『いきたくないのに出かけていく』角田 光代 /引用三昧 16冊目  

前作『大好きな町に用がある』の読後文(10月10&16日)と同様

思い当たることが多すぎて、終始"ひとりヘッドバンキング"していた。

「読書Rock」を書いたところで同じ内容を繰り返すだけなので

激しく共感した箇所のみピックアップする。       

 

たくさん持っていた、と信じていたころ バルセロナをはじめて旅したとき、私は二十七歳だった。二十七歳のいかにもびくついた旅行者なら、後をつけたくなる不届き者もいるだろう。一日の終わりに、毎日残金の計算をしていたくらいだから、当然、テーブルにクロスの敷いてあるレストランなどは入れなかった。ただでさえ手持ちが心許-こころもとないお金を、一ペセタだって盗られたくなかったし、だまされたくなかった。盗られたら困るのだと心底信じていた。だから今よりずっとこわかったのだ。治安のよくない、暗い影の落ちる地域がある場所を、盗られまい、なくすまい、だまされまい、困るまい、と緊張して歩いたのだから、なおのこと町も路地も人も、こわく見えただろう。もうじき五十歳の私が町を歩いていても、後をつける男はいないし、すれ違いざまからかいの言葉をかけてくる若者もいない。五百円でも安い宿をさがさなくてもいいし、その安宿の鍵-かぎが壊されないかびくつくこともない。[12]

 

いきたくないのに出かけていく インドを旅した人がぜったいに言うことが、また、インド関連本でぜったいに書かれていることがひとつある。「価値観が変わる」、というのがそれ。人生観、価値観、死生観、呼び名はどうであれ、それまで漠然と抱いていた自身の基準のようなものが、みごとに粉々になる。そんなようなことが書かれている。そんなふうに共通して言われたり書かれたりしているのはインドだけだ。そしてそれこそが、私がインドを避けていた理由である。[21]

 

ブッダの歩いた道 

はじめていく場所はたいていそうなのだが、しかしインドは、「どうなるかわからない」感がほかの異国より断然強烈だ。たいていの人は、日常的秩序を無意識に信じて過ごしている。〇〇いきのバス停を見つけれは、そこにバスがくると信じて待ち、時刻どおりにこなくても遅れているのだろうと推測して待ち、やっとバスがくれば、それは〇〇にいくと信じて乗りこむ。そういう日常的な秩序が、インドではなんだかまったく通用しないと、空港に着いたとたんに肌で感じるのである。だからこわい。[29]            

結局二十数年の旅体験による、物乞い問題の私の折り合い点は「平等にだれにも何も渡さない」である。ここに至るには、ものすごく長く苦しい思考と言い訳があるが、そんなものは折り合い点の前には不必要だ。とにかく私は何もあげない。[30]

 

書かれ続ける理由 今までどのくらい「祈る人たち」を見てきたんだろう、と、ふと思った。旅に出ると私はかならずその町の宗教施設にいく。聖地と呼ばれるところがあれば聖地にいく。信心深い国の宗教施設は日常的に混んでいる。聖地は非日常的だが毎日混んでいる。スリランカのスリーパーダとカタラガマ、メキシコのグアダルーペ寺院、ミャンマーのゴールデンロック、リトアニア十字架の丘サンティアゴ・コンポステーラの聖堂と、ついつい今までいった聖地を数え上げてしまう。私は自分をずっと聖地好きだと思っていたが、好きなのは祈る人の姿なのかもしれない、と思えてくる。[34]                 

 

私を含まない町 私はこの「完璧に含まれていない」感覚が意外に好きだと気づいた。まったくの用なし、まったくの部外者、そもそも、用事がひとつもなければ、ここにいなかったはずの人間、見なかったはずの景色。そう思うと、軽く酩酊したような気分になる。その酩酊が心地いい。[42]

 

小説と歩く 未知の土地を、小説を手に旅するのもいいけれど、かつて旅した場所を、読むことでさらに濃く旅するのもおもしろいのだと知った。旅して言葉にならなかった感覚が、やっと理解できることもある。あのとき感じた奇妙さはただしかったんだと無闇にうれしくなったりもする。[71]

 

恒例化の謎 なぜ人は、加齢すると旅を含めてものごとを恒例化しようとするのだろう? かなり真剣に考えてしまった。

それは人生の時間と関係がある気がする。人生において、もっとたくさん知る時間がある、ということと、たくさん知っている時間はもうない、ということの、単純な違い。それに加えて、来年も再来年も、今と同じ状態でいたいという願望と、そんなに永久にはくり返せないという安堵にも似た諦観が、恒例化には関係しているように思う。[99]             

 

ここまでで、折り返し点の少し前あたり。

もっと&ちゃんと読みたいなら、元本を手に取っていただきたい。

少なくとも"旅が好き"と自認する方であれば

ときおり本を閉じ、まなざしを宙に漂わせることだろう。

 

ではでは、またね。