前作『図書館の魔女』全四巻(文庫版)に続くシリーズの2作目。
秀逸なストーリーやキャラクター、本作ならではの魅力などに関しては
下巻末に載った書評家・豊崎由美の情熱的な解説がほぼ語り尽くしているので
そちらに目を通していただいたほうが手っ取り早いだろう。
とりわけ強い共感を抱いたのは、次の一節である。
ちゃんと話せないから馬鹿だ迂鈍だと軽んじられていたエゴンが、物語の大団円で一番の功績を果たす。伝達手段としての言葉の多様性とは何か、本物の知性とはどのようなものを指すのか。ほとんど声を発しないエゴンを通して、固有名詞以外カタカナを一切使わない作者の美しい日本語を通して、わたしたちは学ぶことになる。それが、この小説を読む醍醐味といえるのだ。〔下巻443p〕
まことに、おっしゃる通り。
ただし「誰よりも軽んじられていた者が一番重要な役割を果たし」たり
「最も侮られ蔑まれる人々が、高潔な矜持と仲間意識の持ち主」といった
《弱者=強者》の図式は、既に多くのマンガやエンタメ小説で体験済みだったので
書評家のように手放しで絶賛する気にはなれなかった。
それでも、ジリジリするような心理戦や政治的駆け引きが延々と続いた
シリーズ一作目(『図書館の魔女』)に比べれば
アクション主体でよりエンタメ色の強い展開のおかげで
すんなり物語世界に溶け込み、ストーリーを楽しむことが出来た。
そんなこんなで、面白いことは、面白かった。
でもって、わざわざ本書に"難癖"をつけるつもりもなかったのだ。
――たまたますぐ後に、『鹿の王』の本編と外伝を読みさえしなければ。
とはいえ、気になってしまったものは仕方がない。
必然的に『鹿の王』との比較になるが、2点ばかり指摘させていただこう。
まず、上下巻あわせて800ページ(文庫版)を超える大長編である
本書を読んでいる間じゅう、小さなイライラが付きまとっていた。
いつまでたっても、登場人物の「名前」と「顔」が一致してくれないのだ。
具体的に言うと、カタカナで示された人の名前が出てくるたびに
「あれ? これって誰だっけ?」と、冒頭の《主要登場人物一覧ページ》に戻り
その正体を確認しなければならなかった。
普段から小説を読む際には、常にミニサイズの付箋紙を用意。
見慣れぬ名前が登場するたび男女別に色違いのマークキングを施し
それをもって「登場人物一覧」に代えている。
おかげで、後になって"この人誰だっけ?"が発生するたび
付箋紙を貼ったページに戻っては、その正体を確かめるのが習いなのだが
通常なら3回も繰り返せば「名前」と「正体」が結び付くところが
本書の場合に限っては、何回登場しても"誰だっけ?"のまま。
冒頭の「登場人物ページ」に戻ったり
本文中に添付した付箋紙たちを再確認せねばならなかった。
しかも、その状態が、下巻の中ほどまでず~~っと、続いたのだ。
直後に読んだ『鹿の王』シリーズでは
せいぜい3回も目にすれば、しっかり「名前」と「顔」が紐づけられ
すぐに"付箋紙要らず"の状態で、快適に読み進められたのに。
なぜ、こんなにも登場人物が覚えにくいのか?
うたたの結論は、〈一貫性の無さに原因あり〉だった。
例えば『鹿の王』の場合、国や民族によって"元となる語感"が共通している。
乱暴に言うと、中国語風だったり、古い日本語調だったり。
おかけで、初めて目にする名前であっても
あらかじめどのグループに属しているかが予測でき
その分、頭の中の登場人物一覧に組み込みやすくできているのだ。
これに対し、『図書館の魔女』シリーズに登場する人々の名前には
剛力・ニザマ・鼠など各グループごと名前が、ブレているように思える。
言語学者でもある作者的には、おそらく熟考の上に考え出した名前たちだろうが
うたたの"ストライクゾーン"からは、ことごとく外れているらしく
本文を読み進むにつれ、主要人物の1人だという既視感こそ強まるものの
それが「どこの誰だったのか」、いつまでたっても頭の中に定着しないのだ。
・・・これは、苦しい。もどかしい。
結局、上巻どころか下巻の後半に入ってもなお
「マォリゥ」や「ナオー」が何者なのか判然とせず
首を傾げながら、冒頭6-7ページの「主要登場人物」を見返す始末。
次に読んだ『鹿の王』で、あっさり立ち直ってくれなかったら
"いよいよ俺も認知症患者の仲間入りか・・"と、ガックリしてたに違いない。
てなわけで、ひとこと苦言を。
言葉の研究を専門とする言語学者なんだろ?
頼むから、もっと「名前」と「顔」が一致しやすいネーミングを考えてくれ~。
んで、2つ目の文句も、作者の"学者脳"について。
解説の筆を執った豊崎氏も、意識的にか無意識的にか、触れていた。
もう一度、引用しよう。
伝達手段としての言葉の多様性とは何か、本物の知性とはどのようなものを指すのか。ほとんど声を発しないエゴンを通して、固有名詞以外カタカナを一切使わない作者の美しい日本語を通して、わたしたちは学ぶことになる。それが、この小説を読む醍醐味といえるのだ。〔下巻443p〕
そう。作者の美しい日本語を通して、わたしたちは「学ぶ」ことになる。のだ。
だけど、それをもって「醍醐味」なんて手放しで絶賛しちゃっていいのか?
学術書や新書ならともかく、小説の醍醐味は「学ぶ」ことじゃない。
少なくとも我々は"学び"ではなく、"楽しむ"ために物語を読んでいるのだから。
知らなかった知識をあれこれご教授していただくのも、決して嫌いではない。
だけど、物語なんだよ。
もっと目線を下げて、読者に寄り添ってほしいかも。
・・と、ないものねだりをブツブツこぼす、トンデモ読者なのだった。
面白かったからこそ、重箱の隅の些細なキズにイチャモンつけてしまったよ。
ではでは、またね。