うのだ。(521ページ)
などという前向きな思いは、ひとつも湧いてこないのだ。
ーー単なる、ひねくれ者の世迷言なんだけどね。
ではでは、またね。