『もう一度、歩き出すために 大人の流儀11』 伊集院 静  /引用三昧 18冊目  

大病を乗り越え、ますます自由闊達となった人気エッセイ・シリーズ。

個人的には、新型コロナに対して感情的すぎる気もするが

東日本大震災にすら当事者意識を持てなかった当方が"甘ちゃん"なのかもしれない。

でも、それがフツーなんじゃないかな。

・・とまあ、ぬる~いゴタクはこのくらいにして

熱く激しく鋭い名言の数々を、ちょっとばかし拝借。

 

第一章 笑える日が来る 

ふいに思い出す 人は自分に、あまりにも悲しいことが起きると、最初、戸惑い、興奮し、尋常のこころ持ちではいられなくなる。涙する人もいれば、押し黙ってしまう人もいる(人によっては寝込んでしまう場合もある)。

特に近しい人、親しい人との別離は、当初の悲しみがようやくやわらいで、なんとか一人でこの悲しみも克服できたようだ、と思っていたりすると、何でもない時に、普段の暮らしの中にいるのに、悲しみは突然やって来る。もうすっかり忘れて、笑うことも、何かにワクワクするようなこともできはじめていたのに、悲しみは平然とやって来て、当人を戸惑わせる。

厄介この上ないが、当人しかわからないので、周囲の人は気付かない。その上、状況を説明しても理解してもらえない。  [13]

 

今になってわかる

父と子であれ、母と娘でもかまわぬが、人の死はテキストや教科書とは違い、寡黙の中の言葉であるから、人々の内面にたしかなものを刻むらしい。

「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだと思っていなさい。倒れれば、打ちのめされたら、起き上がればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度、歩きだす力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」

いずれにしても生半可なものは少ないのである。 [26]

 

君の後ろ姿 私はかつて、人の死は、もう二度と逢えないというだけのことであり、それ以上でも、以下でもない、と書いた。

しかし今となっては、深夜の仕事場でなにげなく立ち上がった時、その床の上に、私を見上げるバカ犬がいて、尾を振り、舌を出し、少しゼイゼイしている彼を、両手を下に差し出し、かかえ上げることができたらどんなにか、と思ってしまう。私も彼も、生きて逢えたことの素晴らしさを確認できるだろうに。

私が少年時代、父から教わったことのひとつに、「いいか、グズグズした男になるな。他の人より金がある、頭がイイと自慢するような男になるナ」というものがあった。

だから私は、バカ犬の写真を深夜の仕事の合い間に見て、グズグズとはしないのである。  [29]

 

第二章 遠回りでも構わない 

金は怖い 金に困らず名作を書いたのは、森鴎外谷崎潤一郎だけである。樋口一葉など可哀想なくらいだ。しかし金が余っている家で、名作を書いた作家は少ない。

妙なものだ。   [62]

 

男気のある人 福島ではあきらかに原子炉の被災を受けた子供たちの甲状腺がんなどの被害が発表されたのに、電力会社はわずかな治療費しか出そうとしない。チェルノブイリの実態も調査などしていない。被災した女性がやがて子供を産み、赤チャンも母親自身も年老いた時、影響は間違いなく出るのだろうが、そこに目を向けようとしない。これがすべて日本のやり方である。        

福島が放射能の被害で大変な時、そのガレキの受け入れをどこも皆拒否する中、毅然と受け入れると言ったのは、石原慎太郎都知事の東京だけだった。   [69]

 

急がない 

ミャンマーが酷い状況である。軍人の政権、軍人という人間の精神構造の怖さ、狂乱への自制心のなさが一気に突出している。民主勢力が制裁を加えれば、彼らは平然と中国へ、国の行方を頼るだろう。今はどんどん中国の国力と国勢が、民主勢力をおさえて急成長している。ミャンマーの新政権が成立すれば、ロシアも、中国もすぐに祝いに駆けつけるだろう。日本はこれまでミャンマーに莫大な支援をしてきた国である。この支援を一気に断ち切れはしまい。野党議員がいっせいに現内閣の対応を責めるだろうが、これまでミャンマーにも訪問したことのない議員が勝手なことを言うべきではない。[76]        

爽やかな風 ベーブ・ルースの本当の価値は、彼のホームラン見たさに、かつてない観客が球場にやって来たことだ。

記録よりも、人が人を呼ぶ能力の方が何万倍も貴重だ。野球はスポーツだが、興行であるのが基本なのだから。[90]

 

流した涙 スポーツ新聞を買わなくなった。街のコンビニエンスストアの棚にもスポーツ新聞は以前の半分以下になっている。

――コロナ禍か?

勿論、それもあろう。東京オリンピックが開催されたのだから、或る程度、売れていてもよかったのではと思うが、ますます売れなくなったという。

――なぜか?

スポーツ新聞の内容が、かつてないほど酷くて、読んでも面白くも何ともないからだ。

なぜ、そうなったか。編集委員とスポーツ記者一人一人の、スポーツの見方と、文章が読むに堪えないほど低レベルになったからだ。丁寧な取材をしない。

真摯に文章を書かない。ダジャレのようなタイトルばかりを書いて、最後にはガキの文章になっている。編集委員が文章をチェックしない。いやそれ以前に彼等も新聞の文章の書き方を習得していないのかもしれない。[91]

 

先日、プロゴルファーの石川遼選手がトーナメント最終日のインタビューで涙を流していたと報じられた。

――そんなことが、記事にするほど重大事なのか!報道の本質とは違うだろう。

第一、石川遼さんに失礼ではないか。彼は少なくとも十年近く、日本の男子プロゴルフ界を一人で支えてくれた選手である。散々、それを利用したのはスポーツ記事であり、スポーツ記者ではないか。涙のことくらいは書かずにおいてやるのが、彼に対する礼儀なのではないか。“クラブが折れて、心が折れた”などとダジャレを書いて恥ずかしいとは思わないのか。なぜ心が折れたとわかるのか? そんな情緒が記者にあるのか?

一度涙を見せたら負けだ、という世界があるのを記者はおそらく知らないのだろう。[93]                               

 

第三章 立ち止まってみる 

変わらないもの 支持率低下と言うが、私はテレビ、新聞等のマスコミが調査した数字をほとんど信用していない。

日本人ほど、調査に関して公平さ、その調査法への疑問を重要だと思っていない人種と国はおそらく世界中でも珍しい。

マーケティングという言葉が日本へ入った時(おそらくK大学の村田某という教授あたりだったと思うが)。マーケティングの基盤には、市場調査が最も大切なことだった。

私は、その当時、最先端と呼ばれたマーケティングの抗議で一番疑問に思ったのは、市場調査のいい加減さであった。その頃、調査会社が雨後の筍のようにあちこちで生まれた。

その調査会社にアルバイトに行った時、正確な調査よりも大切だったのは、どの方向に調査結果を持って行くか、ということと、どの程度の差異をつけて調査結果を出すか、ということだった。

初めに結論を、そうでなくとも、結果の方向性を決めるのが、プロデューサーの大きな仕事だった。この話、今のテレビの報道のやり方と大変よく似ている。

報道にとって“真実を広く知らしめる”などということは、すでに死語となっている。この言葉が生きているのなら、中国の新疆ウイグル自治区で実際に行なわれていることはとっくに暴かれているだろうし、命懸けでそこへの突進が試みられたはずだが、一向にそれらしいものはない。

暴けば、死者、行方不明者が必ず出る。それが、今の中国のやり方である。

これは中国だけでなく、ミャンマー北朝鮮、そしてどこよりロシア連邦で、平然と起こっていることなのである。 [108]

 

「引用(盗用)するのは半分まで」という自己ルールで続けてきたが

今回に限り、108ページまで許していただきたい。

"初めに結論を、そうでなくとも、結果の方向性を決めるのが、プロデューサーの大き

な仕事だった"との一節に、(元)同業者は大声で「その通り!」と賛同したいから。

と、こんなふうに、闇夜の地雷原を強行突破するごとく

いたるところでトラップに遭遇したり、共感の起爆スイッチを踏んでしまうのだ。

もっと&ちゃんと読みたい方は、元本を入手していただこう。

 

ではでは、またね。