タイトルが示すように
日本最強の鉄砲傭兵軍団・雑賀衆の流れを引く天才少年
左利きの鉄砲使い小太郎を巡る物語である。
だが、ページを繰る私の目は
小太郎との出会いによって人生を急転させてゆく
戸沢家の猛将・林半右衛門(はやしはんえもん)の言動ばかり、追いかけていた。
時は、弘治二年(1556年)。
厳島の戦いの翌年、桶狭間の戦いの四年後という、戦国時代の真っ只中。
鉄砲伝来からわずか十三年しか経っておらず
国内で製造されたこの新兵器を求め、全国の大名が血眼になっていた時期である。
それだけに、百発百中の神技を持つ小太郎を求めて
近隣の有力者たちが熾烈な奪い合いを繰り広げることになるのだが・・
やはり視線は、"六尺を超す身の丈に、丸太のような腕と脚を備えた万夫不当の勇士"
林半右衛門の立ち居振る舞いに、吸い寄せられたまま。
いったいなにが、こんなにも心を捉えて離さないのか。
その理由は――彼の、とことん明るくシンプルな行動原理と死生観にあった。
たとえば、敵の大軍に城を囲まれ全員が餓死寸前に追い詰められると、こう決意する。
(俺が突出を試みる)
単身、白から躍り出て、堂々名乗りを上げて闘死する。この壮烈な死によって城兵たちは勇気を奮い起こし、挽回の手がかりを掴むかも知れない。籠城戦において、一人の名のある武将の闘死が、全軍を奮い立たせる例はまれではない。
(やるのだ)〈中略〉
半右衛門は窮していた。万に一つの可能性に賭けることよりも、むしろ自らの憧れである闘死自体が、すでに目的となりつつあった。 (単行本197-8ページ)
そう。いかにカッコよく生きるか。・・ではない。
"いかにカッコよく死んで見せるか"こそが、最大・最高の行動原理なのだ。
だからこそ、一軍の大将でありながら
常に半右衛門は、矢と銃弾が集中する最前線に我が身をさらし
愛馬と共に全軍の先頭を切って突撃を繰り返す。
「卑怯者」「弱虫」「嘘つき」などと笑われるくらいなら
ためらいなく自らの腹をかっさばくのが、彼らの〈生きる道〉なのだ。
現代社会に暮らす我々からすれば
なんと愚かで、無謀で、命を無駄にする野蛮人なのだ、と呆れることだろう。
けれども、"元気で長生きすることが一番の幸せ"と信じて疑わず
たとえ全力で自らの限界に挑んだ結果だとしても
"比較的早く死去した"数字ばかり重視し
彼・彼女の人生そのものを「残念だった」などと決め付ける。
そんな今どきの〈常識〉に、私は猛烈な"居心地悪さ"を抱いてしまうのである。
再び、本作のストーリーに戻ろう。
「カッコよく生きて、カッコよく死ぬ」ことに、全人生をかける武将・半右衛門。
しかし、領主と配下の命を救うため、やむなく決行した"恥ずべき行為"が
そんな彼の、誇りと生きがいを、ズタズタに引き裂いてゆく。
敵に対しては、無類の勇敢さでこれに打ち勝つ半右衛門が、いかにしても勝てないものがある。それが、自らの心の内に潜む自責の念であった。
この時代の男たちの中には、程度の差こそあれ、こういった者たちが散見できる。
即ち、卑怯な振舞いや、見苦しい行い、そして偽りを述べることを自らに固く禁じ、自らの心に一変の曇りもないことを自覚することによって、輝きを放つ男たちである。
(単行本245ページ)
はてさて、自らの存在価値を無にしかねない、この〈ジレンマ〉を
"武者の鑑-かがみ"と称えられる男・林半右衛門は
いかなる手段を持って解決し、すがすがしい結末へと導いてゆくのか。
・・その経緯は、ぜひとも原文で味わっていただきたい。
あと、半右衛門とライバル関係の敵将・花房喜兵衛も、カッこいい!
両者の闘いは、殺し合いなのに、どこか爽やかだったりする。
このあたりも、必読だ。
デビュー作『のぼうの城』と
なぜか本書は、いままで手に取らずにいた。
でも、それがよかった。
少々失礼な言い方だけれど、"余り物には福がある"。
個人的には、これが一番ズシンときたよ。
ではでは、またね。