くだんの床屋の主人は、「死ぬのが怖い」と洩らしたこともあった。私はそれに対して、「生まれてくる前のことを覚えているのか?」と質問した。「生まれてくる前、怖かったか? 痛かったか?」 「いや」 「死ぬというのはそういうことだろ。生まれる前の状態に戻るだけだ。怖くないし、痛くもない」 〔『死神の精度』9ページ〕
物語の主人公(私)は、ひとりの死神。 自らを「千葉」と名乗っている。 彼の仕事は、不慮の死を遂げる予定の人を一週間に渡って観察し、そのまま死なすか、生かしておくかを、最終的に決めることである。 冒頭の引用からも透けて見えるが、彼のスタンスは徹頭徹尾〈部外者〉のそれだ。 しかも、その判定基準は対象者の個性とはほとんど関係がない。 どれほど善人だろうが、凶悪殺人犯だろうか、大多数に「死」を宣告する。 なぜなら、常々彼はこう考えているから。
人の死には意味がなく、価値もない。つまり逆に考えれば、誰の死も等価値だということになる。だから私には、どの人間がいつ死のうが関係がなかった。 〔同10ページ〕
いっぽう観察対象となる人間の方は、うたた(俺だ)がそうであるように
何より自分の死を怖れながら、死に向かって日々生きている。
だから、死神と対象者とのコミュニケーションは
いたるところでズレや、食い違いや、破綻を生み出す。
そうした"せめぎ合い"のなかから、様々な〈死生観〉が提示されてゆく。
「そりゃ、死ぬのは怖いけどさ」と恐怖の欠片も滲まない口調で続け、「もっとつらいのは」と首を振った。「まわりの人間が死ぬことでしょ。それに比べれば自分が死ぬのはまだ、大丈夫だってば。自分の場合は、悲しいと思う暇もないしね。だから、一番最悪なのは」 「最悪なのは?」 「死なないことでしょ」彼女はアンテナを振るかのように、指を立てた。「長生きすればするほど、周りが死んでいくんだよね。当たり前のことだけど」 「その通りだ」 「だからさ、自分が死ぬことは、あんまり怖くないよ。痛いのとかは嫌だけど。やり残したこともないしね」 「ないのか」 「あるかもしれないけど、それも含めて、納得かもしれない」うんうんと頷く彼女には無理をしているような、強張りがない。 〔同 316ページ〕
「生き物はみんな死にます。千葉さん、それくらいは知っています」 「そうか。分かっているのか」千葉さんは、僕の返事を信じていないようでもあった。「そのことを本当に知っている人間は、あまりいないからな」 「そりゃそうですよ」僕は即答している。「『われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである』」 「何だそれは」 「パスカルの言葉ですよ。人間は、死のことを真面目に考えたら、耐えられません。彼のメモをまとめた、『パンセ』に載っています」 〔『死神の浮力』118ページ〕
もちろん、それだけではない。
伊坂作品に共通の魅力と言える、軽妙?にして愉快な会話や
単なる知識のひけらかしで終わらない、人間の習性や行動原理の解説など。
思わず引用したくなる文章が、最盛期を迎えた流星群のように、続々と出現する。
人間は、一度自分で決めたシナリオができあがると、それに沿わない助言や忠告は撥ねのける傾向がある。 〔同195ページ〕
「人は、自分でコントロールできるものは安心だと考える傾向がある」〈中略〉 「車の事故はしよっちゅう起きている。びっくりするくらい頻繁に、だ。それに引き替え、飛行機の事故は、死亡事故はほとんど起きない。にもかわからず、人間は飛行機よりも、自分の運転する車のほうが安全だと感じる。なぜか分かるか」 「自分でコントロールできるから」 私はうなずく。「買い被りすぎなんだ」 「買い被りって誰をですか」 「自分を、だ」この時代の人間には比較的、親しみのある、煙草やドラッグも同じ問題だ。自分で使用頻度を調整できると過信して、結果、コントロールできない。人間ができるのは、自分をコントロールすることではなく、コントロールできない言い訳を考えることと、目標を変更することだ。 〔同228ページ〕
引用しすぎて、未読の方をガッカリさせてしまうのは忍びないので
このあたりでやめておこう。
ともあれ、頭の中をもやもや漂うだけだった情報の幾つかを
太い輪郭線でくっきり区切られた、確かな知識に変換することができた。
サクサク読める抜群のリーダビリティに加え、抜群に面白いストーリー。
また人間の生と死を見つめ、掘り下げる鋭い視点も随所で光る。
そのうえ、多彩な分野にわたる地峡な知識なでゲットできるのだから
一石二鳥どころか、三鳥にも四鳥にも値する作品だ。
まさに、「エンタメ小説の雄・イサカ」の面目躍如といったところだろう。
物心つくころからずっと、死を恐れ続けているけれど
"千葉さん"のような死神だったら、会ってみたいな・・と思った。
とはいえ、可能な限り長生きしたい希望は変わらないので
残り時間が10日を切った、ちょうどその頃に。
―――せこっ。
ではでは、またね。