ひとりひとりの人間は、"パターン"でも"タイプ"でもない 『なにかが首のまわりに』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 周回遅れの文庫Rock

わたしが書くことを選んだのではなく、

 書くことがわたしを選んだといいたい気持ちです』       (304ページ)

 デビュー後まもない頃の、作者のことば。

一度でいいから、こんなカッコいいこと呟いてみたいよね。

 

いつも読んでいる「エンターテインメント」とは

まるっきり肌触りの異なる短編集だ。

ナイジェリアに生まれ、若くしてアメリカに移り住んだ自身の経歴から

ほとんどの作品は、新天地アメリカで暮らすナイジェリア移民や

渡米を熱望するナイジェリアの若者たちを描いている。

 

移民といえば「異文化」がつきもので

本作もまた、ナイジェリアとアメリカ、ふたつの世界の間に立ちはだかる

暮らしや価値観の違いにとまどい、苦しむ様がリアルに描かれている。

しかし、一編一編を読み終え、ほっと息を吐いたあと。

いちばん長い間、心の奥深くに、しん・・、と残り続けるものは。

どこにも持って行き場のない、とてつもなく重苦しい"切なさ"なのだ。

 

たとえば、道を歩いているとき。

突然、声を掛けられる。

「ちょっと、これ、持っててくれない」

え? と応じる間もなく、一抱えもある箱を押し付けられた・・と思ったら

次の瞬間には、自分以外の誰もいなくなっていた。

なぜか周囲は見渡す限りの水浸し。

無事に箱を降ろせる場所は、どこにも見当たらない。

そのくせ、最初は空き箱のように軽かった箱が、徐々に重さを増していき

あっという間に、幼稚園児ほどの重量感を、両手と腰に伝えてくる。

反射的に受け取ってしまったことを後悔し

"――こんなクソ重たいもん、どっかに捨てちまおう"。

全部投げ捨て、逃げ出したくなる。

だけど、自分のなかのどこかで、必死にささやく声がある。

――捨てるな。逃げるな。それは、ずっと抱えてなきゃいけないものだ。

 

ポエムにもならない駄文であらわすと、そんな感じだろうか。

自分にとってはSF小説の登場人物にも等しい

渡米したナイジェリア移民(しかも若い女性)の真情を目の前に差し出され

目を白黒させながらも、懸命にほおばり、咀嚼し、飲み込もうとしているのが

嘘偽りのない、実情なのである。

 

でもって、数日たった今も、やっぱり「それ(切なさ)」は、消化されぬまま

眼球と延髄の間あたりに、ちんまりと居座っている。

しょーがねーなぁ。

もっかい読むか。

いや、今度は『アメリカーナ』にチャレンジしてみっか。

とにかく、悩ましい作家に出逢ってしまった。

 

そうだな。少しは実になる情報も書いておこう。

一九七七年、ナイジェリアに生まれ

大学に勤務する両親のもとで勉学に励み、十九歳で奨学金を得て渡米。

診療所を営む姉の元に身を寄せ、家事や育児を手伝いつつ

現地の大学でコミュニティ学と政治学を習得し

トップの成績で学部を卒業した後も、ふたつの大学で修士号を取得する。

そのかたわら、夜になると作品を書きはじめ

ナイジェリア移民という自らの体験を織り交ぜた短編を、次々と発表。

О・ヘンリー賞など名のある賞を、多数受賞してゆく。

 

長い歴史スパンから時代を見据える目、状況への鋭い分析、希望へ向かおうとする頑固さ、労を惜しまない仕事ぶり、その結実である作品が、世界がここまで「小さく」なった時代に多くの人の心の琴線に触れる。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、いま世界がもっとも必要としている作家の一人といえるだろう。(「訳者あとがき」より)                          

 

とっくに、世界的な人気と名声を博しているけど

実際に読んでみて、改めて痛感した。

文句なしに、すごい作品、すごい作家だ。

力づくで無理矢理にでも〈抱え続ける〉ことを強要される。

こういう小説も、サボらず読んでいかないと。

 

・・とは言いつつも・・うーん・・・

やっぱうたたは、スパン!と全力でど真ん中に投げ込んでくる

エンターテインメントのほうが、好きだなぁ。

悩んだり、迷ったり、考え込むのは、身の周りだけで"お腹いっぱい"なのだ。

 

ではでは、またね。