京都錦小路の青物問屋の後継ぎとして生まれたにも関わらず
家業には一切興味を抱かず、早々と隠居を宣言。
生涯独身を貫き、妻帯もせず、酒もたばこもたしなまず
世間とも没交渉を貫き、ひたすらに画業(独学)に打ち込むこと半世紀あまり。
誰にもその才を認められぬまま、文字通り"絵に生涯を捧げた"不遇の天才。
もっと簡単に言えば
『絵を描くことにしか情熱を注げないヒキコモリ』
――それが、一般の人々が伊東若冲に対して抱くイメージだった。
本書は、そうした〈世間の勝手な思い込み〉が
どれほどデタラメで、"観客に取って都合のいい天才像"だったのかを
現存する歴史資料を駆使して、すっきり解き明かしてみせた。
もちろん、極限までリアリティを求めた末
数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、そのすがたかたちを観察しきった上で、初めてそれを写し取る。それが数年に及んだ。39p
といった、徹頭徹尾"観察"にこだわった逸話だとか
鶏の姿を感得したのち、今度は、草木や(鶏以外の)鳥、あるいは虫や獣、魚類といった生きとし生ける動植物の姿を知り尽くすことによって、それらのなかに潜む「神」に出会うことが可能になるし、そうした初めて手が動いて描けるようになった。41p
など、いかにも「オタク」的な対象への没頭ぶりは、紛れもない事実であろう。
しかし、そのいっぽうで
どこかヴィンセント・ヴァン・ゴッホを連想せずにはいられない
〈奇人変人像〉の大部分は、とんでもない濡れ衣だったことに
ようやく本書のおかけで、気付くことができた。
以下は繰り返しになるが――
家業(問屋)をまったく顧みず、ただ絵だけに生きがいを感じていた。⇒ウソ。
世間との交流が苦手で、ほとんど「ヒキコモリ」の人生だった。⇒大ウソ。
ゴッホのように、存命中は誰にも認められなかった。⇒デタラメ。
まったく、「シロートの勝手な思い込み」ほど、困ったものはない。
これまた愛用するフレーズだけど
――人は、自分が信じたいものしか信じない(ユリウス・カエサル)
そのまんまだ。
絵に描いたような〈社会負適合者=孤高の天才像〉を
かたっぱしからひっくり返し
リアルな「伊藤若冲」を、目覚めさせてくれた。
ちなみに"若冲初心者"のうたたが、特に心を惹かれた一節が、こちら。
気をつけて見ると、「動植綵絵」に限ってみても、葉に虫が喰った穴があいていたり、染みが出ていたり、枯れかかったりしている描写がはなはだ多いことに気づく。つまり、若冲は意識的に病葉(わくらば)を描くのである。吉祥画という意味では、これは大きな欠陥というほかない。ないが、若冲は敢えて病葉を描く。若冲画の本質が実はここに潜んでいるのだ。145p なにゆえ筆者がこのことに拘泥するかといえば、長谷川等伯の国宝「楓図」や狩野山楽の重要文化財「牡丹図」を例にあげると、それらの巨大な画面のなかには一枚の病葉も描かれていないのだ。それが普通なのである。普通だったのである。 若冲の病葉がいかに破天荒なことであるのかを知っていただきたい。73p-
キレイはキタナイ。キタナイはキレイ。
!リアリティの探究者"――伊東若冲の真髄、ここにあり。
恥ずかしながら、"若冲初心者"のうたたは
人生初にして唯一の〈ナマ若冲体験〉である。
なのに、いまなお、どこかアニメキャラのようなカッコイイ『鳳凰図』
リズミカルな尾羽の跳ね上がりが目を奪われた『仙人掌群鶏図』
病葉だらけの葡萄からヒュン!と一羽宙に舞う『葡萄小禽図』が
生き生きと脳裡に蘇ってくるのだ。
こんなにも〔判り易くて面白い〕絵画作品は、そうそうない。
ま、だからこそ、ここまで圧倒的な人気を博しているんだろうけど。
嬉しいことに、ほとんどの作品が未鑑賞のままだ。
さて、次はどの"若冲"に逢いに行こうかな・・
ではでは、またね。