背筋も凍る"愚者ども"の歴史。よくもまあ滅亡しなかったものだ、人類は。 『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 2 ケネディと世界存亡の危機』オリバー・ストーン&ピーター・カズニック 周回遅れの文庫Rock 

「英雄」や「偉人」と呼ばれる存在が

どれほど"後付け"で"でっちあげられた"シロモノなのかが、克明に記されている。

いわば、『今だから書ける20世紀以降アメリカ史の真相』か。

 

ページをめくるたびに

「まっさか~~・・冗談だろ!?」

「え~っ、こんなクズだったのかよ!?」

と天を仰がずにはいられない、仰天情報の連続である。

しかし残念ながら、これら過激なエピソードには、一切のウソも誇張もない。

国家の舵を握った歴代大統領をはじめ、登場人々の言動には

ことごとく確かな裏付け文書=証拠が存在するからだ。

※ちなみに本書(第2巻)に限っても、119項目に及ぶ「原注(引用元)」が

 40ページ以上にわたって明記されている。

 

そして、これらの《真相》の手にかかれば

トルーマン大統領は、核の力で世界を脅す小心者に過ぎず。

アメリカとイギリスに迫られて、ソ連軍はイランから撤退した。のちにトルーマンがヘンリー・「スクープ」・ジャクソン上院議員に語ったところによるとソ連アンドレイ・グロムイコ大使をホワイトハウスに呼びつけて、ソ連軍が四八時間時間以内に撤退しなければ「例のものをそちらに落とす」と通告したという。ソ連軍撤退の真相はとうていこれほど単純な話ではないが、トルーマンは、ソ連は自国よりも強い武力に迫られれば引き下がるという教訓を得た。                〔40ページ〕

 

"救国の英雄”マッカーサー元帥も、朝鮮戦争で馬脚を現す。

この戦争を始めた時点で、マッカーサーやほかの軍人は、原子爆弾を使って戦闘活動を支援するべきだと主張していた。マッカーサーは、「これは、またとない原子爆弾の使い道だ。原子爆弾を投下して敵の侵攻を阻めば、進路の補修に六 カ月はかかる。私のB-29を用意しておくように」と興奮して語っていた。                   〔126ページ〕

マッカーサー最高司令官は一九五〇年一二月九日に、自らの判断で原子爆弾を使用できる権限を与えるよう要請した。また一二月二四日には、原子爆弾の投下地点二六ヵ所のリストを提出した。さらに、侵略軍に投下する原子爆弾を四発と、それとは別に「敵の空軍力が集中して危機的な状況にある地域」に投下する原子爆弾四発を要求した。三〇発から五〇発の原子爆弾を「満州と接する地域全体」に投下すれば、「放射性コバルトの帯」を作り出すことができ、一〇日間以内に戦争に勝てるというのが、マッカーサーの計算だった。                        〔129ページ〕

 

軍人出身のアイゼンハワー大統領も、「核」というオモチャに心を奪われる。

(一九五三年)二月に開催された国家安全保障会議で、アイゼンハワーは新しい兵器を使うのに適した場所として、北朝鮮開城市をあげた。五月に、陸軍参謀総長のJ・ロートン・コリンズ大将は「朝鮮半島核兵器を戦術的に用いることの価値を強く疑っている」と述べた。しかしアイゼンハワー大統領の答えは、「財政的な面で言えば、朝鮮半島では通常兵器を使い続けるより、核兵器を使ったほうが安上がりだろう」という冷淡なものだった。                       〔146ページ〕

 

後に大統領となるリチャード・ニクソンも、アイゼンハワーの崇拝者だった。

ハルデマンはニクソンについてこう語っている。「〔ニクソンは〕アイゼンハワーがかつて取っていた行動に類似点を見ていた。アイゼンハワーが大統領になったとき、朝鮮戦争は行き詰っていた。アイゼンハワーはひそかに中国側へ、核兵器投下の用意があることを伝えた。数週間後、中国は休戦を要求し、朝鮮戦争終結した」。

「あれはうまくいった」とニクソンは断言している。「核兵器が効いたのだ」ニクソンは、予測不可能であることの価値を自分に教えてくれたのはアイゼンハワーだと考えていた。                           〔148ページ〕

 

朝鮮戦争で味を占めたアメリカは、「力による正義」を全世界に拡大していく。

ベトナムでは同時期に、さらに重要な出来事が進んでいた。一九五四年四月、ヴォー・グエン・ザップ将軍が指揮するホー・チ・ミンの農民解放軍と、これを支持する農民らは、非常に重たい高射砲や迫撃砲榴弾砲を引きずって、とても通り抜けられそうにないジャングルの中を進み、手負いのフランス軍をディエン・ビエン・フーで包囲した。

信じられないことに、当時アメリカは、植民地支配を続けようとするフランスの軍事費の八〇パーセントを負担していた。アイゼンハワーは一九五三年八月に、「アメリカがこの戦争を支援するために拠出する四億ドルは、無償援助ではない。アメリカ合衆国という国にとって、そしてアメリカの安全保障にとって、さらにはアメリカがインドネシアや東南アジアの富から必要なものを得るための権力や能力にとって、極めて重大な意味を持つ事態が生じるのを防ぐために、われわれに可能な最も安価な方法として、その金額を拠出するのだ」と説明している。アイゼンハワーは、この地域の国々がドミノ倒しになって、最終的に日本を失う事態を想定していた。      〔184ページ〕

 

"世界平和のシンボル"JFKにしたところで、最初は"やる気満々"だった。

ケネディアイゼンハワーの計画を実行に移し、一五〇〇人のキューバ人亡命者による侵攻部隊を、グアテマラで極秘裏に訓練するようCIAに指示した。ケネディは当初この計画の意義を疑問視したのだが、アレン・ダレスが、キューバ侵攻によって反カストロキューバ市民が立ち上がり、カストロ政権の転覆をはかるだろうと請け合ったのだった。                            〔238ページ〕

しかし、侵攻部隊はキューバ軍に惨敗。市民の蜂起も不発に終わる。

侵攻失敗後、ケネディは統合参謀本部の「いまいましいやつら」と「CIAのまぬけども」に対して大なたを振るうことを決意する。そして「CIAを切り刻み、四散させてしまう」と声を荒げた。                    〔244ページ〕

 

そして、『人類史上、最も危険な瞬間』キューバ危機が起きる。

ソ連が一九六二年に避けたがっていたのは、アメリカとの直接的な軍事衝突だった。アメリカ本土に確実に到達可能な一〇基ほどのICBMと、三〇〇~五〇〇発の核弾頭しか保有していないソ連にとって、五〇〇〇発の原子爆弾や二〇〇〇基近い大陸間弾道ミサイル、そして爆撃機保有するアメリかを、迎え撃てる見込みはなかった。アメリカの先制攻撃を恐れたソ連は、ソ連国内への攻撃を思いとどらませ、アメリカのキューバ侵攻を未然に防ぐ効果を期待して、キューバへのミサイル配備という賭けに出たのである。                             〔268ページ〕

 

しかし、アメリカにこの秘密行動を察知され、事態は一触即発へとなだれ込む。

ケネディは「時間切れ」であることを認めた。アメリカ側の準備はすべて整った。二五万人の兵士が動員され、侵攻に備えていた。新たなキューバ政府を樹立する計画が、すぐにでも実行可能な状態になっていた。二〇〇〇発のミサイルの発射準備が整い、いまにも侵攻が始まりそうな気配だった。              〔275ページ〕

 

秒読みで戦争が近づくなか。それでもケネディは、回避のための交渉を続ける。

不安な思いでソ連からの返事を待ちながら、同様の色を隠せない大統領はある女性に向かって、「子供たちが死んでしまうくらいなら、その子たちが共産主義者なるほうがましだ」と打ち明けたという。〈中略〉

幸運だったのは、一九五三年に核兵器に関する最初の説明を受けた際、数日のあいだ眠れない日々を送った経験のあるフルシチョフが、面目を保つためだけに数億人の人を殺す価値はないと考えたことだった。翌朝、ソ連はミサイルを撤収すると発表した。

                               〔276ページ〕

 

身をもって核戦争の恐怖を知ったケネディは、以来、ソ連との関係修復に尽力。

翌年7月、アメリカ・ソ連・イギリスの代表者が、歴史上初の核軍縮協定を締結する。

だが、"戦争を飯のタネにする勢力"にとって、それは〈裏切り〉に等しい行為だった。

 

軍や情報機関の上層部の中には、口には出さないものの、ケネディが数えきれないほどの裏切り行為を行なったと考える者がいた。ビッグス湾事件の際に最後までやり遂げず、CIAを無力化してその指導者の首を切り、ラオスへの関与に抵抗するとともに中立主義的な立場をとり、大気圏内核実験禁止条約を締結し、ベトナムからの撤退を計画し、冷戦の終結に手を出し、宇宙開発競争を放棄し、第三世界民族主義を支援し、そして、おそらくなによりも最悪なのは、キューバのミサイル危機に際して話し合いによる解決を受け入れたこと……。

一九六三年十一月二十二日、世界を作り変えるために共有した夢をケネディフルシチョフか実現する機会が訪れる前に、テキサス州ダラスで、一人もしくはそれ以上の暗殺者から発射された銃弾が、ケネディを襲った。誰が犯人で、その動機が何なのかは、永遠にわからないかもしれない。                 〔303ページ〕

大統領就任演説の中でケネディは、灯火は新しい世代に引き継がれたと語った。ケネディの死と同時に、その灯火は古い世代ーージョンソン、ニクソン、フォード、レーガンの世代--の指導者たちに引き継がれることになった。彼らは、ケネディ時代の約束を組織的に破棄するとともに、アメリカという国は戦争と抑圧へと逆戻りさせたのである。                             〔305ページ〕

 

その後のメチャクチャぶりは、書き写すだけでも哀しくなってくる。

分量もやたらと長くなってしまったので、特に刺さった箇所のみコピペしたい。

ジョンソンは激怒し……下品な言葉を喚きちらした……こんな調子だ。「くのクソ野郎。くだらないでたらめを言いやがって、私に第三次世界大戦をやらせようというのかーー軍事専門家の知恵とやらで」。そして一人ひとりを攻撃した。「おまえはバカか。そんなたわ言を私が信じると思っているのか。自由世界が肩にかかっているっていうのに、その私に第三次世界大戦をやらせる気か」。〈中略〉

……ジョンソンはまた怒り狂った。「リスクが大きすぎる。中国の反応を無視できるわけがないだろう。バカ者めが。おまえら腐れ野郎のせいで執務室が穢くなったじゃないか。さっさとうせろ」                     〔322ページ〕

 

頑迷で視野が狭く、野卑で、虚栄心の強いジョンソンは、ベトナムインドネシアをはじめとする世界各国でしゃにむに反響を推し進めようとして、偉大な国内改革者になる夢を捨ててしまった。彼は一九七〇年当時を振り返り、無理な選択を迫られて「地球の裏側での戦争というあばずれと関係をもとうとしたばかりに、心から愛する女、すなわち偉大な社会」を犠牲にしてしまったと歴史家のドリス・カーンに語っている。だが、そうしなければ、自分は「臆病者」と、アメリカは「宥和主義」とみなされただろうと説明した。                          〔353ページ〕

 

キッシンジャーニクソンは陰で軽蔑しあい、ふたりで一緒に挙げた成果を独り占めしようと常に争っていた。キッシンジャーニクソンを「あの狂人」「飲んだくれの友人」「間抜け」といって軽蔑したが、そのくせ本人の前ではさかんに持ち上げた。一方、ニクソンは手先として働くキッシンジャーに言及するとき「ユダヤ野郎」という言葉を使い、あいつは冷血無類のサイコパスだとも表現した。    〔357ページ〕

 

カンボジア国内の北ベトナム「聖域」への爆撃が一九六九年四月にニューヨーク・タイムズ紙で暴露されると、キッシンジャーはレアード国防長官を「くそ野郎」とののしり、リークしたのはあいつだといって非難した。負けず劣らず腹を立てたニクソンは、キッシンジャーの側近中の側近三名、国防総省の役人一名、ジャーナリスト四名に対する盗聴をJ ・エドガー・フーバーに命じる。          〔370ページ〕 

キッシンジャーは次のように指示を与えた。「北ベトナムのような四流国を攻略できないなんて、信じるのはごめんだ……きみたちのグループでは容赦ない、決定的なオプションを検討してくれ。北ベトナムを徹底的に叩きのめすんだ。最初から偏見はいっさい不要だ」。                          〔371ページ〕

 

一九六九年一〇月一三日、ニクソンアメリカ軍に対して核攻撃の警戒態勢に入るよう秘密指令を出した。核兵器を搭載した戦略空軍(SAC)爆撃機が各地の軍事基地に派遣され、攻撃の命令を待った。B-58が三二機、B-52が一四四機、KC-135空中空輸機が一八九機という内訳だ。この行動はソ連に対するシグナルであり、ハノイ政府を和平交渉の場に引き出すためにもっと大胆な圧力をかけてほしいという意思表示だった。                             〔373ページ〕

 

ウォーターゲート事件で、実像をさらけ出されたニクソン大統領はともかく

ノーベル平和賞に輝いたキッシンジャーですら、この《素顔》だ。

 

・・・・ああもう、きりがない。

まだまだ目と耳を疑う「史実」が綺羅星のごとく輝いているので

その壮絶さは、ぜひ各自で確かめていただきたい。

まさしく「聖者の行進」ならぬ『愚者の行進』に他ならないのだから。

とにもかくにも、この〈アメリカ史〉だったら

トランプ大統領が出現するのも、ぜんぜん納得できるなぁ。

 

ではでは、またね。