いちばん身近な"別れ"を生きる 『永遠のおでかけ』 益田ミリ  -引用三昧 27冊目-

いつまでもそばにいてくれると思っていた人が突然いなくなってしまったら‥‥?

大切な人を失い悲しい経験をした人も、いつか辛い別れをするかもしれない人も、

どんな人の心も震わせる珠玉のエッセイ。

何気ない日常のふとした瞬間は、このうえのない宝物。

人は誰でも自分だけの人生を生きている。         (裏表紙の紹介文より)

 

二 タクシーの中で 

話術が世界をまわしている。

この世を動かしているのは、巧みに話せる人なのだ。  

いつだってそうなのだ。映画ひとつにしても理路整然と語れる人の感想がその場の正解になっていく。

そういう人は、たいてい引用がうまい。誰かの意見を器用に入れ込み、多勢で攻めてくる。 

上手にしゃべるものなだなぁ。

感心している間に次の話題になってる。 

たまに引用が多すぎて、 

「この人の意見はどこにあるのだろう?」 

首をかしげたくなることもある。意見どうこうより、場を制するのが重要という考え方なのかもしれない。  [19]

 

自己啓発本を読んでいるときは、

「なるほど、そうか、次からはこうしよう!」 

と肝が据わる。しかし、本を閉じてしまったらまったく覚えていない。その手の本が本棚に大量にあるのもなんなので、たいてい降車駅に着いたら処分している。読み返すこともない、いわば吹き抜ける風のようなもの‥‥。    [21]

 

四 ほしいもの

「戻れるとしたら何歳がいい?」

同年代の友人たちと、若さの問題になると、

「38歳くらいがいい」

だいたい、このあたりの年齢が出てくる。20代の人からすれば、もっと若いほうがいいんじゃないのと感じるかもしれぬが、38歳なんてパッと見は30そこそこ。よく見たところで33~34歳。十分、若い女の子である。それでいて、強くなってきたなと、自分自身、ようやく感じることができる年齢である。 

いい人と思われたい、思われなければならない、という気持ちから解放され始める頃でもあった。    [37]

 

どんな人ともいつかはわかりあえるというのは幻想である。好きな人がいるのなら、嫌いな人だっていよう。誰かを嫌いになるのは、自分の中で大切にしているものが拒絶しているからなのだと考えれば、なるほど、そりゃしようがないなと肩の力も抜ける。 好きでも嫌いでもない「普通の人」を持てるようになったのもこの頃だっただろうかき。白黒つけず、川の流れのようなつきあいがあってもよい。そう思えるのに38年くらいはかかるのである。 [38]

 

五 おでんを買いに

担当医からがんの告知を受けた翌日、父は退院した。検査や治療など、これ以上なにもしたくない、抗がん剤治療は受けないのだから、もう明日にでも退院したい。頑として譲らなかったらしい。 

母にしてみれば、あと4、5日入院し、もう少し体力をつけてほしかったようだが、「家に帰りたい、家が一番いい」という父のセリフにほだされ、あわただしい退院になった。 

しかし、結果的にはこれがよかった。糖尿病の薬をさぼりがちだったことを医者に叱られ、家に帰っても薬の服用は必ず守るよう父は約束させられた。薬を飲み、家に戻った安心感も手伝ってか食欲が出た。食べると人は元気になるらしい。   [44]

 

六 ドールハウス 

滋賀県の長浜を旅したとき、海洋堂ミュージアムがあった。グリコのおまけなどの食品玩具や、ガチャガチャのフィギュアなどの製作で有名な海洋堂である。

中に入ると、大量のフィギュアが展示されていたが、中でも小箱のジオラマがひときわ輝きを放っていた。 

『人と暮らす動物』と名づけられた小箱の中には、犬、猫、鶏、鯉やウサギ、ツバメなど、わずか数センチの精巧なフィギュアが、そこで暮らすように配置されていた。猫は縁側で丸くなり、鎖に繋がれた犬たちは庭先で楽しげである。庭の向こうには田んぼや山の絵まで描かれている。

『初夏の大雪山』の小箱には、エゾユキウサギやエゾシマリスなどという珍しい動物が岩の中から顔を出していた。どのフィギュアたちもとてもリラックスしているように見えた。 

同時に、見る者を徹底的に遮断していたのだった。 

誰ひとりとして箱の中の国には手出しができない。 

箱の外は無防備だ。「死」も存在している。子供の頃、はるか彼方にあったそれは、言うまでもなくどんどん身近になっていく。    [55]

 

十 美しい夕焼け 

午前中の電話にいい知らせはない。                       スマホの表示は母からだった。電話を取る前、大きく息を吸った。父の容態が深刻なのだという。あと二、三日の命かもしれないらしい。[86]

死んだ父親に会いにいくという、人生最初で最後の帰省である。 

今夜、わたしが帰るまで、生きて待っていてほしかった。 

母からの電話を切ってすぐはそう思ったのだが、新幹線に揺られる頃には、それは違う、と感じた。これは父の死なのだ。父の人生だった。誰を待つとか、待たぬとか、そういうことではになく、父個人のとても尊い時間なのだ。わたしを待っていてほしかったというのは、おごかましいような気がした。 [88]

ここからは、とにかくお金の話である。

父の遺体を葬儀場に運んだあとは、すぐに葬儀場の係の人との打ち合わせ。

わたしと母は分厚いパンフレットを覗き込み、祭壇とか、棺とか、花の種類、通夜や初七日の返礼品を選んでいく。

父はこういうことにお金をかけることを嫌っていたし、わたしも母も、とにかく質素にしようとね話していた。しかし、よほど強い意思の人間でない限り、 

「全部、一番安いのでいいです!」 

とは言えない空気が漂っている。いくつかは一番安いのにしたけれど、あんまり全部だと、なんだか父を大切にしていないと思われそう‥‥という心理が働くのである。

一番安い棺を選びかけたとき、 

「お父様は一家の大黒柱なんですから」 

と、係の人に止められ、あとになってみれば、

「うち、団地なんで大黒柱ないですし~」 

と、笑いを取れたところなのだが、まぁ、そういう状況ではないわけである。

祭壇も柩も一番安いのから二番目のになった。 [90]

生前の父は、「ワシは、葬式なんかいらん」と言っていた。するにしても親族だけがよいとも。その願いを叶えるには、案外、骨が折れた。家族葬ですので、と頭を下げ、出席したいという人に理解してもらわなければならなかった。                                          悲しみに浸っていられる時間が想像以上に少ない。それが身内の葬式であった。[93]

 

本文は190ページ弱ゆえ、ほぼこの辺りが中間点。

この後、大切な人を失った後の"あれやこれや"が、淡々と綴られていく。

自分のときには、こんなにじっくり考えていなかったなぁ。

 

最後に、"ルール違反"となるけど

激しくも紹介したい一節が、「文庫あとがき」にあった。

ドサクサ紛れに書いてしまう。

 

父の死から4年が過ぎた。  

ずいぶんと昔のことのように感じられる。思い出して涙することもなくなり、懐かしさが大きくなってくる。  

振り返ってみれば、どんな言葉も時間ほどの力は持っていなかった。       

 それは父の死による学びだった。    [191] 

 

ではでは、またね。

 

       エストニア、サーレマー島クレサーレの残照(2019.6.30)