知る喜び+考える愉しさ 『身体巡礼』『骸骨巡礼』養老孟司 周回遅れの文庫Rock

幼い頃から「死」を強く意識しているせいか

旅先で、墓地や納骨堂(カタコンベとか)に立ち寄ることが少なくない。

最近5~6年の西ヨーロッパだけでも

バチカン・シュテファン・ノートルダムの各大聖堂

ローマ市内のパンテオンやカプチーニ教会(通称「骸骨寺」)

パリのモンマルトル墓地からポルトガルはエヴォラの納骨堂など

最低でも一度の旅行で一箇所は"墓参り"に勤しんできた。

 

だが、当然のように「上には上がいる」ものだ。

解剖学者にして、いわゆる〈知の巨人〉のひとり、養老孟司である。

脳科学や解剖学の専門家である彼は、世界各地を訪れるたび

墓地・教会・大聖堂・礼拝堂・皇帝廟・納骨堂・人体模型の博物館などに足を運び

歴代王家の壮麗な墓所や、心臓埋葬の現場、無名の人骨が埋め尽くす壁などを

つぶさに見て回っていた。

本書『身体巡礼』と『骸骨巡礼』の二冊は

その膨大な"墓参り"のうち、2011年以降数年をかけて実施された

中欧と西欧の旅をまとめたものだ。

※ちなみに『身体巡礼』は、ドイツ・オーストリアチェコ

 『骸骨巡礼』は、イタリア・ポルトガル・フランスを巡っている。

 

これがよくある「歴史的名所巡り」と大きく異なることは

最初にオーストリアの首都ウイーンで訪ねる

ロレット礼拝堂、カプチン皇帝廟、シュテファン大聖堂の"三連発"で痛感させられる。

マリア・テレージアの棺など、歴代ハプスブルグ家の墓所であるだけでなく

遺体から心臓など主な臓器が取り出され、別の容器に入れて保管されているのだ。

シュテファン大聖堂には2度ばかり訪れたことがあるが

王族の臓器が保管されていることなど、まったく気づかぬまま

エレベーターで屋上まで昇り、鮮やかな屋根の模様を眺めて喜んだ記憶しかない。

まったく、どこを見てるんだか・・

 

おっと、ハプスブルク家の「心臓埋葬」に話を戻そう。

いったいなぜ、こんな面倒くさいこと(心臓埋葬)をやったのか?

そんな素朴な疑問から旅は始まり、ヨーロッパ各地に息づく「心臓信仰」や

遺体を埋め隠す日本と違い、建築物や装飾品のように公然と扱うドライな死生観。

堆積物のように何層にも重なって狭い敷地を埋めつくす、ユダヤ人墓地の謎など・・

死と墓と埋葬をめぐる旅は、読者の予想を超えた展開を繰り広げる。

 

とはいえ、本当にすごいのは、各国の"墓参り"をきっかけに次々紡ぎ出されてゆく

人の生死・自然・社会など神羅万象に関わる研ぎ澄まされた見識の数々だ。

たとえば、こんな一節に思わず"心の膝"を叩いてしまう。

パリは石灰岩地域で、アルカリ性の土壌だから、骨が溶けない。溶けないから、いつまでも残ってしまう。日本は火山性の酸性土壌が多いので、骨が溶けてなくなる。だから旧石器時代が日本にあったかどうか、議論があった。石器が出ても、骨が出ないのである。(『身体巡礼』67p)

かと思えば、次の一文に、己の末期を想起する。

現在の末期医療では、いわば治療ニヒリズム的傾向が生じてきている。患者さんが管だらけになる「スパゲッティ症候群」は、すでに私が現役の頃から非難があった。老人の死人の八割は溺死だという話もあった。心臓や腎臓の機能が落ちているのに、どんどん点滴をする。そうなると体内に水が溜まる。それが胸腔に溜まってくると、呼吸が困難になる。〈中略〉自分だったら点滴を避けて、寿命が短くなるほうを選ぶ。小児喘息をたびたび経験しているから、呼吸が苦しいほうがいやである。〈中略〉治らない苦しい状態を死ぬまで続けるのは拷問というしかない。人生の最後が拷問では、たまったものではなかろう。(『身体巡礼』120p)

はたまた、考えれば考えるほどわからなくなっていく「禅問答」のようなくだり。

言葉を尽くして説いても、意識は動かない。当たり前で、言葉もまた意識の産物である。その意識は勝手に出てきて、勝手に消える。いつの間にか寝込んで、いつの間にか目が覚める。いつの間にか物心がついて、いつの間にか死んでいるはずである。つまり意識自体を左右しているのは、なんと意識ではない。それなら言葉が「意識を変える」と思うのは、一種の錯覚であろう。言葉が意識を変えるなんて思うから、意識の内部でグルグル回るだけになってしまう。犬が自分の尻尾を追いかけているようなものである。(『身体巡礼』194p)

 

こんなふうに、「おおっ!」とか「ええっ!?」と叫びたくなる箇所は

それこそ"山のように"あるだろう。

しかも、そのスイッチをオンにするポイントは、読む人によってぜんぶ違うはず。

だからこそ、たまらなく面白い。

〈感じる楽しみ〉〈考える楽しみ〉が、まさにここにあるのだから。

 

あまりに強く共感し、紹介せずにはいられない文章を、もう少しだけ・・

生物は初期状態に戻らないから、厄介なのである。八十年近く生きていれば、初期状態に戻るはずがないとわかっている。でも若返り法が盛んだということは、自分を初期化することが現代人の夢であるらしい。STAP細胞はその夢を膨らませた。夢は否定しないが、その過程で生じるメタ・メッセージが問題であろう。世界は意識的にコントロールできる。そう思うことが意識の最悪の癖である。それを訂正するのは唯一、外界からの入力、つまり感覚である。スマホの世界はその感覚を限定してしまう。冷暖房完備、人工照明で明るさ一定、太陽が見えないから時間の経過は不明、天候不明、風景はほぼ不変、そういう部屋で毎日仕事をする。どんどん変化するのは画面だけ。それをおかしいと思わない、当たり前だと思う人たちが増えているわけである。(『骸骨巡礼』69p)

 

大本営発表にダマされ続けた黒塗り世代としては、政府関係者に嘘をつかれるのがいちばん腹立たしい。その極め付けがブッシュ政権とそれを支えたネオコンである。大量破壊兵器アルカイダフセインの関係。イラク戦争の理由になった両方とも真っ赤なウソ。それなら9・11に関する報道を私が信用しないのは当たり前ではないか。そのアメリカ政府の発表を、白々しくそのまま伝えていた日本のマスコミも政府も、信用する気はまったくない。アメリカがそういってるんだから、自分はそれを伝えているだけ、私が嘘をついているわけじゃない。日本のマスコミはそういうに決まっている。大本営発表だって、軍がそういっていただけで、新聞にもラジオにも責任はありませんからね。そういう根性が戦前から相変わらずなんだから、こんな国は滅びて当然かもしれない。(『骸骨巡礼』144-5p) 

 

ホスピス勤務の医師にいわれたことが忘れられない。九十歳を過ぎたお爺さんが入院していて、毎日死にたくないとわめくんですよ。ということは、九十歳を過ぎて、これから生きようと思っているわけである。それはそれでいい。でもこの人はこれまで生きてきたのだろうか。生きることを先延ばしにしてきたのではないのだろうか。現代社会、情報化社会には、そういう恐ろしさがある。将来のため、いざという時のため。それが本当に来るのだろうか。おそらく来ない可能性が高い。私はそう思う。       いまを生きるとは、そのことであろう。いましか生きられないのは、当たり前である。でも予測をし、それに見合った統御を続けていれば、人生は自分の掌の中にあると錯覚する。でも気がついた時には想定外が起こっている。自分が歳をとり、目はかすみ、耳は遠くなり、歩くのも不自由になり、記憶力は衰える。若いうちはそんなことは予測しない。予測しているというのは、たぶん嘘である。だってそうなってみなければ、実感はないからである。(『骸骨巡礼』157-8p)

 

まるで自分が考えたコトであるかのように、得々と書き写してしまった。

これもまた、一種の"洗脳"なのかもしれない。

それでも、次のように断言することは可能である。

 

どれほどお偉い僧侶やローマ法王よりも

いまの自分にとっては

養老孟子の言葉(文章)のほうが

はるかに心安らかな死を迎える助けになっているのだ、と。

 

ではでは、またね。