「古典は"読書の背骨"だ」と、いまさら気づく 『アーサーと王と円卓の騎士』ローズマリ・サトクリフ 周回遅れの文庫外Rock+読書録

励行している《サイコロ読書法(勝手にⒸ)》のおかげで

古典文学に含まれる本書を開くことができた。

これまでゲームやラノベでしか入力してこなかった

アーサー王伝説」がらみの情報が、初めてきちんと理解できた気がする。

 

次期ブリテン王を選定する"聖剣エクスカリバー"を

若きアーサーが引っこ抜くいきさつに始まり

王と騎士たちが一堂に会する「円卓」の巨大さ(150人が座れる)とか

ランスロットが醜い(左右アンバランスな)顔の持ち主だということ

北欧神話の登場人物だと思っていた「トリスタンとイズー」や「パーシヴァル」も

アーサー王の"関係者"だったことまで。

長年に渡る勘違いや思い込みがスッキリ整理され

いまさらながら、"古典"も読まないダメだな~と痛感した次第。

 

思えば、小学校に入る頃からSFにどっぷりハマり

ミステリーや歴史ものなど、エンタメ系には手を広げたものの

いわゆる「日本文学」&「海外文学」には、見向きもせずに生きてきた。

結果、仕事上必要になったとき(台本を書く際とか)以外

太宰・川端・芥川どころか、シェークスピアドストエフスキーら世界の巨匠が書いた

〈超名作〉すら、きちんと読み通した記憶がない。

むしろ心のどこかで、それを誇り?にしていたところすらあった。

 

・・・けれど、やっぱそれじゃ、土台のない建物と一緒で

いたるところに歪み・ひび割れ・穴ぼこが発生。

しかも当人には、その"惨事"が見えていない、という二重の悲劇を招いていた。

なーんて当たり前のことに、やっとこ思い至ったのだ。

 

お前、いったい何年生きてきたんだよ!・・と、我ながら呆れてしまう。

それでも、目の黒いうちに気づけただけでも、まあよしとしよう。

意図的にスルーしてきた〈名作文学(特に古典)〉も

今後はきっちりローテーションに組み込み

少しずつでも"再会"できるよう、気張っていきたい。

 

う~~~ん・・でも、いまこの瞬間、"順番待ちしてる"書物だけでも

軽く1000冊は超えているんだよなぁ。

いったいどこに、どう割り込ませればいいんだよ・・。

人生の"残り時間"とにらめっこしつつ

〈苦しいながらも嬉しい悩み〉は、まだまだ続くのだった。

 

ちなみに、2022年3月も本日でおしまい。

勝手に定例化した「今月の読書記録」を付け加えておく。

 

2022.3 

★※『春季限定いちごタルト事件』『夏季限定トロピカルパフェ事件』

★※『秋季限定栗きんとん事件㊤㊦』★★『巴里マカロンの謎』米澤穂信

○『創約とある魔術の禁書目録①②』鎌池和馬

★『アーサー王と円卓の騎士』ローズマリ・サトクリフ

★★『サブカルで食う』大槻ケンヂ ★『でっちあげ』福田ますみ

★★『国のない男』カート・ヴォネガット

★★『挑発する少女小説斎藤美奈子

★『皇帝フリードリッヒ二世の生涯㊤㊦』塩野七生

《コミック》

★★『ちはやふる』①-㊽ 末次由紀 

★『チ』①-⑥ 魚豊

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

"好き"こそが人生を豊かにする 『サブカルで食う』大槻ケンヂ 周回遅れの文庫Rock

サブタイトルは、「就職せず好きなことだけやって生きていく方法」。

この甘ったれた一文に騙されては、いけない。

何を隠そう、かく云ううたた(俺だ)も

どーせ、ちゃらんぽらんな野郎が適当に業界のことを書いた

なんの役にも立たない"芸人本"じゃないのかな~

みたいな予断を胸に読み始めた一人である。

 

というわけで、改めて訂正したい。

軽薄なタイトル&サブタイトルとは裏腹に

本書は、ものすご~く実用的で奴に立つ、《業界攻略本》だった!

 

どのあたりが「実用的」なのか

ざっくり頭からピックアップしてみよう。

 

第一章 「サブカル」になりたいくんへ 

で、こう切り出す。

いきなり結論を書いてしまいますが、サブカルな人になって何らかの表現活動を仕事にして生きていくために必要な条件は、才能・運・継続です。アハハ、根性論かよって感じですが、本当にこの3つが中心になります。                   3つのうち、才能と運に関しては自分ではどうしようもないことですけれど、「継続する」ことだけは誰にもできるじゃないですか。たとえ、才能や運がなかったとしても、ずーっと継続してさえいれば、誰でも、どんなジャンルでも、まあ中の下くらいにはなれるんじゃないかと思います。〈中略」                      そして、何かを継続してやっていくために大切なのは、やっぱり‥‥情熱ということになるでしょうね。今度は「予備校の講師かよ!」って感じですけど、やっぱりそれ大切なんですよね。                                 「俺はこれを伝えたいんだ!」「俺の好きなこのジャンルをもっとみんなに知ってもらいたい!」という感覚です。16p

 

40年以上、似たような業界で食ってきた"体験者"(俺だ)にも

上の3要素がいかに大切なのか、痛いほどよく分かる。

特に著者が最重要項目に挙げた「継続」は、自分にとっても反省すべきところ。

これまた相当量の痛みとともに、もろ手を挙げて賛同したい。

もちろん〈原動力=ガソリン〉としての「情熱」が欠けていたら

何年、何十年も続けられるわけがない。

逆に言うと、"これを伝えたい!"という情熱があるかどうか。

そいつが、自分の好きなことで食べていく、最低限の必要条件だったりする

 

んで、ここだけピックアップすると、

継続できない(=頑張れない)ヤツは成功しない!

みたいな、身も蓋もない話に流れそうだけど、ご安心を。

ここで著者は、自分がいかにダメダメな子供だったか暴露しつつ

しみじみと吐露してくれる。

実際、勉強できない、運動できない、ちゃんとした社会生活が送れない‥‥そういう「できないこと」があるからこそ遭遇できる面白いエピソードっていっぱいりありますからね。そこら辺にアンテナを張っておくと、のちのちにチャンスとなり得るかとも思います。「人間万事塞翁(さいおう)がコラムネタ」って考えましょう。22p

 

ま、こういう〈転んでもただは起きぬ〉根性があるからこそ、著者は"生き残れた"ともいえるんだけどね。

 

ともあれ、そんな風に前半は、著者自身が歩んできた道をたどりながら

自分学校で自習をすべし

「質より量」で映画を観まくる

プロのお客さんにはなるな

自分を観て欲しかったらまずバカになれ 28-37p

ーーといった"成長するための秘訣"を、次々に挙げていく。

 

なかでも、特筆したいのが 第五章 サブカル仕事四方山話

小説を書くためにラブコメ映画を観る 以降のくだり。

10ページにも満たないブロックなのだが

なんとここに 

(情熱=継続力さえあれば)誰にでもできる「小説の書き方」が

そのものズバリ、紹介されているのだ。

よく「小説なんとどうやって書けばいいのか分からないです」と聞かれるんですよ。 僕もちゃんと勉強したわけではないので自己流なんですけど、とにかく映画を沢山観ていればエンタメ系の小説は書けるんじゃないかと思いますよ。           もちろん他の小説を読むことも必要ですけど、映画の方が物語の攻勢を理解するのにはいいんですよ。よっぽど破綻した映画でない限りはきちんとしたストーリーの流れというのがあるし、それを2時間くらいで一気に観ることができますから。意外に思われるかもしれなせんが、特にラブコメ映画がオススメです。 86p

 

以下、映画を観たあと、どのように小説に仕立てていくかも、具体的に記されている。

世の中には、有名作家が著した「小説の書き方」本が、山ほど存在するが

ここまで《シンプルかつ実用的なアドバイス》には、お目にかかったことがない。

 

さらに魅力的なのが、書き上げるまでの"ハードルの低さ"。

「何を書いたらいいのかまったく浮かばない」と悩む超初心者にも、こう切り返す。

そんな時に効果的だと思うのは、まず散文詩を書いてみるということです。     自分の心象風景みたいなものを、つじつまが合っていなくていいからとにかくウワーッと掻き出してみる。これを10回くらい繰り返してみると、何となくテーマみたいなものは浮かんできます。                             テーマがぼんやりと決まったら、そこに自分の経験なり思っていることなりを重ねてみるといいですね。さらにその「自分」を別の何かに置き換えてみる。たとえばゾンビだったり、超能力者だったり、ぬいぐるみだったり‥‥。そうすると段々と物語が動き出してくるので、あとはラブコメの提携を思い出して、「変な出会い」「いい感じになる」「失敗して悩みの時期」「再会してなんとか話がおさまる」っていうフォーマットに当てはめていけば自然と小説の形にだけはなっていくと思います。88-89p

 

このあとも、

つじつまは最後に合わせればいい

エッセイは視点に注目

外に出て面白ネタをゲットしよう・・と、実用的HOW-TOのオンパレード。

正直、3~40年前に本書を読んでいたら、迷わず実践していただろう「コツ&ツボ」が

惜しげもなく披露されている。

 

いっぽう、「人気が停滞した時は」「それでも食べていけなかった時は」など

継続してもうまく行かないときの対処法にも、きちんと触れている。

そのあたりのフォローも含めて、とことん〈実用的〉なガイドブックだ。

サブカル方面」を目指す人はもちろん

そうでなくとも、なんらかの〈情熱〉を胸に秘めている方は

"騙されたと思って"、本書を手に取っていただきたい。

なにせ、巻末の特別対談を含めて170ページそこそこのコンパクトさ。

それこそ「映画一本観る時間」で、読めるから。

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恩田川の桜名所 2022.3.28 MakeMakeの"花見でいっぷく"

2022年3月28日(月) お昼過ぎ 恩田川(町田市成瀬)

 

             今年も、桜の季節がやってきた

 

いつ終わるとも知れぬ惨劇が、一カ月以上に渡って続き

路上に放置された侵略軍の遺体が異臭を放つさなか。

それでも世界は、何事もなかったように春を迎え

東の島国に、桜の季節がやってきた。

 

途絶えることのないチリチリした焦燥感を

ぼんのくぼのあたりに感じながらも

何回、何十回繰り返そうと、決して飽きることのない櫻花を

雲が広がる前に、眺めに出かけた。

 

昼前なので、遠出は厳しい。

車で30分かからない、恩田川沿いの桜を目指した。

子どもの国の手前を過ぎ、町田市内に入るとまもなく

川沿いに淡いピンクの靄がかかり

月曜だというのに、少なからぬ人が散策していた。

 

ネット情報に乗っかり

川沿いにある町田市立総合体育館の駐車場に車を入れる。

建物の外に出ると、そこはもう"桜の園"だ。

 

          橋の上から最初の一枚。右手に体育館の建物。

 

開花状況は、7分咲きあたりか。

前述したように、かなりの人が行き交っていたが

桜並木沿いの遊歩道は、とても開放的でゆったりしていた。

花見客目当ての店や屋台が並ぶ目黒川沿いとは異なり

客引き・はしゃぎ声・音楽などの騒音と無縁で

ただ桜の花を眺めながら、好きなペースで歩いていけるのが、とても嬉しい。

 

         青空に「地震雲」のような、太い一筋が伸びる。

      暖かな陽気に水鳥たちもリラックス。こちらは給水中のカモ。

 

残念ながら胸いっぱい息を吸い

あの控えめな香りを楽しむことはできなかったけれど

白に近いピンクの色どりに包まれると

なぜだか無条件に特別な感慨が沸き上がってくる。

 

          青空と桜。何度見ても、最高の取り合わせ。

    久しぶりにコサギに会えた。後頭部の"飾り羽"がチャームポイント!

     "桜のトンネル"の下を歩ける右岸の方が、やはり気持ちいい。

 

大きな地震津波が襲ってこようとも

残虐な犯罪と悲惨な事故が、性懲りもなく繰り返されようとも

いつ終わるとも知れぬウィルスとの戦いに、溜め息をこぼそうとも

タガの外れた誰かの手によって、人々の熱い血が大地にぶちまけられようとも。

なにも変わることなく季節は巡り、桜は咲いて、散ってゆく。

すべての人が生を享け、等しくこの世を去るように。

 

 

ガラにもなく、説教臭い文句をならべてしまった。

これも、"桜のしわざ"ってことにさせとくれ。

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全世代の胸を撃つ! 『ちはやふる』①~㊽(刊行中) 末次由紀 周回遅れのマンガRock

連載開始から15年目を迎えた、超傑作「かるた(百人一首)漫画」。

アニメ&映画などの大ヒットも含め

この作品によって"競技かるたが市民権を得た"と、すら言える。

・・てなことぐらい、わざわざ強調する必要はないし

魅力的な登場人物や緻密なまでの心理描写や

卓越したストーリー展開を力説するのも、いまさら感が強すぎる。

(本音では「ダディベア」と「スノー丸」についても、熱く語りたい!)

 

なので、ここでは一点だけ。

あまた存在する、学園スポーツ?ものとは、大きく一線を画する

本作の"凄さ"について、触れることにしたい。

 

それは――これが、競技かるた(百人一首)を通じて繰り広げられる

「高校生たちの闘いと成長の物語」、という枠組みから大きく外れていることだ。

 

もちろん、多くのスポーツ(競技)漫画において

家族や友人、師匠をはじめ先輩後輩ら〈かるた仲間〉など

登場人物の周囲を固める"脇役"たちの人生(過去)が紹介される例は

枚挙にいとまがない。

しかし、本作における、その"守備範囲"たるや、尋常ではない。

 

えっ・・いま、この人のストーリが始まるの!?

と思わず突っ込みたくなるタイミングで

意外なバイプレーヤーの"人生"iにスポットライトが当たり

しかも極めて丁寧に〈深彫〉りされてゆく。

結果、本来「少女漫画」に熱中する読者の年齢層を遥かに超えた

幅広い年代の読者に、強烈な共感と"代理体験"をもたらしてくれるのだ。

 

※ここからちょいネタバレになるので、未読の方はご注意を※

 

たとえば、数十年前に現役のかるた選手を引退し

現在では裏方に徹している、元かるたクイーンのおばさん(失礼)の

"積年の願い"が、ヒロイン・ちはやに託されてゆく。

また、第一線を退いた後も40年に渡って「読手」を務めてきた元クイーンと

彼女の熱意によって引退を撤回し、ふたたび晴れ舞台に姿を現わす

老(たびたび失礼)読手の"雄姿"など、胸を熱くさせるエピソードばかり。

ーーいや、そもそも、主人公の1人である綿谷新(わたやあらた)にしてから

名人戦の最終第五戦というキワッキワ!の場面で

亡き永世名人の祖父・始の"呪縛"と向き合い

いかにして〈自分のかるた〉を見いだすか、もがき続けている。

 

しかも、これら〔年長組〕のみならず

小中学生や園児・幼児にまで至る〔次世代年少組〕も次々登場。

文字通り、《競技かるたをめぐる過去×現在×未来》が

華麗かつ緻密に絡み合い、ひとつの巨大なタペストリーを編み出しているのだ。

ここまで"全世代"にストライクゾーンを拡げた作品には

めったに出会えるものではない。

 

ともあれ、連載15年目の50巻直前にして

ついに物語はクライマックスを迎えた。

果たして作者は、いかにして゛第1巻の冒頭シーン"へと読者を誘ってくれるのか。

本来なら、終了してから全巻読み通すべきなのだろうが

「2020年夏発売予定」の第49巻を待ちきれず

フライングしてしまった次第。

 

まだまだ、いくらでも話を続けることはできるけど

なにをどう書こうと〈どっかの受け売り〉みたいになってしまう。

ここは、あらためて魅力を噛み締めるべく

自己満足でしかない、名言の引用でお茶を濁すこととする。

 

太一 青春ぜんぶ懸けたって 新より強くはなれない。

原田先生 "青春ぜんぶ懸けたって強くなれない"?

     まつげくん

     懸けてから言いなさい。            第2巻

 

ちはや じゃあ恋ってどんなのよ

太一  それはな―― ‥‥

ちはや —―

太一 そいつといても楽しくないってことだよ        第2巻

 

太一 かるたの才能なんておれだって持ってねえ

   きついけどやってんだ

   負けるけどやってんだ

   だって勝てたとき

   どんだけうれしいか‥‥っ               第3巻

 

宮内先生 負けと向かい合うのは大人になっても難しい

     でも‥‥

     あの子たち だれも慰め合わない          第5巻

 

駒野 「かるたなんて」って言って 通り過ぎないでよかった

   変わっていける きっと

   身体だけじゃなくて 心だけじゃなくて         第5巻

 

太一 おれの甘い攻めを西田はうまくさばいていた

   大山札の守り方も西田はうまかった

   まだまだだったんだ おれが

   きついな 一生懸命って‥‥ 

   言い訳がきかえねよ                  第6巻

 

駒野 やりたいことを思いっきりやるためには

   やりたくないことも思いっきりやんなきゃいけないんだ  第7巻

 

太一 先生 おれは

   A級になるより ‥‥

   逃げないやつになりたい‥‥              第7巻

 

 

駒野 おれ なにかの本で読んだことあるよ

   「ここにいたらいいのに」って思う人は 

   もう"家族"なんだって

   つきあいの長さも深さも関係なく            第8巻

 

――やばい。

また最初から読み返したくなってきた。

ここらでやめとこう。

 

それにしても、マンガだろうと小説だろうと

いっときでも「現実」を忘れさせてくれる物語の世界って

やっぱ、すげーよな。

 

ではでは、またね。

慌てたとき、人は本性をあらわす 「混迷ミャンマー クーデターから一年」「動画が暴いた軍の弾圧」NHKBS1 周回遅れのO.A.C.

遅ればせながら、貯め撮りしておいたテレビ番組のなかから

今年の1月末から2月初旬にかけて放送された

2本のドキュメンタリーを観ることができた。

 

たまたまプーチンウクライナ侵攻後というタイミングだったので

両者の間を結ぶ、背筋の凍るような共通点が目についてしかたがなかった。

表面的な現象こそ、かたや「国内紛争(軍による民主政権の制圧)」。

かたや「二国間の戦闘(ロシア軍によるウクライナ侵攻)」という違いはあるが

その実態は、驚くほど似通っている。

 

ウクライナ侵攻の場合、首謀者は言うまでもなくロシアのプーチン

あからさまではないものの、中国の習近平が"隠れ共同戦線"を張っている。

いっぽうミャンマーの場合も、非武装の市民を無差別に殺害する残虐行為に対して

国際連合に参加する圧倒的多数の国が、強い非難を表明するなか

ロシア(プーチン)と中国(習近平)の2大国だけは、断固として賛同しない。

・・というか、明らかに《黒幕》となって武器や物資を軍に提供し

ミャンマーに民主主義政権が成立しないよう、あの手この手で支援を続けている。

 

その結果、両国の最前線で起きているのは

ともに「ここまで残酷な所業が人間にできるのか」と絶望せざるを得ないほど

情け容赦のないジェノサイド、そのものなのだ。

 

一般市民が避難する学校・教会・病院を狙って爆撃した

ロシア軍の無差別攻撃ぶりは、SNSなどを通じて広く世界に伝えられている。

だがミャンマーの場合、ミサイルや爆撃といった遠距離攻撃が主役でないだけに

その"蛮行"は、はるかに生々しく、やるせない実像を露わにする。

 

たとえば「動画が暴いた――」で紹介された映像だと。

武装デモを行なう群衆に向け、何の躊躇もなく実弾を発砲する兵士たち。

デモの行列にハイスピードで突っ込み、多数を死傷させる装甲車。

"抵抗勢力の一掃"の名目で焼き尽くされた、数百軒の家々。

両手を縛り上げたうえで焼き殺された、戦争に関りのない数十名の女子供。

どれも人間の醜さをこれでもか!と見せつける、正視に耐えないものばかりだ。

おまけに、ウクライナに比べネット環境が整備されていないミャンマー

現地から送られた映像記録は、文字通り〈氷山の一角〉に過ぎない。

 

軍と市民の立場の違いがあるとはいえ、元をただせば同じ土地に住む者同士。

近しい関係を築いているからこそ、際限なく憎しみがエスカレートしてしまうのは

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争を例にとるまでもなく

留めようのない"人間の業"と認めざるを得ない。

 

それにしても

ミャンマーウクライナ北朝鮮

今現在、不気味なきしみを上げ続けている国々の背後に

判で押したようにロシアと中国の巨大な影が聳え立っているのは

単なる偶然に過ぎないのだろうか。

もちろん、そんなわけない。

前世紀の冷戦時代がそうであったように

彼らが後ろ盾になっているこれらの国家(戦場)こそ

絶対的に正しいと信じる主義主張を守るための

文字通りの「最前線」なのだ。

 

プーチン習近平が抱く不安や懸念も、わからなくはない。

なにせ、圧倒的に広い領土に、様々な民族が入り混じって暮らしている。

まともに民主主義を受け入れようものなら

価値観の異なるこれら数十の集団が、それぞれ民族自決を唱え

次から次へと小国家を設立し、祖国はバラバラに分裂するに違いない。

 

とりわけプーチンロシアの場合は、ペレストロイカ以後に起きた

「共和国独立(含むバルト三国)」を体験しているだけに

ソビエト国家が相次いでNATOヨーロッパ連合)に寝返っていくのは

まさに"父祖の地を敵に奪われる"想いだろう。

そう。彼ら(プーチン習近平)にとって

アメリカやヨーロッパが主導する「民主主義国家」なる形態は

母なる祖国を侵食してゆく、"邪教の徒"に過ぎないのだ。

 

とはいえ、SNSをはじめ個人単位の情報ネットワークが世界をカバー。

誰もが自由と欲望を追い求める風潮のなか

〈全国民が平等な社会〉なる幻想のメッキはすでに剥がされ

ピラミッド型の中央集権体制は、強制と抑圧の象徴でしかなくなりつつある。

 

そんな、否応なく足元から崩れつつある現状への"不安"と"苛立ち"が

独裁国家ミャンマー北朝鮮〉への支援につながり

また、"魂の祖国"ウクライナNATOに奪われかねない恐怖から

一方的に「クリミア半島併合」を強行。

これが思いの外すんなり実現できたことに味を占め

なかば"柳の下の泥鰌"気分で、ウクライナ電撃侵攻&占領を目論んだのだろう。

 

ところが、そうはイカキンタマ

ウクライナ全国民による、予想外の徹底抗戦を受けてしまった。

"戦争"が始まって、すでに1カ月が経過。

にっちもさっちもいかない、とは、まさにこのことだ。

さあ、どうする。

 

絶対に「負け」も「誤り」も認めない社会主義国のトップだけに

このままプーチンが大人しく撤退することは、ありえない。

いかなる形であろうと「勝った」という"トロフィー"を要求するはずだ。

(上記の主義主張は習近平中国もまったく同じ〉

ここで必要不可欠なのは

ゼレンスキー大統領の、"本当の意味での"勇気ある行動。

葵の印籠のように民主主義を唱え「正義」を訴えるだけでクリアできるほど

このハードルは低くない。

 

確か、誰か偉い人が言ってたっけ。

戦いを始めるのは、簡単だ。

難しいのは、誰もが納得するように戦いをやめることだ。

 

さて。

不安と猜疑心に囚われた孤独な独裁者を、いかにしてなだめるのか。

キューバ危機の際のケネディVSフルシチョフではないが

固唾を呑んで「お手並み拝見」と、まいろうか。

 

・・・なんて、他人事みたいに書いちゃったけど

ボンボンと悲鳴のようにミサイルを打ち上げる北朝鮮を見るまでもなく

これって完全に"当事者問題"なんだよな。

 

福島県地震にビビったり

ICBM了解落下でヒヤリとしたり

ワールドカップ出場決定に浮かれたりと

いろんなことがゴチャゴチャ起きているけれど

非力ないち庶民には、この程度のぶーたれしかできないのだった。

 

ではでは、またね。

"イタリアの信長"と呼びたい 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』㊤㊦ 塩野七生 周回遅れの文庫Rock

中世真っただ中の13世紀前半

シチリア王国神聖ローマ帝国の支配者となった、フリードリッヒ二世。

歴代のローマ法王に「裏切り者」「キリストの敵」と敵視され

ただひとり、"二世紀早いルネサンス"に挑み続けた、圧倒的天才の足取りだ。

 

著者の代表作「ローマ人の物語」において

スキピオカエサルの行動に対して感じた興奮や痛快さは、かけらもない。

ほぼ全編、"息苦しさ"と"もどかしさ"が色濃く漂っている。

今なら小学生にも理解できる「常識」を、問答無用に否定する既得権益者たち。

特にキリストの代弁者である己が誰よりも偉いと盲信するローマ教皇らと

不毛、としか例えようのない戦いを繰り返すだから。

 

そのころ彼ら(ローマ教会)は、法王庁自らが捏造した「偽書」を楯に

ヨーロッパの支配権を独占し、暴虐の限りを尽していた。

さらにフリードリッヒに対抗して、「異端裁判所」なるものを設立。

自分らの信仰(=盲信)に逆らう者を次々捕らえては、問答無用で処刑していった。

いつの時代も「狂信者」ほどタチ悪いものはないと、痛感させられる。

いまロシアの独裁者として君臨する小柄な男と、変わらない。

『自分は絶対に正しい!』と信じて疑わないところも、まるっきり一緒だ。

 

彼を取り巻く"権力者"たちの、あまりの幼稚さと視野の狭さに

しばしば強い怒りと、無力感が込み上げてくる。

・・どうして、どいつもこいつも、こんなにバカばっかりなんだ!?

人によっては、途中で読む気をなくすかもしれない。

だが、ここが踏ん張りどころ。

フリードリッヒと気持ちを重ねつつ、最後まで読み通してほしい。

 

すると、決して"報われた"とはいえない、50数年の人生に幕を下ろしたあと。

突然、深い霧が晴れ、大空に解き放たれたような〈爽快感〉が、読者を襲うはずだ。

これを体感せずして、本書を"読んだ"とは言えない。

どうかラストの数ページを、心ゆくまで、ご堪能いただきたい。

そうすれば、きっと納得できるはずだ。

まさにこの男こそ、《最初のルネサンス人》であったことを。

 

うたた(俺だ)の中途半端な要約で、本書の魅力を伝えることは無謀ゆえ

"刺さった箇所"の引用と、個人的メモでも並べてみるか・・。

 

創造とは、異分子による刺激のないところ、つまり純粋培養だけのところ、には生まれえない精神活動でもあるのだから。上53

 

人種差別や異教徒排撃の感情は常に、能力の格差が待遇の差別によると思いこんだ下層の人々の間から起こってくるものなのだ。上164

 

入浴が病人にしか認められていなかった時代であるにもかかわらず、王宮には本格的な浴場が完備していた。入浴はそれ自体で「快」であるところから、中世のキリスト教会は入浴を、異教徒ローマ人が好んだ悪しき風習、と断罪していた。中世のキリスト教は、衛生よりも信仰を重要視していたのである。上176

 

無理やり例えると――武力に頼らない織田信長、ってところかな。

異質な者を先入観なしに受けれ入る「寛容さ」。

既得権益にすがらず、自主性を重んじる「開発力」。

そして、徹底した能力主義

ヨーロッパで最初に世俗人(聖職者以外)のために彼が創立したナポリ大学は

「フェデリーコ二世大学」の正式名称で、21世紀の今なお続いている。

ヨーロッパ初、ということならば、奨学金を制度化したことも、家賃の上限を決めることで学生たちの便宜をはかったことも「初」になる。上190

 

なぜか、穏健は過激に対して分が悪い。理-ことわりに訴えるよりも情念に訴えるほうが、より多くの人に影響を与えることができるからであろうか。上204

 

外交とは、手持ちのカードを正直にさらけ出せば良い結果につながるというものではない。また、有利なカードを持っていれば勝つ、ともかぎらない。有利なカードであろうと不利なカードであろうと、手持ちのカードをどう活用するかにかかっている。上240

 

フリードリッヒは、十字軍に行きたくなかったのではない。これまでのようなやり方の十字軍ならば、率いて行きたくなかっただけである。                また、法王と皇帝の関係を、「法王は太陽で、皇帝は月」とも考えてはいなかった。  それよりも、フリードリッヒは、イエス・キリストが言ったという、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」のほうが正しいと信じていたのである。上255

それでも第六次十字軍を率いてイスラム側と粘り強く交渉を重ね、聖地イェルサレム

キリスト教巡礼者の受け入れを認めさせた。まさしく快挙である。

ところが、ローマ法王は激怒する。

これら聖職者たちにとっては、異教徒と交渉すること自体が、キリスト教徒としては誤った行為になるのである。聖都イェルサレムの「解放」も、異教徒との話し合いによるのではなく、キリスト教徒が血を流すことによって成し遂げられるべきこと、なのであった。上269

いったいどこが「愛と平和の宗教」だ!? ただの血に飢えた殺戮者ではないか。

くり返すが、ローマ法王側の考えでは、聖地パレスティーナと聖都イェルサレムは、キリスト教徒が血を流すことによって、「解放」されねばならなかったのである。だからこそ、それに参加した者には全員、完全免罪という、中世の信心深いキリスト教徒にとっては何よりも嬉しい報酬が約束されていたのであった。上297

 

歴史を書きながら痛感させられることの一つは、情報とは、その重要性を理解できた者にしか、正しく伝わらないものであるということだ。〈中略〉           古代ローマの人である、ユリウス・カエサルも言っている。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」 情報を活用できるのは、見たくない現実でも直視する人だけなのである。上275

 

反対の声は常に高く、賛成の声は常に低い。上291

 

中世のキリスト教会は、キリスト教によってすべてを律することこそが神の恩寵に浴す唯一の道だと信じられていた。精神面だけでなく、日々の暮らしのすみずみにまで神の目が光っていると信じて疑わなかったのである。自分の考えだけが正しい、と信じてる人に、別の新しい道を示すのは、中世にかぎらずいつの世にも難事なのである。上337

 

異端裁判は、ヨーロッぱの中世から近世を通じてのキリスト教会の、最大の汚点であったと言ってよい。これに比べれば、十字軍遠征などかわいいものである。動機がどうあろうと他人の国に押しかけるのは賞められたことではないが、十字軍に参加した人の多くはあの地での死、という代償は支払ったのである。                 反対に、異端裁判の当事者たちは、安全な場所に身を置きながら、多くの人々を次々と残酷な運命に追いやる行為をやめなかった。自分たちこそが、神の喜ばれる聖なる業務を遂行していると固く信じながら。そして、腐敗した人間に対しては、非人道的で無神経で残酷に対処するのは当然と信じながら。                    狂信の一言で片づけるには、あまりにも哀しい。上376

 

合理的な人ならばすべての分野で合理的に考える、とはかぎらないのである。上452

 

歴史は、そのままの形ではくり返さない。しかし、ある事象に対する人間の感情ならば、くり返すのである。上456

 

外交とは軍事を使わないで進める戦闘(バトル)だが、それが成功するには相手側に、価値観を共有する人を得た場合にかぎられるという欠点をもつ。上458

なんと厳しく、おまけに真理をついた言葉たちなのか。

ひとつひとつを、いまウクライナで起きていることと結び付けずにいられない。

八百年がたち、どれほど文化文明が発達しようとも

人間どもは(俺もだ!)、性懲りもなく愚か者のままなのだ。

 

これだけ引用して、ようやっと上巻が終わった。

下巻で出逢う「エウレカ!」の数々は、読んでからのお楽しみ・・ということで。

さて、停電になる前に、パソコンの電源を落とすとしよう。

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界は今日も滅亡の淵で踊る 『国のない男』カート・ヴォネガット 周回遅れの文庫Rock

戦後アメリカを代表する作家カート・ヴォネガット

2007年に亡くなる2年前に刊行した、遺作エッセイ集。

「当エッセイで軽妙に綴られる現代社会批判は、まるで没後十年を経た現在を予見していたかのような鋭さと切実さに満ちている」

という一文が、2017年出版の文庫本巻末に載っていた。

しかし、さらに5年が過ぎた2022年3月。

本書の〈鋭さ〉と〈切実さ〉は、いよいよ胸に突き刺さり、背筋を凍り付かせる。

 

今からちょうど100年前に(ってことは、生誕百年になるのか)

アメリカで生まれた著者が振り下ろす"一撃"の相手は

アメリカ合衆国とその国民(主に指導者層)だったりする。

だが、歯に衣着せぬ痛快な"捨て台詞"の数々は

新大陸の地面を深々と貫き、地球の反対側に広がるロシアにまで到達。

被害妄想に囚われた独裁者の姿をも、くっきり映し出しているかのようだ。

 

たとえば、各章の扉に、彼自身の手書きよる短文が掲載されている。

本書を開いて、まっさきの飛び込んでくる言葉が、これだ。

THERE IS NO REASON GOOD CAN'T TRIUMPH OVER EVIL, IF ONLY ANGELS WILL GET ORGANIZED ALONG THE LINES OF THE MAFIA.

善が悪に勝てないこともない。                         ただ、そのためには天使がマフィアなみに組織化される必要がある。 〔8-9ページ〕

・・英文が載っていたので、つい気取って書き写してみたけど

前ページの対訳文(日本語)がなければ、半分も理解できない劣等生だったりする。

 

ともあれ、83歳のジジイが、

こんな調子でズバズバ、ザクザク、問答無用で斬り込んでくる。

われわれはここ地球で ばかばかしいことばかりしている。

だれにも違うとは言わせない。                   〔74ページ〕

 

アメリカが人間的で理性的になる可能性はまったくない。なぜなら、権力がわれわれを堕落させているからだ。絶対的な権力が絶対的にわれわれを堕落させている。人間というのは、権力という酒に酔っ払ったチンパンジーなのだ。       〔92ページ〕

 

ナパーム弾を開発したのはハーヴァードだ。Veritas!(ハーヴァード大学のスローガンで「真理」という意味)。                             うちの大統領はクリスチャンだって? アドルフ・ヒトラーもそうだった。       いまの若い人たちは本当にかわいそうだ。かける言葉もない。精神的におかしい連中、つまり良心もなく、恥も情けも知らない連中が、政府や企業の金庫にあった金をすべて盗んで、自分たちのものにしている、それがいまの世の中だ。    〔112ページ〕

 

そう、この地球はいまやひどい状態だ。しかしそれはいまに始まったことではなく、ずっと昔からそうだったのだ。「古きよき時代」など、一度たりともあったためしがない。同じような日々を重ねてきただけだ。だから、わたしは自分の孫にはこう言うことにしている。「年寄りに聞こう、なんて思うんじゃないぞ。おまえとちっとも変わらないんだから」                          〔162ページ〕

 

そうでなくても、ここ20日余りというもの

ず~~~っと、両肩に重くのしかかる気配を感じながら、生きている。

彼の地での戦火が鎮まらない限り、消えることはないのだろう。

わずかでも軽くなったと錯覚できるのは

誰でもいいから受け取ってくれ!!

とばかり、これらの"刺さる文章"を書き写しているときだけだ。

 

キリがないので、あとひとつだけ引用させてもらって

今夜のところは勘弁してやるか。

・・・・誰に向かって書いてるんだよ。           

            

ウィリアム・シェイクスピアも昔こう言っている。「悪魔も聖書を引くことができる。身勝手な理由にな」(『ヴェニスの商人』第一幕第三場)      〔139ページ〕

 

全世界を滅亡の瀬戸際まで追い込んだアメリカの愚行をあばきたてた

名著『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(特に2巻)とともに

いま、このときにこそ、ぜひとも手に取ってほしい一冊だ。

 

ではでは、またね。