歴史的事実に関して
"あ、これはウソついてるな!"と気づくとき
そこには、必ずいくつかの共通項が存在している。
なにより、「ウソをつくことで得をする人々(組織)がいる」こと。
ほとんどの場合、それは当時権力を握っている為政者たちだ。
〈ウソをつかないと、自分たちが創り上げた社会的価値観が揺らぐ〉からである。
江戸時代初期で言えば
「武士こそ男子の理想像。まして男より強い女など、絶対に存在してはならぬ」
男尊女卑は士農工商と並ぶ、社会の大原則。
これに反する存在は、一切認めるわけにはいかないのだ。
そして、もうひとつ。
この手の「ウソ(捏造)」は、権力側に近づけば近づくほど、強固になってゆく。
〈誤魔化すためのウソ〉は、必然的に《後からデッチ上げ〉ざるをえない。
具体的には、時の政権が、自分たちに都合のいいように書き換えた「虚偽」を
"これこそが正しい歴史(正史)である!"と、大々的に発表。
同時に、どこからも文句が出ないよう、上から圧力をかけ
これと矛盾する〈真実の記録〉を、可能な限り消し去ってしまう。
結果として、後世に残される「公式文書」は、ことごとくウソ一色で勢揃い。
しかし、それでも、ウソの対象となった当事者たちの周囲には
消し去りきれなかった〈真実の痕跡〉が、否応なく残り
喉に刺さった魚の小骨のごとき"不可思議な矛盾点"となって、秘かに伝わってゆく。
本作で紹介され、物語のベースに採用された『上杉謙信女性説』は
そうした〈歴史的ウソ(ゴマカシ)〉の典型といえる。
作品中で紹介されたものだけでも
"女性だったらすんなり納得できる矛盾点"は、山ほど存在している。
まず、何よりも、当時の戦国武将としては考えられないことに、謙信は生涯独身を通して妻をめとらず、子供も一人としてもうけなかった。①
第二に、五十歳を前にして没した謙信の死因が(当時の文書に)「大虫」とはっきり記されているということ。「大虫」というのは現代で言う婦人病の一種であり、謙信が倒れたのは、城内の厠においてであった。②
その死因と関係するように、生前の謙信は毎月十日前後に腹痛を発し、合戦中にもかかわらず兵を引き部屋に籠ることがあったという。
この周期的に発生する腹痛は、月経によるものではないかと推測されている。③
実は、謙信が生きた時代、女性の城主は珍しい存在ではなかった。〈中略〉
女性の城主が禁じられたのは、謙信が当主だった頃よりもっと後‥‥
江戸時代に徳川家が幕府を開いて「武家諸法度」を発布してからのこと。④
残された甲冑の大きさなどから推測するに、謙信の身長は五尺二寸(約一五六センチ)程度であったにもかかわらず「大柄」と伝えられている。
これは「女性にしては大柄」という意味だったのでは?⑤
山形県米沢市にある上杉神社には、謙信の衣類が数点遺されているが、それは真っ赤な花模様や舶来生地のパッチワークの‥‥どう考えても女物?⑥
当時スペイン国王が派遣した金採掘の調査隊員・ゴンザレスの報告書の中には「上杉景勝の叔母」として記録されている。⑦
越後に伝わる「ごぜ唄」という民謡に、こんな歌詞がある。
♪とら年とら月とらの日に 生まれたまいしまんとらさまは
城山さまのおん為に 赤槍立てての御出陣 男もおよばぬ大力無双
もちろん「まんとらさま」とは謙信のことである。⑧
かの有名な謙信の肖像画‥無精ヒゲを生やし、いかにも強面の男子として描かれているが‥‥実はあの肖像画は、謙信の死後、江戸時代に描かれたものである。
実はもう一枚別に、謙信が幼少時代を過ごした曹洞宗・林泉寺に、約四百五十年前の謙信の肖像画が保管されている〈中略〉先程の「ヒゲ」の画よりもずっと以前、謙信が存命中に描かれ、現存している唯一の肖像画である。その画に描かれた謙信は、ヒゲもなければ強面でもない。〈中略〉越後の猛将、上杉謙信は女だった。⑨ (第一巻冒頭)
もろちん、偉い歴史学の先生方は、これらひとつひとつの矛盾点に対して
それなりの回答(理由づけ)を発表している。
※①③については、宗教上の理由。②については「実は脳卒中だったらしい」etc
しかし、正直、どれも苦しいコジツケにしか聞こえない。
たとえば①。"跡継ぎ作り"は戦国大名に課された最も重要な「使命」のひとつ。
本人がいかなる信心を貫こうと、家臣たちはあらゆる犠牲を払って後継者を希望し
それが叶わぬ場合、主君を追い落とすケースも少なくなかった。
なのに、なぜか謙信だけは、それが許されていたのだ。
(史実では、忠実であるはずの家臣が何度も謀反を起こしている。
だがそれこそ、"女の主には従えない"という〈男が上〉思想の可能性が強い)
②も、わざわざ「女性特有の病」を死因に記し、しかも訂正しないとか、有り得ない。
なにより腑に落ちないのは
日本中どこよりも上杉謙信をヒーローと崇める庶民が多い、他でもない地元に
江戸時代以降の価値観からすれば
明らかに「強くて男らしい我らが主君」のイメージに反する
〈女らしいエピソード〉が、こんなにもたくさん残されている、ということだ。
しかも、なぜかそれは、上杉謙信だけにまつわる〈変な話〉。
謙信以外の武将に、類似の記述は存在しない。
もし謙信が男だったら、本人や遺族が真っ先に否定し改めないとおかしい。
それくらい、不名誉極まりない、いわば〈汚点〉なのである。
他にも、"男だったらどうなのよ?"という記録は、数多く残されている。
不思議なことに謙信は、他国の大名に会った時、大名本人以上にその母や妻と深く交流をしていたという。例えば謙信が三十歳の頃、京都に上洛して足利将軍家に挨拶に行った際も、足利義輝の妻や母と仲良くなり、なんと義輝抜きで個別に会っている。
御簾越しに男性と隠れて会う都の上流階級の女性が、夫以外の男性(しかも謙信は独身!)と堂々と会うなど考えられないことであり、謙信が男なら、嫁と逢い引き‥‥足利義輝も嫉妬するはずだが、嫉妬どころかむしろそれを歓迎していたそうで、それはつまり不倫の心配がない相手だったからなのではないか‥‥ (二巻148ページ)
お花畑。
戦国の城におよそ似つかわしくない名であるが、(当時からその名で呼ばれていた)。
この時代の戦国武将が植物園を持つことは、珍しいことではない。
信長も家康も大規模な薬草園を作らせていた。
でも、「お花畑」なんてかわいい呼び方で残ってるのは、この春日山だけ。(六巻28)
そして作者は、この『謙信女性説』を足掛かりに
「空白の一年間」の謎や、戦国大名としてはあまりに不可解な「出家騒動」をも
女性目線を駆使することで、見事に解き明かしてゆく。
そこいらの歴史小説家など足元にも及ばぬ洞察力を発揮し
「さもありなん!」という上杉謙信物語を創り上げてみせたのだ。
少なくとも、並み居る専門家の方々が唱える〈仮説〉に比べ
はるかに無理なく、納得のゆくストーリーである。
とにかく、可能な限り先入観をとっぱらって、上杉謙信の人生をたどってみると
どう考えても、「実は女性だった」と改めたほうが、納得できるのだ。
ではなぜ、こんなにも様々な〈証拠〉が残されているのに
一生を歴史に捧げる学者の皆さまは、「謙信女性説」を一笑に付すのか。
答えは簡単である。
『逆説の日本史シリーズ』の著者、井沢元彦氏も力説しているように
〈学者は、時の政権が正しい歴史だと主張する史料、歴史的事実と認めない〉からだ。
たとえそれが、"勝者が、後から自分に都合よく書き換えた「大本営発表」"だろうと、
「それは正史に書かれてないから、事実ではない」と、斬り捨ててしまうのである。
どうして、そんなバカバカしいことになるのか。
日本の歴史学界の絶望的状況については、ぜひ井沢氏の著書に当たっていただきたい。
ただここでは、「上杉謙信女性説」は、決してトンデモ妄想ではなく
「豊臣秀吉6本指説」「前田利家は信長の稚児だった説」などと並ぶ
十二分に真剣な検討に値する有力な見解なのだ、とだけ記すことにしよう。
幸い、現在に生きる我々には、手っ取り早い〈確認法〉がある。
言わずと知れた、『DNA診断』だ。
謙信本人の遺体からDNAを採取して調べれば、一発で正解が出てくる。
しかも、謙信の遺体は歴代藩主の霊廟(米沢)に現存している。
だが、しかし――
「謙信公の遺骸は上杉家では冒す事の出来ない神聖な物であり、現在まで一切の学術調査を拒否されている」とのこと。
なぜ、そこまで頑なに拒み続けなければならないのか。
"裏読み"大好きな当方は、ついつい
・・歴代天皇家の陵墓の発掘調査が絶対許可されないのと同様、「調べたら困ること」
が判っちゃうからじゃないスカ?
なんて、勘ぐってしまうのだった。
マンガの中身そっちのけで、歴史問題にハマってしまったぜ。
ではでは、またね。