なぜ"人を殺す話"がよく売れるのか? 『その女アレックス』ピエール・ルメートル 周回遅れの文庫Rock

『悲しみのイレーヌ』から『傷だらけのカミーユ』へと至る

"カミーユ警部三部作"中、最も人気を博した『その女アレックス』。

数あるミステリ・ランキングのトップを勝ち取った、「傑作」のひとつだ。

 

前作で、犯罪者の手により最愛の妻イレーヌ(妊娠中)の命を奪われ

激しいショックで抜け殻のようになっていた

身長145センチのパリ警視庁の敏腕警部カミーユ・ヴェルーヴェン

そんな彼が再起をかけて任された事件こそ

"謎の女"アレックスにまつわる、誘拐・監禁事件だった。

 

犯人(男)に命じられ全裸になり

"体育座り"しなければ全身が収まらない小さな木箱に閉じ込められ

徐々に衰弱してゆく看護師、アレックス。

ところが懸命の捜査の末、カミーユが監禁場所にたどりついたとき

すでに彼女は自力で脱出を果たし、箱はもぬけの殻だった。

いったいなぜ、瀕死の状態だったというのに

アレックスは警察に保護を求めず、姿をくらましてしまったのか?

やがて、彼女の壮絶な過去が徐々に明かされ

〈被害者から加害者〉へと、余りにも劇的な変貌を遂げていくのだった・・

 

読者にほっと息をつく間も許さず、物語は二転三転を繰り返し

悲運の警部カミーユの人生をも巻き込みながら

誰も予想しなかっただろう結末へと、なだれ込んでゆく。

いわゆる"読み始めたら止まらない"たぐいの、ミステリーの傑作だ。

・・という一般評価に異論をさしはさむつもりは、毛頭ない。

 

ただ、喉の奥に引っかかった魚の小骨のように

どうにも、気になって仕方がないのだ。

最初にアレックスが受けた全裸監禁(ネズミに食われる恐怖つき)を皮切りに

あの手この手で、これでもか、これでもかと"描写"される

人が死ぬ瞬間――〈ヒトゴロシ現場オンパレード〉が。

 

ふつう、我々が本(物語)に求めるものは

夢や希望といった〈プラス方向〉のストーリーである。

分かりやすい例をあげると

"すごい能力を持って異世界に転生し、人生をやり直す"みたいな内容だ。

だが現実には、「ホラー」や「イヤミス」のように

実体験するのは全然嬉しくないジャンルも、どしどし読まれている。

なかでも、殺人がらみの事件を中心に据えた

「犯罪・警察・探偵・スパイ=ミステリー」分野の小説は

全世界的に一大ジャンルを確立し

おそらく十億を超える大量の読者が、新たな傑作を求め続けている。

 

要するに、何を言いたいのかというと・・

これら膨大な数の読者たちは、どうしてこんなにも「ヒトゴロシの話」を好むのか?

という、素朴な疑問の噴出が抑えられないのだ。

 

ことさら"人が死なないミステリー"と宣言した作品以外

「ミステリー」と呼ばれる物語には、ほぼ「殺人事件」がついてくる。

しかも作品中における〈殺人シーン〉は、間違いなく〈読ませどころ〉のひとつ。

心理・情景ともに、じっくりとリアルに描かれていることが多い。

 

本作『その女アレックス』も例外ではなく

実際に該当する文章を目で追い、頭の中に情景を思い浮かべてゆくと

思わず「うぇっ・・」と顔をしかめたくなるほど

容赦なく陰惨で、文字通り"見るに堪えない情景"が展開され.るのだ。

 

おかげでうたたの場合、この手の〈殺人小説〉を読了するたび

いったん別ジャンルの本へと緊急避難し、"心の傷を癒す"必要が生じる。

頭の片隅で、これまで何度も繰り返された疑問を持て余しながら。

 

――みんな、心の奥底では、人を殺してみたいんじゃないのかな?

 

そうとでも考えなきゃ

こんなに「リアリティある殺人話」なんか、売れるわけないじゃん。

 

うん。

やはり「物語」って、願望を叶えてくれる〈夢の世界〉だよ。

だから、とことん被害者を痛めつめ苦しめる情景が"デフォルテ"の海外ミステリーは

読者の"秘めたる欲望"を、フィクションの形で浄化させているのだ、と思いたい。

 

たとえば本作もそうだが、海外ミステリーを読んでいると

"被害者が身動きできない場所に閉じ込められる"シチュエーションに、よく出会う。

いわゆる「監禁モノ」というヤツだ。

『特捜部Qシリーズ』り第一作でも、攫われた女性は”檻の中“に囚われてたっけ。

たぶんこれも、女性(母親・妻・恋人・娘etc.)に対する行き場のない不満や怒りが

繁栄された結果ではないかと、勝手に想像したくなる。

 

誰か、こうした〈読者の秘めた想い〉と〈ミステリー小説〉の相互作用を

分析やら考察してくれないかなぁ。

小説と読者を結びつける"新たな関係性"が、見つかるかもよ。

 

ではでは、またね。