山での死は決して美しいものではないし、「ロマン」という言葉の意味を抹消してしまうほどである。だからといって、アルパイン・クライマーは死を完全に取り去ることはできないし、その必要性もないと思う。世の中では安全登山ばかりを叫ぶが、本当に死にたくないならば登らない方がよい。登るという行為は、厳しい自然に立ち向かい挑戦することなのだから、常に死の香りが漂うのだ。 (151ページ)
まったくもって、そのとおり。
「安全を最優先せよ」というのは、「挑戦するな」と同義である。
だが、皮肉なことに、〈魂が震えるほど強烈な感動〉は
そうした挑戦の先の先、もっとも死に近い"崖っぷち"に身を置かないと
掴み取れないものだったりする。
だからこそ"死の香りが漂う行為"は、人を魅了してやまない。
そしてここにも、〈死の香り〉に心を奪われた、ひとりの男がいる。
登山家・山野井泰史。
酸素ボンベに頼らず、単独or少人数という軽装で
登頂困難な高峰・岸壁を踏破してきた世界的クライマーだ。
本書は、そんな山野井が、妻・妙子とふたりで挑んだ
ヒマラヤの高峰ギャチュン・カン登頂(2002年)までの足取りを
自身の視点で描いた、記録である。
自分の身体を使って、一歩一歩頂上を目指す実体験を持たず
"頭の中だけ"で登山という行為をこねくり回す人は
往々にして、アルパイン・クライマーを〈売名〉〈劣等感の裏返し=強さの誇示〉
などといった、"山登り以外の要素"と結びつけたがる。
自らの登山行為をネットで生中継することで世界の注目を浴び
幾度目かのチャレンジで落命した青年クライマーのことは、記憶に新しい。
では、山野井氏にとっての「登山」とは・・?
明らかに、様子が違うようだ。
ここで断っておくが、決して功名心から記録を発表するのではない。確かに高校生のころは、雑誌に載るような難しいクライミングをして、ほかのクライマーから認めてもらたいくて、うずうずしていた時期もあった。だがある日から、それは大変危険な考えであることに気がついた。クライミングはほかのスポーツなどに比べて、自分の力量が測りづらい。名声だけを求めて高いレベルに推し進めていくと、それは必ず死を予感させることにつながるのだ。ごく一部には売名行為のような登山をするクライマーもいるが、彼らの実力はたいていたいしたことがない。 (149ページ)
では、何が彼を山へと駆り立てるのか。答えは本書の中にあった。
僕は幼いときからほかの子どもよりも死を意識していたかもしれない。
「人生は、そんなに長くはないんだよ。明日があるとも限らない」
そんなことを漠然と考えている少年だったように思う。だからこそ、何かに情熱を傾けて生きていかなければいけないと考えていた。そしてクライミングに出会った。
(177ページ)
僕は計画の段階では死を恐れない。しかし、山に行くと極端に死を恐れはじめる。
なぜ、誰にも必ず訪れる死を恐れるのだろう。
この世に未練があるから恐いのか、死ぬ前にあるだろう痛みが恐いのか、存在そのものがなくなる恐怖なのかーー。しかし、クライミングでは死への恐怖も重要な要素であるように思える。
「不死身だったら登らない。どうがんぱっても自然には勝てないから登るのだ」
僕は、日常で死を感じないならば生きる意味は半減するし、登るという行為への魅力も半減するだろうと思う。 (178ページ)
〈死への怖れ〉と〈生への情熱〉。
ときには対立する、ふたつの強い想い。
『生きている実感』をたぐり寄せるために、彼は山に挑み続けている。
――そんな気がしてならない。
そして、最終第七章。
2002年、妻・妙子とふたりで挑んだ、ヒマラヤの高峰ギャチュン・カン北壁。
猛烈な寒波による凍傷・超高地での思考力低下を乗り越え
登頂を果たした帰路、大規模な雪崩に遭遇するも、辛うじて生還を果たした。
この"帰り道"を記した三十数ページに、山野井泰史の《生》が鼓動する。
だが、その代償は小さくなかった。
凍傷により手足合わせて十本の指を失い
トップクライマーとしての人生は、断たれたのだ。
しかし、それでも彼は、前を向きつづける。
嬉しいことにどんなに能力が落ちたとしても、憧れる山や岩や氷が頭に浮かんでしまうのです。そして登っている瞬間こそが一番幸せなのです。登り続けていられるだけで幸せなのはこれからも続くでしょう。だから命ある限り、足を前に出して岩をつかみ、上を目指していきたいなと僕は考えています。 (272ページ)
さて、〈安全〉と〈挑戦〉。
いずれを選ぼうとも、最期に待つ「運命」は、ただひとつ。
うたたなら迷わず、♪同じアホなら踊らにゃソンソン♪
やっぱ人生って、〈体験したモン勝ち〉。
実際、初心者レベルではあるが、テント一式を背負って縦走するなど
ひととおりの山歩きを体験していたおかげで
本書にひと言ひと言は、確実にリアルな感覚となって伝わり
単なる想像では得られない"強烈なインパクト"を、私のなかに刻み込んだ。
要するに――やらなきゃ、なんにも生まれない!!
てなわけで、コロナごときでオリンピックをナシにするのも、やっぱ反対。
"冥途の土産"が、そのぶん軽くなっちゃうじゃん。
ではでは、またね。