豊かな人生を送りたいなら、「ムダ」を楽しもう。 『いい感じの石ころを拾いに』宮田珠己 周回遅れの文庫Rock

旅先で石を拾う。というのは、私にはよくあることで、海外旅行に行ったときなど、記念にひとつそのへんの石ころを拾ってきたりする。90p

 

著者・宮田珠己氏が本書の中に記した一文だが

これは、そのままうたた(俺だ)の習性とオーバーラップしている。

たとえば、いまキーボードを叩いている机の正面

テレビモニターの手前にできた細長いスペースには

多種多様なミニキャラ、ガチャポン、世界各地で買った工芸品に混じって

日本の様々な海岸で拾った石ころや貝殻とか

罰当たりにもマウナケア火山から持ち帰った溶岩の欠片などが、無秩序に並んでいる。

 

とはいえ、あくまでもそれは「旅の記念品」でしかなく

いわば、オマケのようなもの。

著者のように、"石拾い(探し)を目的"とした旅に出たことは、一度もない。

しかし彼は、北は北海道から南は九州まで

石を拾うためだけに全国津々浦々の海岸を訊ねて回り

地元のならではの珍味やご馳走に見向きもせず

ただひたすら、波打ち際の石ころを物色し続ける。

それも、砂金とか宝石の原石みたいな〈宝探し〉ではなく

ほとんどの場合、彼が"いい感じだ"と思った単なる"石ころ"を求めて・・

 

さらに著者は、"気軽な散歩"に出かけるようなゆるい雰囲気で

自らの「石拾い」を語っているが

実際の行程を拝見すると、とんでもないハードスケジュールであることが分かる。

めぼしい石がありそうな海岸を巡るために、「車で3時間移動」したり

「朝から夕方?までぶっ通しで探し続け」たりと

傍から見れば"苦行"としか思えない、〈石拾い一色〉の旅を繰り返しているのだ。

 

試しに、どこでもいいから、実際に海岸を訪れ

「いい感じの石ころ(貝殻も可)」を探してみていただきたい。

大多数の人は30分もたたずに、もういいや・・。と音を上げるに違いない。

なのに著者は、こう軽々と言ってのける。

石ころ拾いは、むしろ息抜きのような行為だから、厳選とかそんな大仰な話とは無縁であり、とにかく海辺にしゃがみこんで、なんかいい感じのする石ころを探していれば私は満足だった。そして、それ以上主張したいことは、とくにないのだ。273p      だから、気軽な散歩のお供のように読んでもらえれば、著者としてはうれしいです

 

世に「擬悪家」と称される人たちがいる。

平べったく言うと、本質的には善良なのに、わざと悪ぶってみせるタイプだ。

その形容を借りれば、著者・宮田珠己は「擬楽家」と呼びたくなる。

キツくてツライに状況になればなるほど、彼の文章は、明るく軽やかに彩られてゆく。

温泉巡りのついでに海を見に行き、キレイな石や貝殻を物色し始めるものの

ほんの10分ほどで腰の痛みに負け、あっさり逃げ帰るうたたとは、大違いなのだ。

 

ともあれ「いい感じの石ころを拾いに」(石好きとの交流もあり)

日本各地の海辺を巡り歩いた著者の日々は

本書の出版に関わる印税以外、ほとんど実質的な利益に結び付かないものと思える。

なんでもかんでも「お金」に繋がらないと指一本動かさない方々から見れば

彼の行為は、大いなる"時間の無駄遣い"以外の何物でもないだろう。

 

だが、ご存じのように、どれほど莫大な金や名誉や権力を手にしようとも

そのうちただのひとつも、「死の壁」を超えて持ち出すことは不可能なのである。

ならば、その行為が"無駄か否か"を決めるのは

幸せを計る尺度と同様、当事者の意識のみ。

要は――本人が満足できれば、それで万事OKなのだ。

いかに巨万の富を稼ぎ、豪邸や最高級品に囲まれようとも

当の本人が満たされてなければ、その人は"不幸"でしかない。

 

これと前後して読んだ書物に

解剖学者・養老孟司の『身体巡礼』『骸骨巡礼』がある。

人の生と死にまつわる様々な問題を、脳科学や解剖学などの知識を交えつつ

解説する彼の趣味は、昆虫採集(特にゾウムシ)だ。

80を超えてなお、虫取りに励み、一万頭ものゾウムシの標本を作る彼の行為に

大きな科学的・歴史的意義を求めることは、容易ではない。

だが――それで、いいのだ。

少なくとも本人にとって、すべての価値は

生きている、その間にしか存在しえないのだから。

 

書くたびに痛感するけど

想いを言葉(文字)で表わすってのは、ホント、難しいなぁ。

 

ではでは、またね。