鎌倉の高校生を前にイソダ先生がおこなった特別講義を書籍化したもの。
学生向けの平易な語り口のなかに、歴史に向ける鋭い"見方・考え方が"キラリと光る。
歴史と人間 時間や空間を飛び越せる動物
多くは、個体の体験や記憶だけで行動するのが通常の動物であるのにたいして、人類は、他の個体が経験したものを、なんと空間や時間を飛び越して、人類共有の財産にして、次の行動が学習されていって、もうちょっとましに生きられる、もしくは愚かな考えをも伝えて、差別や偏見を後代に残したりしています。これが「歴史をもつ」ということであり、その意味でぼくら現生人類=ホモ・サピエンスとはきわめて不思議な生きものだということを歴史学習の前提にまず考えておいてください。 [18]
記号、シンボル、抽象化
石器を使ってモノを切ったり刻んだり刺したりするだけならば、別にどんな形だって全然かまわないわけです。
ところが、これ、わかります? 左右対称-シンメトリーになっている。これでもか、というほど、こだわって時間をかけ、左右対称な石器を作りはじめます。
考古学者たちは――人類学者たちも――これを“凝-こり”と呼びます。見てください、両方が同じになるまで‥‥。もう絶対に両方同じじゃないと気がすまない、石器作りに「凝る」オタク原始人がいたんですよ(笑)。 [20]
針とビーズ
原始人の洞窟からは、実用でないビーズが大量に出土します。なぜでしょうか。
原始人のメスは頼りになるオスを見つけるのに必死です。同様にオスもメスに選んでもらうのに必死です。いまは、異性に愛を告白するときどうしますか。
指輪など、しばしば象徴的なプレゼントをしますね。原始時代はどうだったのでしょう。ある者は現実的に肉をもっていったのかもしれません。
しかし、原始人のなかにもシンボリックなもの、たとえば花をもっていって告白した者がいるかもしれません。あるいは、ビーズをもっていくとメスがすごく喜んだときがあったのかもしれません。メスが反応していなければ、こんなにたくさんのビーズは出土しないように思います。
肉をとらずに生存の危機に陥ってでもビーズを、こつこつ、つくっていた原始人もいたわけです(笑)。〈中略〉
この男女、逆もあったかもしれません。大事なことはビーズのような食べものでもないたんなる嗜好のものに、これだけ必死になっていったらしいという点です。そこが人間、とくに現生人類とよばれるホモ・サピエンスは、明らかに他の生きものとちがうのです。 [23]
ブタやトイレに歴史はあるか
学校では、歴史は暗記ものになりがちですね。しかし、ぼくはあんまり暗記ものだと思ってません。むしろ「なぜそうなったのか」を一所懸命に考えることが、ぼくにとっての歴史です。 [31]
たいていの学校のクラスでは「自分の近い先祖が教科書に載っている」という生徒は少ないでしょう。司馬さんが歴史を人生の集合体といっても歴史はクニにかかわるような「偉人」「英雄」とされる人の人生しか拾っていないのが現実です。
はたして、偉人といわれる人たちのことだけが歴史でよいのでしょうか。
政治や戦争だけが歴史なのでしょうか。
勝った側から見たものが歴史なのでしょうか。 [32]
ただし、ある程度の法則性はある 過去の場合は、短期的には、新技術が社会にひろがると、たいていは貧富の差が広がっています。これが歴史の教訓です。
さらにこんな例もあるかもしれません。権力者が急にお金持ちになり、子どもを徹底して甘やかした場合どうなるか。豊臣秀吉と秀頼とか。世界じゅうでその事例を集めて比較してみましょう。成金の権力者が子どもを極度に甘やかすと、たいていは滅びやすくなります。秀吉は、おもちゃを中国から秀頼のために取り寄せ、「秀頼の言うことをきかない次女は折檻する」と、おどしています。これもなんとなくわかりますね。
人間性とは、生きものとして似ているものですから、ある程度、似たようなことになるのです。だから歴史とは、ある程度、反復性があります。実験で再現不可能ですが、歴史は参考程度にはなるそれなりの教訓を含むと見るべきです。 [45]
歴史とは靴である
好き嫌いで論じられるものは嗜好品です。酒やタバコと同じです。
はたして歴史学は、好きか嫌いかで選べるものでしょうか。
どうもちがう気がします。
歴史的にものを考えると、前より安全に世のなかが歩けます。歴史はむしろ実用品であって、靴に近いものではないか。ぼくはそんなふうに考えます。
われわれは未来を見ることは直接にはできません。しかし、たとえば(教壇上を後ずさりながら)後ろ向きに歩いていく。下は見えます。過去の経験で、ぼくは教壇の幅は二メートルか三メートル、短いところは一メートルないとわかっていますから、この辺まで来たら、そろそろ落ちるとわかる。 [47]
つまり過去を見ながら、ある程度、ここからここまでの距離で、もうそろそろ落ちるとわかります。これが実は歴史の教訓性であり、歴史の有用性といっていいと思います。
矛盾が大事 次に歴史の視点の問題について考えましょう。だれの視点からモノを見るか、ということです。その点、歴史とはメガネでもあります。
歴史には「客観性」の問題があって人によって同じものを見ても見かたにちがいいが生じます。非常にむずかしい面があります。 [49]
自分の思いこみではなくて、自分が前に思っていたのと全然ちがう情報を大事にするというのが、じつは世のなかを生きていくうえで肝心です。 [51]
問題なのは、史実はひとつですが、どこを見るかで、ずいぶん違った話になります。
ここに重要な点があります。
自分に都合のいい史実だけを見ようとすると、見えるものが、とても少なくなってしまう点です。双方の利害、複数の視点で物事は見えなくてはなりません。勉強でも学問でもここが急所です。そしてここから先がほんとうに大事です。 [53]
自分にとって有利な情報も、有利でない情報も、両方しっかり見なくてはいけません。
一次史料と二次史料
歴史は、さまざまな過程で、事実でもないものが史料として混入してきます。見分けて吟味しないといけません。これを「史料批判」といいます。 [70]
これは歴史学にかぎりません。
あなたたちが読んでいる新聞だって、内容が全部ほんとうであるとはかぎりません。ある人が意図にもとづいて流すウソだってあるわけです。いまやアメリカの大統領がツイッターであれこれつぶやく時代です。ホンモノもウソも、いっぱい情報が世の中にころがっています。みなさんはそこを歩いていくのです。
子どもに、オスとメスってどうしてあるの? と聞かれたとき、すぐにコピー機をもち出して、コピー機で何度も何度も同じものをとりつづけて、文字が歪んてくるのを見せたのです。同じ人間がオス・メスなく混じりあわせて、設計図を取り合うとかしなければ、ずっとやっいくと、ぐにゃぐにゃになって劣化していく。だから、二つのちがうものを混ぜて、設計図を取っていくという方法をしないと、生きものは滅んでしまいかねない。〈中略〉
とにかくコピーのコピーはよくないのです。二次情報、三次情報、伝言ゲームになるとまずく、二次史料は原則として要注意なことがわかります。 [72]
「いまだから言える」ということ
一次資料がいちばん正しいという考えは、ほんとうにまちがいないでしょうか。
ちょっと考えてみてください。必ずしもそうではないでしょう。
世のなか、あとになってから、
「いまだから、ほんとうのことが言える」ということだらけです。
しばしば、歴史学をちょっとかじった人が「一次史料だから正しい」と言いがちなのですが、ぼくは一次史料絶対主義には注意しないといけないと思うんですね。 [73]
文字をもつ人、もたない人
けれども、史料には限界もあります。
そもそも古文書‥‥これがよくないのです(笑)。
ぼくが歴史学でいちばんイヤだと思うのは、証拠や史料に残っているものだけで世のなかができていると考えがちなことです。 [82]
要するに、結婚など、公然にできる非日常なできごとは記録されやすい。いっぽう、あまりにも日常のできごと、トイレに行くとか、水を飲むとかいう本人にとって、ささいなできごとは記録されないのです。
だから、非日常なことばかりを記録した史料で歴史を書くと、非日常なことばかりの歴史になってしまい、日常的な歴史はわからなくなります。
文字をもつ人は記録されるが、文字をもたない人は記録されないということでもあります。こういう問題が歴史学の宿命としてあるのです。 [83]
後半の「質疑応答」と「対談」では
直接生き方や考え方に関わる経験談や知見が次々に披露される。
凝り固まった頭の中を"掃除"するのに最適な書のひとつ。
あと、ひとつだけ、どうしても読んで欲しい〈名言〉があった。
これもドサクサ紛れに紹介してしまおう。
目先で役に立ちそうに見えるものは、すぐに役に立たなくなりもします。
一見ムダなものがあとで役に立つこともあります。まわり道もけっしてまわり道ではないということが大事だと思いますね。〔138〕
うーーーん、ホントにそうだよなぁ。
ではでは、またね。
台北市内の夕焼け空(2019.9.27)