"現実"に圧倒される。『死体が語る真実 -9・11からバラバラ殺人まで衝撃の現場報告-』エミリー・クレイグ 周回遅れの文庫Rock

自宅にストックしてある膨大な書物のうち

"次にどれを読むか"という問題には、長年頭を悩ませてきた。

その時々の気分や好みに任せていたら、特定のジャンルばかり選ぶに違いないからだ。

なので2年前から、毎月残り数日になると、手帳の翌月分に「読書予定表」を記入。

未読分に加え、新たな書名(10冊前後)を付け足すことを習慣にしている。

それを確認すると、本書が予定表に登場したのは「2月分」以降。

要するに、プーチンウクライナ侵攻を始める1カ月前には

これを読む予定が決まっていた、ということ。

 

・・わざわざ300字近くも費やして、言い訳したくなるほど

本書は、いままさにウクライナで起きている惨劇を、目の前に見せつけてくれる。

なぜなら、がれきの下に埋もれたり、爆発でバラバラになった死体が

これでもかというほど、続々と登場するから。

――死者の骨を発見し、判別し、その身元を探るのが、著者の仕事なのだ。

 

巻末の「訳者あとがき」に、簡潔な要約が載っていたので、転載させていただく。

著者のエミリー・クレイグ博士は、二百以上あるという人間の骨を、それも完全な骨ではなく破片であっても、ひと目見て体のどの部分なのか判別できるのだという。その技量を生かして、火災や爆発によって黒焦げになったりバラバラになってしまった死体や、殺人犯が意図的にバラバラにした死体、あるいは屋外に放置されて白骨化していた死体などの身元や死因の特定をしてきた体験が、本書にはぎっしりと詰まっている。〈中略〉まさに事実は小説よりも――で、ここに披露されている数々のできごとは並のミステリを遥かに超える興味深さだ。39p

 

死者(犠牲者)の体に残った僅かな手掛かりで、犯罪の可能性や犯人をあぶりだす。

いまでは検視官スカーペッタのシリーズ、『CSI』を初めとしたテレビドラマなどで

すっかりおなじみになった、シチュエーションだ。

その"先駆者"ともいえる著者の体験談は、〈死〉のリアリティを淡々と描いてゆく。

たとえば、死体とウジとの密接な関わりを、こう記す。

今でも驚きを禁じ得ないのは、ウジがあっという間に死体の肉の部分を食いつくして骨だけにしてしまう早業だ。マザーグースの童謡に歌われている"ウジが這いこみ、ウジが這い出る"というのは現実からそう遠くはないのだ。法昆虫学者の間ではこんなことが言われている。ハエとその子供たちはおとなのライオン一頭と同じくらいすばやく死骸を食いつくすと。体長一インチにも満たないちっぽけな生き物にしてはたいしたものだ。80p

 

あるいは、死体が燃やされると、どうなるのか。何が残るのか。

まず頭皮が損傷を受け、髪はあっという間に灰になってしまう。数秒のうちに顔の皮膚が焼けただけ、次に裂け、縮み、ちりちりに燃えてしまう。ひとりひとりの外観のちがいを生じさせている薄い表皮はたちまち燃えつくし、頬からあごにかけては黒く固い仮面のような状態になる。〈中略〉                          次に筋肉が燃えはじめる。そして骨が。おおっている軟組織がない、あるいは少ない部分がまず燃える――頭、指、手、足。数分で頭は頭蓋骨だけになり、腕と脚は筋肉と骨だけが残って、乾いたミイラのような状態になる。                背骨の下部、骨盤、大腿骨はより長くもちこたえる。これらのしっかりとした大きな骨は比較的多くの軟組織におおわれていることもあって体のほかの部分より長持ちする。同時に日の熱が胃や胸郭に伝わり、皮膚は縮み裂けているのに内臓が膨張してくる。 その結果、ときには腹を突き破って内臓が破裂することがあり、腹が腸から飛び出しているところはまるでSF映画のエイリアンだ。血液も血管の壁を突き破って噴きだし、沸騰し、固まっていく。                             一時間もすると、残っているのは骨だけになる。ただし、骨と言っても解剖学教室の隅に置いてある骨格標本のようなきれいな白い骸骨ではない。自然な状態では骨はバターのような薄い黄色している。それが猛火で焼かれると、まず茶色になり、次に黒、青灰色、灰色から白と変わっていき、最後に灰そのものになる。116-7p

まだまだ続くが、キリがないのでやめておこう。

 

たったこれだけの引用からも、ウクライナの街で、大量のがれきの下に埋もれたまま、

その身を焼かれたおびただしい人々の最期が、瞼の裏に投影されてゆく。

「いまだ多数の死者が地下のシェルターに・・」という、まさにその現場で。

著者と同じエキスパートが、遺体の一部や骨の断片を、ひとつひとつ掘り出し分析。

"それが誰なのか""なぜこんな目に遭ったのか"を、究明すべく全力を傾けている。

 

もちろん「9.11」をはじめ著者が記した体験は、みな過去の出来事だ。

しかし、いま本書を開き、その文章に目を落とす読者にとって

すべては戦禍のウクライナで、またミャンマーやシリアで果てしなく続く惨劇と同様。

まさにこの瞬間に進行している、「現実」の姿に他ならない。

だからこそ、ひとつひとつのフレーズが脳に焼き付き、離れなくなる。

やがてわかってきたのだが、数多くの死体が集まるとにおいが床や天井や壁の微細な穴にしみこんでしまうのだ。目で見える死の痕跡は洗い流すことができるが、においはだめだ。においはいつまでもいつまでも残る。125p

鋼鉄をねじ曲げ焼きつくした力のものすごさは理解の限度を超えるほどだった。あたりには煙が立ちこめ、ほかのものとまちがえようもない人間の体が焼けれにおいを運んできた。そしてどちらを見ても粉々になったコンクリートその他の瓦礫が山になっていた。中心部に近いところでくすぶっている残骸では、コンクリートの破片やガラス、鉄材などが山のようになった上で煙と灰が渦を巻き、まるで地獄をのぞきこむ思いだった。360-1p〔ワールドトレードセンター〕

下を見ると、地面にはさまざまなもの――大粒の砂、ガラスの破片、電線の切れた橋、ねじ曲がった鉄材などーーが数インチ積もっていた。恐ろしいことに骨のかけらもいくつか目に留まった。                                ほんとうは驚くはおかしいのだ。午前中ずっと遺体の一部分だけでなく骨の破片も次々にモルグに運びこまれているのを見てきたのだから。そして破壊のすさまじさをこの目で見た今、こうした破片だけが、あの恐怖の朝ここにいて犠牲になった人たちの亡骸である可能性が大家こともよくわかった。心が支えきれないほど大きな悲しみに満たされ、必死で涙をこらえなければならなかった。361-2p〔ワールドトレードセンター〕

 

「偉大なる英雄」も、「崇高なる犠牲」も、現実には存在しない。

ただ、何者とも判らぬ黒焦げの死体や、小さな骨の断片だけが

果て知れぬ瓦礫の底から、掬い上げられてゆく。

ーーこんなネガティブなポエム(?)、書いたところで何も変わらないけど。

 

ではでは、またね。

"ヒキコモリ"でも"コミュ障"でもない。フツーの社会人(ただし努力の天才) 『若冲 JAKUCHU』狩野博幸 周回遅れの文庫Rock

京都錦小路の青物問屋の後継ぎとして生まれたにも関わらず

家業には一切興味を抱かず、早々と隠居を宣言。

生涯独身を貫き、妻帯もせず、酒もたばこもたしなまず

世間とも没交渉を貫き、ひたすらに画業(独学)に打ち込むこと半世紀あまり。

誰にもその才を認められぬまま、文字通り"絵に生涯を捧げた"不遇の天才。

もっと簡単に言えば

『絵を描くことにしか情熱を注げないヒキコモリ』

――それが、一般の人々が伊東若冲に対して抱くイメージだった。

 

本書は、そうした〈世間の勝手な思い込み〉が

どれほどデタラメで、"観客に取って都合のいい天才像"だったのかを

現存する歴史資料を駆使して、すっきり解き明かしてみせた。

 

もちろん、極限までリアリティを求めた末

数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、そのすがたかたちを観察しきった上で、初めてそれを写し取る。それが数年に及んだ。39p

といった、徹頭徹尾"観察"にこだわった逸話だとか

鶏の姿を感得したのち、今度は、草木や(鶏以外の)鳥、あるいは虫や獣、魚類といった生きとし生ける動植物の姿を知り尽くすことによって、それらのなかに潜む「神」に出会うことが可能になるし、そうした初めて手が動いて描けるようになった。41p

など、いかにも「オタク」的な対象への没頭ぶりは、紛れもない事実であろう。

 

しかし、そのいっぽうで

どこかヴィンセント・ヴァン・ゴッホを連想せずにはいられない

〈奇人変人像〉の大部分は、とんでもない濡れ衣だったことに

ようやく本書のおかけで、気付くことができた。

 

以下は繰り返しになるが――

家業(問屋)をまったく顧みず、ただ絵だけに生きがいを感じていた。⇒ウソ。

世間との交流が苦手で、ほとんど「ヒキコモリ」の人生だった。⇒大ウソ。

ゴッホのように、存命中は誰にも認められなかった。⇒デタラメ。

 

まったく、「シロートの勝手な思い込み」ほど、困ったものはない。

これまた愛用するフレーズだけど

――人は、自分が信じたいものしか信じない(ユリウス・カエサル

そのまんまだ。

 

絵に描いたような〈社会負適合者=孤高の天才像〉を

かたっぱしからひっくり返し

リアルな「伊藤若冲」を、目覚めさせてくれた。

 

ちなみに"若冲初心者"のうたたが、特に心を惹かれた一節が、こちら。

気をつけて見ると、「動植綵絵」に限ってみても、葉に虫が喰った穴があいていたり、染みが出ていたり、枯れかかったりしている描写がはなはだ多いことに気づく。つまり、若冲は意識的に病葉(わくらば)を描くのである。吉祥画という意味では、これは大きな欠陥というほかない。ないが、若冲は敢えて病葉を描く。若冲画の本質が実はここに潜んでいるのだ。145p                                      なにゆえ筆者がこのことに拘泥するかといえば、長谷川等伯の国宝「楓図」や狩野山楽重要文化財「牡丹図」を例にあげると、それらの巨大な画面のなかには一枚の病葉も描かれていないのだ。それが普通なのである。普通だったのである。        若冲の病葉がいかに破天荒なことであるのかを知っていただきたい。73p-

キレイはキタナイ。キタナイはキレイ。

!リアリティの探究者"――伊東若冲の真髄、ここにあり。

 

恥ずかしながら、"若冲初心者"のうたたは

昨年秋に京都の相国寺承天閣美術館で観たものが

人生初にして唯一の〈ナマ若冲体験〉である。

なのに、いまなお、どこかアニメキャラのようなカッコイイ『鳳凰図』

リズミカルな尾羽の跳ね上がりが目を奪われた『仙人掌群鶏図』

病葉だらけの葡萄からヒュン!と一羽宙に舞う『葡萄小禽図』が

生き生きと脳裡に蘇ってくるのだ。

こんなにも〔判り易くて面白い〕絵画作品は、そうそうない。

ま、だからこそ、ここまで圧倒的な人気を博しているんだろうけど。

 

嬉しいことに、ほとんどの作品が未鑑賞のままだ。

さて、次はどの"若冲"に逢いに行こうかな・・

 

ではでは、またね。

北海道が日本の国土で、ホント良かった。『百姓貴族』①~⑦(刊行中) 荒川弘 周回遅れのマンガRock

ひとことで紹介すると・・メチャクチャ"タメ"になるバカばなし!

 

ハガレン」「銀の匙」の作者・荒川弘

ほぼ2年に1冊というスローペースで続いている

自称「日本初☆農家エッセイ」マンガ。

第1巻の初版発売日が2009年12月25日だから

足かけ14年にも渡る長期連載だ。

 

さすがに初期の頃の破壊的なインパクトは薄れたものの

完全ブラックな労働環境や、全身生傷だらけのハレンチオヤジなど

ツッコミどころ満載の"モーレツ異文化ぶり"は、まだまだ健在。

エッセイマンガお約束の「作者&子供の変化+成長」もいい塩梅に加わっており

長期連載=マンネリ化の危機は、当分心配せずに済みそうだ。

 

ちなみに最新7巻は、時系列的に「新型コロナの流行」と重なり

十勝地方の農村における"パンデミック"がリアルに描かれていた‥‥とはいうものの。

都会(首都圏?)に暮らす作者一家が                      「ゴールディンウィークは実家の畑を手伝いに行こうと思ってたけど         こりゃしばらく帰れんなぁ」「じいちゃんち行きたかったなー」          などなど、完璧な外出自粛モードを強いられるいっぽう。               先日 母と電話しましたら。「実家は大丈夫? なんか困っていることない?」    「うーん‥‥ コロナに関しては特にないかな 気をつけてはいるけど‥‥         元々過疎地の農村な上に ここ最近さらに過疎が加速しているから 人に遭遇しない。車社会だから公共交通機関使わないしね」               

見事なまでの〈通常運転〉。どころか、マスクも消毒液も在庫アリアリなんだと、 「畑作も畜産も伝染病やらなんやらしょっちゅう経験してきてるから         農家は防疫に強いのよ」7-34p~

改めて大都市周辺で生活する我等とは、まるっきり異質な風土に暮らしているのだと、

痛感させられた。

てなわけで、今回の主題?に入ってしまおう。

 

本書の主な舞台である釧路地方を含む北海道と

九州のさらに南に連なる沖縄諸島(たぶん奄美も)は

うたたの感覚だと、"海外"になっている。

なにより、気候と風土が、本州(+四国&九州)とは、根本的に違う。

 

40数年をかけて実際に47都道府県をくまなく巡り

韓国・中国・台湾にも何度か足を運んだ経験から言わせてもらうと。

北海道より韓国のほうが本州(四国・九州)に近いし

本州より台湾のほうがず~っと沖縄に近い(距離的に考えても当然かな)。

 

つまり、何を言いたいのかというと。

たまたま成り行きでそうなっただけだろうけど

日本という国のなかには、"3つの海外がある!"ってこと。

もっと乱暴に呼ぶと、「北国(北海道)」「本土(本州)」「南国(沖縄)」だ。

 

ロシア・アメリカ・中国みたいに日本の数十倍もの広大な国から見れば

モビールみたいな"飛び石島国"が、何を有難がってんるだよ!?

とかなんとか、鼻で笑われかねないけど。

それでも、南北2000キロに及ぶビーズ細工のような国土を持つおかげで

「新型コロナ」が猛威を振るい、外国への旅が実質不可能な状況でも

外国の代替となる、北海道&沖縄に足を運べるおかげで

我ら"海外旅行中毒者"は、精神的にものすご~く助かっているのだ。

(実際、海外渡航不可となった最近2年で、北海道にも沖縄にも出かけている)

 

本書『百姓貴族』の中でも掻かれていたけど

第二次大戦(太平洋戦争)に負けたあと。

日本の国土が、米英中ソの4カ国に分割統治されなくて、ほんっっとによかった。

特に北海道の場合、一歩間違っていたらソ連(現ロシア)の支配下になってたわけで

北方領土同様、いまだに蚊の国の領土であり続けていたことだろう。

でもって、朝鮮戦争の代わりに日本列島戦争が勃発していても、不思議じゃない。

結果的には北海道・本州・四国・九州が安堵され

意外と脇が甘いアメリカさんから沖縄も返してもらえたわけだし。

――けっこう日本って、悪運強い国だと思う。

 

ま、例によって脱線しまくりだっけど

捧腹絶倒の異文化体験はもちろん

いまウクライナで着々と進むロシア軍の東部侵攻にもつながる領土問題を

"切実にして身近な危機"として再考できることでも

本書を強くお勧めしたい。

とはいえ実際のところ、眉間にシワが寄るような部分は、ほぼ皆無。

やっぱ、"ためになるバカばなし"・・これに尽きるようだ。

 

ではでは、またね。

猪木さんと一緒のエレベーターに乗ったこと MakeMakeの追憶

ニュースや事件に関する意見・感想を述べようとしても

"現実"なるものが余りに重すぎて、どうしても身構えてしまう。

挙句に、「なにか気の利いたことを書かなくては」などと自分勝手な縛りに囚われ

アップできずに終わるのが、ここしばらくの通例だった。

結果、旅と読書の記録ばかりが続いていたのだが

それだけだと、なんだか息苦しさを感じるようになってきた。

なので今回からは、もそっと軽い気分で

1週間分のニュースにたいして、思いついたことを書き散らしてみたい。

 

その記念すべき?第1回目。

うたたにとって最大のニュースは、安倍晋三国葬でも

プーチンによるウクライナ東部四州の強制併合でもなかった。

アントニオ猪木の死」である。

長らくテレビ番組の制作に関わる仕事に従事していたおかげで

彼とは一度だけ、エレベーターで同席?したことがある。

 

かれこれ20年以上も前のことだが

日本テレビで10年以上続いていた、有名人の人生を振り返る番組で

異種格闘技の元祖・前田光世を特集した。

その出演者(ゲスト・パネラー)のひとりに、猪木氏を招待したのだった。

・・といっても、しがない裏方(構成作家)の立場ゆえ

直接彼と挨拶したり、言葉を交わす機会には恵まれなかった。

それでも、長年プロレス&格闘技ファンを続け

新日・UWF・リングス・パンクラスetc.・・の会場に

何度も足を運んだ"功徳"が実を結んだのか。

 

たまたま、局のスタジオに向かおうと閉まりかけたエレベーターに駆け込んだところ。

マネージャーらしき男性と中に立っていた"先客"が

ほかでもないアントニオ猪木氏、その人だった。

 

一瞬、入るのをやめようかと考えたが

ここで背中を向けるは、かえって不自然だと思い直し

軽く頭を下げて、エレベーター(6人乗り前後)に乗り込んだ。

 

高価そうなダークスーツに身を包んだ猪木氏は

あの鋭いまなざしをこちらに向け、ほんの一瞬だけ、チラリと視線を合わせてきた。

ここでうたたが根っからのテレビ屋だったら

「おはようございます!」とか軽く挨拶できるのだろうけど

あいにくこちとら根暗な作家センセイだ。

視線が絡んだタイミングに合わせて、軽く頭を下げるだけにとどめ

すぐに180度向きを変え、エレベーターのドアとにらめっこを始めた。

 

直接猪木氏と対面したのは、たったこれだけ。

時間にすれば、ほんの2~3秒に過ぎない。

それでも、彼から伝わって来たのは・・明確な緊張と警戒心だった。

当時、猪木氏は50代の半ばを過ぎたあたりだろうか。

確かまだ現役選手として活動していたはずだが

当然肉体的な衰えも進み、実際に満身創痍だっただろう。

しかしどんなに身体が悲鳴を上げようとも

トップとしてリングに立ち続けなければならない。

そんな悲壮感が、否応なく漂っていた――ように感じてしまった。

 

そして、もうひとつ。

よく強く抱いた印象が、あった。

ーー思っていたほど、大きくないんだなぁ。

 

公称されているプロフィールには「身長190㎝」とあったが

170台前半のうたたと視線を合わせた瞬間の仰角は

"ちょっと見上げる"程度の少なさだった。

よほど猪木氏が猫背になっていたのか。

あるいは、公称より低い身長の持ち主だったのか。

失礼を承知で選ばせてもらえば、やはり後者だった気がする。

 

別に身長の水増しなんて「プロレスラーあるある」の典型だから、別にいいんだけど。

あのとき、全身に漂わせていた緊張感と合わせて考えると。

きっとこちらの想像を超える"重荷"を、いっばい背負っていたんだろうなぁ――

なーんて、凡人は毒にも薬にもならない妄想を巡らせてみたり。

 

なにはともあれ

本当に、本当に、お疲れさまでした。

 

ではでは、またね。

最悪。チェチェンで「コレ」をやったのか・・  

昨日の時点では、軍のトップを失って指揮系統が乱れるなか

ろくに戦闘経験もない若年兵士たちが

恐怖と不安から「虐殺という名のパニック」に陥ってしまったのでは・・

などと妄想を膨らませていた。

ところが現実は、輪を掛けて酷いシロモノだった。

まさか、チェチェンで暴虐を尽くした「特殊部隊=タフガイの中のタフガイ!」が

"見せしめの虐殺"をやらかしていたとは。

 

これ以上、新たな情報が入って来ないのであれば

虐殺の「実行犯」は、彼ら歴戦の特殊部隊に他ならない。

ソビエト崩壊後、独立を求めて立ち上がったチェチェンなど数多の戦場で

〈拷問→銃殺→敢えて放置する〉という"見せしめ行為"を実行してきたのだろう。

彼らにすれば、"いままで通りの作業"を淡々とこなしたに過ぎない。

 

しかし今回の相手は、ウクライナというれっきとした「外国」なのだ。

国内紛争を楯にした徹底的な情報統制を敷くこともできず

残虐行為の数々が、まんま全世界に流れてしまった。

残念ながら歴戦のベテラン兵士たちは、その違いを認識できていなかったらしい。

いや。。あからさまになることがわかった上で、敢えて「見せしめ」たのか。

だとしたら、よりいっそう醜悪で、"人間的"だと言わざるを得ない。

 

何より悲惨なのは、単なる?「見せしめ」のために虐殺され

街なかに放置された犠牲者の方々だ。

むろんその中には、純粋な非戦闘員ではなく

一般市民を装ったゲリラ兵が含まれていることだろう。

「正しいルール」など存在しないのが、戦場である。

ゼレンスキー大統領の発言が100%正しいと盲信するほど

現実は、はっきり白と黒に色分けできなくて当たり前だ。

・・話を戻そう。

 

そして、犠牲になったウクライナ市民の次?に、悲惨だったのは

間違いなく、現場で虐殺行為の"お手伝い"を強制された、ロシア軍の若者たちである。

またも、やくたいない妄想になってしまうが――

市民の両手を縛り上げ、逃げださぬよう監視し、遺体の処理に追われるだけでなく

ときには、特殊部隊の熟練兵に強制されて市民の後頭部を撃ち抜く・・など

考えられる限りの〈命令〉に、一切拒否できず従うしかなかったのだから。

初めて殺した"敵"が一般市民だったショックに加え

熟練兵に「これでお前も男だ」なんて肩を叩かれたりでもしたら・・

心に傷を負わないほうが、不思議なくらいだ。

 

ああ、いかん。

またしても、安っぽい妄想に耽ってしまった。

こんな無責任なことをダラダラ書いていられるのも

いまこの瞬間、さしたる危機感も抱かずに息をしているおかげなのに。

 

しかし可能性さえ挙げれば、ほんの数分後。

核弾頭を搭載したミサイルがロシアから飛来し

一瞬にして命を奪われる可能性だって、決してゼロではない。

なにせこの国は、アメリカ合衆国の極東における最前線基地なのだから。

プーチンにすれば"最初に叩く"理由は、いくつもある。

 

北朝鮮が打ち上げるポンコツICBMなら、なんとか撃ち落とせるかもしれないが

最新型核爆弾を6000発保持するロシアの攻撃を防ぎきるすべなど、存在しない。

実際、いつ何が起きても不思議ではない2022年4月上旬なのだ。

 

願わくば、1960年代のキューバ危機のさなか。

司令部の命令に背いて核ミサイルの発射ボタンを押さなかった

ソビエト軍潜水艦艦長のような"真の英雄"が

今回も、登場してくれますように・・

 

今も昔も、〈神様〉なんか信じてないけど

人類が持ってる〈悪運〉ってヤツは、けっこう信じてるんだよね。

 

ではでは、またね。

"弱者"が"弱者"を殺戮するとき 「勝者」なきウクライナ大虐殺  MakeMakeの・・・・

キーフ(キエフ)近郊からロシア軍の撤退が進むにつれ

ウクライナ市民に行なわれた残虐行為が、次々と明らかになってきた。

一般市民を害さずに、市街戦なんかできるわけがない。

と、ある程度は覚悟していたが、ここまで悲惨な事態になっていたとは・・

 

自由を奪い殺した市民の遺体を、わざわざ路上に放置して見せつける。

同じ人間の行ないだとは思いたくない、残虐さだ。

画面を通して見ているだけで、体が震えてくる。

だが、これもまた、紛れもなく〈人間だから出来た行為〉に他ならない。

 

いったいなぜ、ここまで"非人道的"な所業が可能だったのか。

 

ひとつは、侵攻する側のロシア軍兵の大半が

軍事演習のつもりでいきなり実戦に投入された、若い訓練兵だったこと。

彼らに、熟練兵並みの行動力を求めるのは、酷である。

アメリカにおける新兵勧誘と同様

受験や就職に失敗し将来の展望に行き詰った若者たちが

退役後の奨学金や優遇措置などの甘い言葉につられ

たいした覚悟もなく、兵役に就いた者が相当数を占めるからだ。

安易な決めつけかもしれないが

この若者たちは、ロシア社会における"弱者"である。

 

そうした新兵未満のひよっこたちが中心となり

いきなりスタートしたウクライナ侵攻。

右も左も分からぬ彼らにできるのは、「上官の命令に従うこと」のみ。

トップに君臨する将軍が下す指令だけを頼りに

生れて初めての"殺し合い"に、心と身体を削られていった。

 

ところが、ウクライナ優秀なスナイパーに活躍により

強固なはずの〈指令ビラミッド〉の頂点が、いきなり失われる。

 

"頭"を奪われ、明確な指針も与えられず、不安と恐怖ばかり溜まってゆく暴力装置

彼らが、自らの内圧に耐えきれずに"暴発"するのは、ある意味必然だ。

誰でもいいから〈目についた敵〉を捕らえ、知るはずもないスナイパーの情報を求め

・・というのはタテマエにすぎない。

もっと単純に、「復讐」したかったのだろう。

殺された仲間たちの仇? 狙撃された将軍の仇? 

うっかり軍隊なんかに入ってしまった、己自身への怒り?

それとも、自分たちをいきなり最前線に放り出し

「いまから殺し合え」と命じた、小柄な独裁者に対する激情だったのかもしれない。

 

ともあれ、無差別な略奪と凌辱と殺戮は、始まってしまった。

いったん激情に囚われてしまったら。もう誰に求めることはできない。

なに、簡単だ。

「敵」を自分と同じ人間だと思いさえしなけば、いいのだ。

ほんの数百年前、十字軍という名の略奪集団を結成し

異端審問という名の殺戮集団がやっていたことと、何も変わらない。

数十年前、ベトナムで米軍が行なっていた「軍事行動」も

もっと最近になって、ボスニアヘルツェゴビナで起きたことだって

同様の判断と区別を「正義」と言い換え、人は人を無慈悲に殺し続けてきた。

 

しかも、そうした"弱者"による殺戮行為は

決まって、加害者だったはずの"弱者本人"に、強く激しく跳ね返ってくる。

ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵の多くがそうだったように

狂気の興奮から醒め、再び己の周りに日常が戻って来たとき。

彼らの中に残っていた〈良心の欠片〉が、悲鳴を上げる。

そして少なからぬ数が、"痛み"に耐えきれず、自ら命を絶ってゆく。

ベトナム帰還兵がそうだったように

ウクライナ市民の頭を撃ち抜いた兵士たちの相当数が

今後数年、数十年に及ぶ"地獄の日々"を体験することになるだろう。

 

いっぽうで、どれだけ無抵抗の子供や女性を手に掛けようとも

国に戻った後も、蛙の面に小便とばかり、元気いっぱい食欲モリモリ。

一杯飲もうものなら、自慢たっぷりに「武勇伝」を披露してみせる

良心の痛み?なにそれ? ってな感じのサイコパスも一定の割合で存在する。

そんな不感症野郎を、かつて欧米では、尊敬の念をこめてこう呼んだ。

――—―タフガイ

おおっと・・こっちも暴発しちまったぜ。

 

くだまきついでに、もうひとつ。

ロシア側は「被害者は役者が演じている。ウクライナの演出だ」と

市民虐殺を全否定しているが、その可能性は限りなく低い。

これだけSNSが普及し、誰もが発信者になりうる。

そんな状況で多数の「役者」に死体を演じさせ

全員に完全黙秘を守らせることは、ほとんど不可能だ。

むろん「万一バラしたら家族の命はない」などと

ロシア(ソビエト)流の脅迫をかませば、ある程度の口封じはできるだろう。

より手っ取り早く、"出演者"全員を黙らせる手だったある。

実際、そうやって「カチンの森」とか色々やらかしてきたんだから。

彼らにしても、〈身に覚え〉があるからこそ、「ヤラセ」という発想に飛びつき

どれほど矛盾点を指摘されようと、突っ張り続けてるのだろう。

 

それにつけても、反ロシア諸国が連呼している「戦争犯罪」っていうのも

冷静になって考えると、めちゃくちゃ矛盾した概念だ。

まずもって、戦争をスポーツのように「ルールの下で行われる」と考えること自体に

どうしようもなく、無理がある。

そもそも、ルールがないから「戦争」なのだ。

なのに、まるで野球やサッカーと同じであるかのように

一般市民に対する無差別攻撃は、核兵器を含む大量破壊兵器の使用は

明らかな戦争犯罪となるので、許さない。

 

・・・・って、誰が許さないのか? 勝者が、だ。

でなきゃ、東京大空襲にしろ、広島・長崎への原爆投下にしろ、

文句なしに「一般市民に対する無差別攻撃」なのに、誰一人お咎めを受けてない。

もちろん、そのあたりの矛盾点は飲み込みつつ

"人的被害を極力に抑えるためのアイテム"として使ってるだけなんだろうけど。

どこまで行っても、しょせん《歴史は勝者の独占物》であり

敗者が何を叫ぼうとも、評価は毛ほども変わらんのだ。

 

なんか、やけのやんぱち(懐かしいな、このフレーズ!)な気分で

ここまでダラ書きしちまった。

次回からは、また、のんべんだらりの通常運転に戻りたい。

・・・頼むから戻らせてくれよ、元喜劇役者と元KGB長官のおふた方。

 

ではでは、またね。

発見だらけの"そーだったのか本" 『挑発する少女小説』斎藤美奈子 周回遅れの新書Rock

『小公女』『若草物語』『ハイジ』『赤毛のアン』『あしながおじさん

秘密の花園』『大草原の小さな家』『ふたりのロッテ』『長くつ下のピッピ

 

題名ぐらいは、全部知っている。

あらすじだって、なんとなくだけどインプットされている。

(アニメやドラマのイメージが強いかもしれないが)

とはいえ、「一冊の本」として読み通した作品は、ただのひとつもない。

そんな、男にとっては"謎めいたブラックボックス"でしかない

物語群・少女小説を徹底的に分析。

「良妻賢母教育ツール」なるタテマエの裏に隠されていた

《本当のメッセージ》を読み取り、新たな視点を確立してみせた。

 

いや。ホントに驚いた。

夢見がちな女の子たちが、大人になるまえのひととき

空想の羽を思い切り伸ばして、"理想の自分"を重ね合わせる物語。

言ってみれば、"少女向け中二病小説のハシリ?"、ってあたりでしょ・・なんて

読みもせずに判った気になり、勝手に決め付けていた薄~い先入観が

次から次へと、ベリベリ!メリメリ!剥がされてゆく。

――そんな、驚きと発見に満ち溢れた一冊だ。

 

はじめに――少女小説って何ですか? という冒頭のタイトルがあり

数ページ後の小見出し少女小説を特徴づける四つのお約束ごとで、こう打ち出す。

例外はありますが、人気の高い翻訳少女小説には、いくつかの共通した特徴が見つかります。                                                               ①主人公はみな「おてんば」である。                        ②主人公の多くは「みなしご」である。                     ③友情(同性愛)が恋愛(異性愛)を凌駕する世界である。            ④少女期からの「卒業」が仕込まれている。7-10p

なんと明解かつシンプルな要約か。

だが、これしきで少女小説を"判った気"になってもらっては困る。

上に挙げた共通点を〈足がかり〉に据えたあと。

改めて著者は、敵(少女小説)の本丸(真意)へと襲い掛かってゆくのだから。

 

以降、冒頭に並べた作品をひとつひとつ俎上に挙げ

具体的なストーリーを紹介しつつ

「家庭小説」という表向きの仮面を剥いでは

作者が伝えたかった〈真のメッセージ=裏テーマ?〉に、スポットを当ててゆく。

 

たとえば、バーネットの『小公女』(アニメ『小公女セーラ』の方が有名か)。

著者は、セーラを 並外れた空想力と鈍感力の持ち主 と定義。

ヴィクトリア朝時代のイギリスが抱える「階級&植民地問題」を紹介しつつ

「みなしご」となる〈試練〉を経て、セーラがどう成長していくか炙りだしてゆく。

その後彼女には、元の"お嬢様"に復帰するというハッピーエンドが訪れるのだが

著者が注目したのは、「いつ少女時代を卒業したか」という一点だった。

 

想像の世界に生きていたセーラが、現実に目覚める象徴的なシーンがあります

・・との一文から始まり、

魔法の力を借りなくても、人の力で道は開ける、美貌の力で男に選ばれるだけが物語の上がりではないと、『小公女』は主張します。魔法使いと決別したところから、物語は、いや人生は始まるのです。39-40p

 

この1ページにも足りない、わずか十数行の文章を読むうち

いつのまにか、自分が姿勢を正し、背筋を伸ばしていたことに気づいた。

それほど、〈少女小説に込められたメッセージ〉は、鋭く、強烈なものだった。

 

続く『若草物語』も『ハイジ』も

トップバッターの『小公女」に勝るとも劣らぬ《発見》をもたらしてくれた。

とりわけ"認識を改めざるを得なかった"のは、三作目の『ハイジ』だ。

アニメ『アルプスの少女ハイジ』をリアルタイムで観て育った世代だけに

原作とアニメ版の間に存在する大きなギャップとともに

自分の"無知=先入観だけで生きている人間"か、しみじみ痛感してしまった。

 

ていねいに語ると、延々引用するハメになるので、極力要点だけピックアップしたい。

まず、こうくる。

絵本やアニメで親しんだ人は、アルプスの美しい山々を背景にした、野生児ハイジの牧歌的な物語という印象が強いのではないでしょうか。しかしながら、原作の『ハイジ』は近代の光と影が交錯する、なかなか複雑な作品なのです。70p

正直、この程度の予備知識は、仕込み済みだった。

なんて偉そうに構えていられたのも、ここまで。

そもそもなぜ舞台がスイス・アルプスだったのか。・・との答えは

ひとつは、当時のアルプスが観光地として絶賛売り出し中だったことです。

『ハイジ』はつまり少女の成長譚であると同時に、観光ガイドの役割も果たしていた。

もうひとつ重要なのは、当時のスイスが資本主義の矛盾に直面していたことです。72p

 

さらに、傭兵から隠遁生活者になった祖父

ペーターは資本主義社会の犠牲者だった・・と、盛大なベリベリ!メリメリ!が続き。

こうしてみると、『ハイジ』はアルプスの自然を背景にした、単なる祖父と孫娘の心温まる物語ではありません。80p 

というダメ押しで、ガラガラガラと崩れ落ちる。

 

とはいえ、ここまでは『ハイジ』という小説世界の分析どまり。

少女小説」としての〈真のメッセージ〉は、さらにその彼方で翻っている。

少女小説は基本、少女の成長を描いた物語です。しかし『ハイジ』は少女の成長の裏にある近代の現実を教えてくれます。牧歌的な野生児の物語どころか、これは過酷な資本主義社会を健気に生きる子どもたちの物語というべきでしょう。          そこまで考えて、はじめて『ハイジ』が放つメッセージが浮かび上がります。     『ハイジ』表向きのメッセージは「自然がいちばん」「故郷がやっぱり最高だ」です。それは近代の市民社会の価値観、都会の暮らしに疲れた人々のニーズとも合致します。が、それは見せかけのメッセージ。作品の真意はズバリこれでしょう。89p

 

この先を書いてしまうの、さすがに野暮というもの。

横着せず、ぜひご自身の手でページをめくり、思う存分味わっていただきたい。

 

長くなりすぎるので断念したけど

赤毛のアン』や『あながおじさん』にも触れたかった。

発見また発見の連続で、久しぶりにワクワクで一気読みした新書だったよ。

 

ではでは、またね。