ベストセラー作家が遭遇した、小説には書けない波乱の日常を綴る人気エッセイ『つばさよつばさ』シリーズ第四弾。 (裏表紙より)
唸る男
ところでこのごろ、妙なことに気付いた。
十代二十代の若者の半数ぐらいが、入浴に際してタオルを持たぬのである。
フリースタイルで堂々と、浴室を闊歩している。
まったく理解できぬ。銭湯の時代には、よほど自信のあるやつが、これ見よがしに前を隠さぬ、という図はたしかにあったが、タオルや手拭いは必ず手に持っていた。
諸外国のスパや公衆浴場では、タオルを持つという習慣がない。それがグローバルスタンダードだと言われれば返す言葉もないが、やはり日本人の廉恥の精神が廃れたと見るべきであろう。 [11]
寿命の考察
皇居の御濠には、目を疑うほどの巨鯉が棲んでいる。
場所が場所であるだけに気付く人もそうはおられまいが、御濠ッ端にほど近い神田界隈に育った私は、しばしば目撃している。
大きいものは一メートル超と思われる。黒々とした姿形は、明らかに鯉である。
大人になってからも遭遇しているから、けっして少年時代の錯覚ではない。[36]
その後のどうでもいい私的研究によると、動物の寿命は生物学的には成長期のおよそ五倍とされているらしい。つまり、人間の場合は二十五歳でほぼ成長を止めるから、計算上は一二五歳が生命の限界ということになる。
しかし、鯉はいまだに成長限界が不明で、環境に恵まれればどんどんデカくなるそうだ。だとすると、理論的には長命であるどころか、不老不死の生命体である。 [38]
それでは地球上のあらゆる動物の中で、最も長命は何かというと、現在の研究ではアイスランドガイと呼ばれる二枚目である。
二〇〇六年にアイスランドで採取された個体は、分析の結果、推定年齢五〇七歳と判明し、誕生当時の中国王朝にあやかって、「明-ミン」と名付けられた。
ミンがアイスランドの大陸棚で生まれたころ、レオナルド・ダ・ヴィンチは『モナ・リザ』を制作中であった。武田信玄も織田信長もまだ生まれてはおらず、戦国武将の同年配といえば、毛利元就である。 [39]
続・宗旨変え
日本には多くの宗教が混在し、選択は自由意志に任される。
実生活において他者から信仰心を問われることもない。まさしく「八百万-やおよろずの神」のいます国である。
長い歴史においても、特定の宗教や宗派が排斥された例を私は知らない。近代になって国家神道が推進されたときも、個人の信仰は保証されていた。
われわれはそうした自由の中で、多様性に富んだ、豊かな文化を育んできたのである。
学問が宗教上の理由から規制を受けることもなく、芸術はいつの時代にも、闊達な表現が可能であった。
そもそも古来の神道には窮屈な教義がない。のちに伝来した仏教も、神道の祭祀権者たる天皇に遠慮してか、やはり普遍的な支配性を持たなかった。つまりどこの家にも神棚と仏壇が共存し、国民は神仏をともに敬する習慣を持っていたのである。〈中略〉
私たち日本人には、神仏に加護されながらも神仏を択-えらぶことができるという、もったいないくらい柔軟な伝統がある。
外国人の多くが日本人に感ずるという「クール」な印象は、つきつめればわれわれが宗教的な束縛から免れているからだと思われる。むろん、言うほうも言われるほうも、そうと気付くはずはないのだが。 [55]
布袋考-ほていこう
瀋陽の街を歩いていて、何となく中国人の体型が変わったと思った。初めは、飛躍的に向上したファッションセンスのせいだと思ったのであるが、やはりそればかりではない。肥満。それも若者たちの肥満が目立つ。
わかりやすいことに、真夏の中国には奇妙な習慣がある。青壮年の男性が富と健康の象徴たる布袋腹をあえて誇張するため、シャツを腹の上までたくし上げて闊歩-かっぽするのである。
数年前に私もその習慣を真似-まねて四平街(現・中街)の目抜きを歩き、編集者たちからやれ国辱だのセクハラだのと、非難を浴びた覚えがあった。
だからこそわかりやすいのである。経済成長が富と健康をもたらしたと言えばそれまでだが、明らかに肥満体が多くなった。
考えられる原因は二つ。
まず第一には、食生活の国際化である。私たち日本人がかつてそうであったように、伝統的食生活が欧米化し、とりわけ肉とジャガイモというアメリカンファストフードに若者たちが依存するようになって、都市部を中心として肥満爆発現象が起こったのではあるまいか。
第二の原因は、マイカーの急激な増加であろう。これは一目瞭然である。かつて中国の大都市の風物であった自転車の群れは、今やどこにも見当たらず、かわりに朝夕のラッシュアワーには片側六車線の道路すら身動きもとれぬほどの大渋滞となる。自転車がマイカーに変われば、カロリーオーバーは当たり前である。 [59] 以上二つの原因の複合により、「食べても太らない中国人」の神話は崩壊した。
GOOD LUCK!
たぶん実現するであろう日本のカジノ解禁について私見を述べる。
まさか反対はしない。しかし大いに危惧している。まず第一に、タイミングの問題である。カジノの最大の価値は恒久的な観光資源となりうるところにあるのだから、来るべき東京オリンピック・パラリンピックの前に開業したい。
大規模な事業というのは、何だって最初の勢いが大切である。
メインスタジアムのプランは白紙に戻り、この先はいよいよ工期の問題が切迫する。ところがカジノは、これから法案の審議に入る。おそらく国会議員を含む大方の人は、観光資源となりうるカジノの規模を、イメージできていないのではあるまいか。今や国際的に通用するカジノを造るためには、メインスタジアムを建設するのと同程度の投資が必要であり、しかも広大な土地の買収と、経営についてのソフトを整備しなければならぬ。オリンピックのメインスタジアムはともかく、こっちはすでに手遅れであろう。
唯一可能な方法といえば、沖縄の基地問題を強引に解決し、普天間の跡地にカジノを建設して、なおかつ経営は海外資本に丸投げすることであろうが、さていかがなものか。現今の状況を見るに、政治的には多難に過ぎようし、道義的にも許される話ではあるまい。ましてや同地以外に建設をすれば、ゆくゆくは不必要にもかかわらず乱立した原発のごとく、日本中がカジノだらけになるであろう。
さらに第二の危惧。
主要先進国におけるカジノ以外の公営ギャンブルといえば、競馬か宝クジぐらいのものであろう。しかし日本ではこれらに加えて、競艇、競輪、オートレース等があり、隙間を埋めるようにたくさんのパチンコ・パチスロ店が存在する。
日本中央競馬会の年間売り上げだけでも、約二兆五千億。バブル期の六割にまで落ちこんだとはいえ、ぶっちぎりの世界一である。ちなみにアメリカ合衆国は日本の十倍以上のレース数を誇るが、売上げは六割ほどにとどまる。
そのほかの公営競技の売上げは、競艇が約九千五百億、競輪が約六千億、地方競馬が約三千五百億、オートレースが約七百億。ここまででしめて約四兆四千七百億。宝クジの約九千億を加えて約五兆三千七百億となる。さらには、カジノと最も競合すると思えるパチンコ・パチスロの年間売上げは、二十兆円規模と言われている。
つまり、世界一の競馬事業と各種レース事業、これらにパチンコ・パチスロという実質的な既存カジノを持つわが国は、世界に類を見ぬギャンブル大国であり、このうえカジノを必要とする人が、そういるとは思えぬのである。
だとすると、売上げは外国人観光客に頼らざるを得ず、またそれは目的に適-かなう方法ではあるのだけれど、マカオをはじめとする近隣諸国に対抗するだけの魅力ある総合リゾートを建設するためには、飛行場から宿泊施設に至るまで、あるとあらゆる再構築が必要となり、想像しただけでもムリ、という気がする。
まあ、法案が通って予算がつけば、何だってできぬことはないのだろうが、カジノ建設それ自体が相当リスキーなギャンブルであることはまちがいない。[77]
「いわゆるギャンブル依存症」なる個人的な問題が、カジノ法案の争点になるのはおかしい。やはりこれは、ギャンブルをやらぬ人の客観的判断によって、本来は個人の責任に属することを社会の責任だと錯覚しているのではなかろうか。[79]
真夜中の対話
希望的観測-ウィッシュフル・シンキング――旅行客のみならず、人類にとってまことに厄介な言葉である。「かくありたし」という願望は、人の心の中で「かくあるべし」と変化し、一瞬ののちには「かくある」と断定されてしまう。[91]
日本人がとりわけ希望的観測に基づいて行動するとは思えない。しかし、今やほとんどの国民が平和な時代に生まれ育って、「希望的観測」という厄介な言葉すら忘れてしまっているのではあるまいか。 [92]
大雁塔-だいがんとうとドラ焼
阿倍仲麻呂が遣唐使の一員として長安に入ったのは西暦七一七年で、創建から六十年ばかりしか経-たっていない大雁塔は、まだまっすぐであったろう。
留学生であった仲麻呂は十九歳の若さであったが、よほど優秀であったとみえて科挙の試験に合格し、唐の官吏としてそれからの人生を送るはめになった。以来帰国を許されず、七十二歳の生涯をかの地で全うする。
望郷の一首は名高い。
天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に 出でし月かも [108]
このあと7~8ページで折り返し点を過ぎるゆえ
本来ならここで終えるべきなのだが
これを書かないと本書を取り上げた意味が激減する(と訴えたい)文章が
後半部分に3つも居座っていた。
前回同様、ドサクサ紛れ?に書いちまおう。
竜宮城と七夕さま
小説に限らず、あらゆる文学は人間の想像力を涵養する。そして、想像は創造の母である。近代アカデミズムにおいて、最も非生産的な分野にちがいない文学が、他の学問に伍して尊重された理由はこれであろう。人間が文学を非生産的なるものとして軽蔑すれば、想像力は衰え、あらゆる文化は新たな創造ができずに停止し、退行する。
このごろ問題とされている「読書離れ」の真の弊害は、実はかように重大なものであると思われる。 [141]
加速する人生
人生はたしかに加速する。これはいったい、どうしたわけであろうか。
小学生のころの夏休みは永遠に続くかと思われるほど長くて、これが同じ夏であるとは、とうてい信じがたい。また、いくらか成長して、生来の文系アタマが因数分解の壁につき当たったときの授業が、近ごろのボディマッサージと同じ時間であるとは、どうしても思われぬ。
この現象については、フランスの心理学者であるピエール・ジャネの学説が知らている。人生の一時期における時間の心理的長さは、年齢に反比例するという説である。
たとえば、十歳の少年の一年は十分の一だが、六十歳の一年は人生の六十分の一に過ぎぬから、心理的には短く感じられる、というのである。
ううむ。わかったような、わからないような。だが、二十歳、三十歳、四十歳、五十歳と、わが人生の折ふしにこの公式を当てはめてみれば、なるほど、という気がする。しかも、当時の苦楽や浮沈とは、ほとんど関係がないように思えるのである。つまり、楽しい時間はさっさと過ぎ、苦しい時間はゆっくり移ろう、というわけではないらしい。
そうこう考えれば、やはりジャネの法則は得心ゆかぬ。人間の幸福を求めるのであれば、若い自分の努力結果としてもたらされた老境こそ、ゆったりと過ぎてもらわねば困る。一時間かけてこしらえた料理を、たった五分で平らげるような理不尽を、神様が用意したとは思いたくない。
一方、このジャネの法則に対抗するのが、「経験量の理論」である。誰が唱えたかは知らぬが、これもまた、なるほどと思える。
さまざまな経験を積み重ねているうちに、人生には未知の部分が少なくなり、新鮮な感動を覚える機会も減ってしまう。なおかつ能動的な挑戦もしなくなるので、生活の中の可測領域が増えてゆく。わかりやすく言うなら、通いなれた道は近く感ずるが、初めて歩く道は遠いのである。
この理論が正しいのなら、人生の加速を止めることはできる。まず、おのれの生活から日常性を排除し、むろん齢相応のミエだの体面だのはかなぐり捨て、体力気力の有無など忘れて、何でもよいから目新しいことをすればよい。
まあ、そうは言っても今さら燃えたぎる恋もあるまいし、へたな道楽に打ちこめば身を滅ぼす。ならば後先かまわず失踪して、無計画な旅に出るというのはどうだ。たぶんその間は、人生の加速が始まる。
かくかくに、先人の遺した「一寸の光陰軽んずべからず」も、「歳月は人を待たず」も真理であったと思い知る齢になった。
さほど時間を大切にしてきたわけではないが、掌-ての中の匣-はこに光陰や歳月を捧げ続けているきょうびの人々の姿には、痛ましさを感ずる。
ご本人はそうと気付かず、実に池塘春草の夢を見ているのである。 [176]
〇か✕か ※イギリスがEU離脱を決めた国民投票を、現地で目撃&分析した記録。
どうやら勝った負けたの話ではない。離脱派にとっても残留派にとっても、結果は意外だったのである。まことに妙な光景なのだが、きのうまで意見を異にしていた人々が、急に親和して「マジかよ」と驚いているふうであった。〈中略〉
今日のように複雑な要素を含む問題は、選挙とちがって〇か✕かでは決められないのだと知った。つまり多くの国民は明確に〇か✕を支持しているわけではなく、「どちらかといえば」だの「条件付きで」と考えながら投票しているはずであるから、どのような結果が出ても粛々と順-したがう気にはなれぬ。事後の不満と混乱は必至なのである。
こうした事態を避けるためには、およそ考えつく限りの結果を何十通り何百通りも列挙して、国民それぞれに選択させる方法しかないと思うが、まず現実的ではあるまい。
そのように考えると、はたして〇✕の国民投票が民主主義の原理に合致するのかどうかという疑問が生ずる。それは国民によって選ばれた議会の権威を損なうかもしれぬし、あるいは時代の空気によって、国民が議決を追認し続けるという危険をも孕-はらむ。
たとえば八十数年前に、陸軍が主導した大陸政策を国民投票にかければ、ことごとく〇という結論を見たはずである。「どちらかといえば」「条件付きで」「よくわからないけど」「現状打破」などといった多様な意見は、ほとんど〇に集約され、国民の総意とみなされたであろう。
世の中はすっかりデジタル化されて、国民の意思を迅速正確に処理できるようになった。しかし多くの問題は〇か✕かできっぱりと切り分けられようはずもなく、まかりまちがえば近代国家が営々と築き上げてきた議会制民主主義を、根底から揺るがしかねない。少なくとも、できるようになったからやってもよいというのは、進歩ではなく退行である。 [227]
いったいどのあたりで"揺さぶられた"のか?
アンダーラインや太字で強調したい気持ちをぐっとこらえ
あえて平文のまま並べてみた。
ぜひとも、ご自身で見つけ出していただきたい。
―ーーにしても、ダラダラと長ったらしい引用になったなぁ。
ではでは、またね。
ラトビア首都、リガの橋上より(2019.7.1)