やさしさに包まれる。何度でも。 『つづきはまた明日➀~④』紺野キタ 周回遅れのマンガRock

ハードなノンフィクションを取り上げようかと思ったが

嵐の日に書くと、ひたすら重苦しくなりそうなので

ひみつの階段』に続いて読み返した

紺野キタの『つづきはまた明日』にバトンタッチした。

 

主人公は、小学校5年生の兄・沓(はるか)と1年生の妹・清(さや)。

昨年、母親を喪った兄妹が暮らす家の隣に

とある家族が引っ越してくるところから、物語は動き出す。

そこの一人娘・佐保(さほ)が、亡き母親の昔(の写真)とそっくりだったのだ。

(初めて彼女を見た清が「お母さん」と呟いてしまう)

しかも佐保は沓と同学年。おのずから転校その他の面倒を見ることに。

(沓が母親似のため、ここでも「そっくり!」と騒がれたり)

こうしてふた組の家族(➀沓+清+父➁佐保+母+父)の人生は

少しづつ近づき、交錯してゆくのだった・・・

 

一巻目の裏表紙で、本作は次のように紹介されている。

ありふれた出来事の中に見え隠れする

人の優しさ、純粋さ、冒険心etc.

ふんわりとあたたかい気持ちになれる、

日常ほのぼのストーリー!

 

これだけ読むと、メリハリがなくてゆる~い物語を連想するかもしれないが

実際に受け取る印象は、大地に根を張る樹々のように、確かで揺るぎないものだ。

たとえば、母親を喪った主人公の兄妹のように、

登場人物の多くが、なにがしかの辛い運命を背負っている。

それでも、一遍一編を読み終えたとき

心のなかにいつまでも残るのは、哀しみではなく、甘やかな"愛おしさ"なのだ。

 

実は、「いい人」しか登場しない物語には

好印象を抱いたことが、ほとんどない。

たとえば近年話題になった『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ著)の読後感も

――なんだか、都合よすぎてウソ臭いなぁ。

などと、共感より反発の方を強く感じてしまうのだ。

そのくせ、同様に「いい人」のオンパレードで終始する本作からは

『そして・・』の"ウソ臭さ"が、これっぽっちも漂ってこない。

これは、単なる個人的嗜好のせいなのか

それとも、何度観返しても飽きない、ちょっとメルヘン入った絵柄のせいなのか。

 

いずれにせよ、本作もまた4~5回目の再読もなんのその

数ページごとに「大好きなシーン」で手が止まり

作者が紡ぐ〈絵+ことばの世界〉を、行ったり来たりしてしまう。

この中毒性たるやも――ただひたすら、"相性がいい"としか言いようがない。

 

なにより、どこで見つけ出してくるのやら

子供にまつわる独特のリアリティに、心を奪われる。

たとえば1巻第3話『明日になればできること』

自転車に乗る小1の清(さや)の、(おしりの)描写が最高だ。

たむっ たむたむっ 

「す‥‥っ すごい 尻がゴムボールのようだ」55-6p

 

こんな風に引用したところが、100分の1も伝わらないだろうなぁ。

とにかく読んでみてくれ、としか書けない自分が悔しい。

なにはともあれ、座右の本ならぬ「座右のコミック」のひとつ。

この先も1~2年おきに、恋しくなっては読み返すこと間違いなし・・なのだ。

※4巻後半の『Li'l flowers』も絶品!"佐藤さん"の続編を読みたい~~

 

ではでは、またね。