手をつないで歩く。このしあわせ 『モリオ』荻上直子 周回遅れの文庫外Rock

熱烈なファンではないものの

映画『かもめ食堂』と『トイレット』は観たことがある。

どちらも、大変面白かった。

特に役者がしゃべり過ぎないのが、心地いい。

 

声を張り上げ、着ぐるみばりのオーパ-アクションで感情を表わすことが

「熱演」だと勘違いしてる役者や演出家が多いなか

感情の押しつけでしかないBGMに頼らず

沈黙や自然の音を巧みに使いこなした荻上作品は

調味料やスパイスの刺激ばかりが舌に残る〈大ヒット作〉とは異なり

とても心地良い"のど越し"と"後味"を、残してくれた。

 

そんな荻上直子の第一小説集『モリオ』にも

映画同様の〈静けさ〉や〈自然音(というか光)〉が

行間の隅々にまで、行き渡っている。

 

本書に収められているのは、『モリオ』『エウとシャチョウ』の二編だ。

『モリオ』は、幼い頃、母親が使う足踏みミシンの下が大好きだったモリオ少年が

母の死後、そのミシンを使い、長年憧れていた花柄のスカートを縫って穿く。

当初、男性がスカートを作って穿くことに迷っていたモリオだが

ひとりの少女との出会いと交流が、彼を徐々に動かしてゆく。

『エウとシャチョウ』も、題名イコール主人公となる。

"猫の相手!?"をなりわいとする若者エウが

同居人の看護師「ヨーコさん」の飼い猫「シャチョウ」の最期を看取るお話。

ガンで余命三カ月と宣告されたシャチョウが少しずつ弱っていく姿と

エウ自身の回想が、互い違いに、淡々と語り継がれてゆく。

"愛するパートナー(猫)と過ごす最後の日々"

という状況につきものの〈感情の爆発〉は、静けさのなかで小さく燃えるだけだ。

それでも込み上げてくるのは、生まれながらの"甘ったれ"のせいか。

 

ストーリーとは直接関係ないところでも

「手芸店ならではの心地良さ」とか

「同じものでも値段を高くしたほうがよく売れる」とか

思わず引用したくなる箇所が幾つもあったけど

今回は、なにより深く心の底まで沁み渡り

いまでも読み返すたびに、ほのかな温もりが蘇る一節を挙げたい。

 

それは、両作品に共通する《結末のシーン》。

『モリオ』では、彼と少女が。

『エウとシャチョウ』では、エウとヨーコさんが。

"手を繋いで"、歩くのだ。

 

きっと、どれほど言葉を重ねようとも

つないだ手を手を通して伝わってくる"言葉にならない想い"より

確かな〈実感〉は、得られないような気がする

 

あっさりと小さな手を預けてくる孫たちと一緒に歩くたび

その感触に新鮮な驚きを覚え

――もっと、いろんな人と手を繋げばよかったな。

などと、"ふれあい"に欠けた己の足取りを思い巡らしてしまうのだった。

 

お。珍しく、内省的になってる。

これも『モリオ』の"読書効果"ってヤツなのかも。

 

ではでは、またね。