"イタリアの信長"と呼びたい 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』㊤㊦ 塩野七生 周回遅れの文庫Rock

中世真っただ中の13世紀前半

シチリア王国神聖ローマ帝国の支配者となった、フリードリッヒ二世。

歴代のローマ法王に「裏切り者」「キリストの敵」と敵視され

ただひとり、"二世紀早いルネサンス"に挑み続けた、圧倒的天才の足取りだ。

 

著者の代表作「ローマ人の物語」において

スキピオカエサルの行動に対して感じた興奮や痛快さは、かけらもない。

ほぼ全編、"息苦しさ"と"もどかしさ"が色濃く漂っている。

今なら小学生にも理解できる「常識」を、問答無用に否定する既得権益者たち。

特にキリストの代弁者である己が誰よりも偉いと盲信するローマ教皇らと

不毛、としか例えようのない戦いを繰り返すだから。

 

そのころ彼ら(ローマ教会)は、法王庁自らが捏造した「偽書」を楯に

ヨーロッパの支配権を独占し、暴虐の限りを尽していた。

さらにフリードリッヒに対抗して、「異端裁判所」なるものを設立。

自分らの信仰(=盲信)に逆らう者を次々捕らえては、問答無用で処刑していった。

いつの時代も「狂信者」ほどタチ悪いものはないと、痛感させられる。

いまロシアの独裁者として君臨する小柄な男と、変わらない。

『自分は絶対に正しい!』と信じて疑わないところも、まるっきり一緒だ。

 

彼を取り巻く"権力者"たちの、あまりの幼稚さと視野の狭さに

しばしば強い怒りと、無力感が込み上げてくる。

・・どうして、どいつもこいつも、こんなにバカばっかりなんだ!?

人によっては、途中で読む気をなくすかもしれない。

だが、ここが踏ん張りどころ。

フリードリッヒと気持ちを重ねつつ、最後まで読み通してほしい。

 

すると、決して"報われた"とはいえない、50数年の人生に幕を下ろしたあと。

突然、深い霧が晴れ、大空に解き放たれたような〈爽快感〉が、読者を襲うはずだ。

これを体感せずして、本書を"読んだ"とは言えない。

どうかラストの数ページを、心ゆくまで、ご堪能いただきたい。

そうすれば、きっと納得できるはずだ。

まさにこの男こそ、《最初のルネサンス人》であったことを。

 

うたた(俺だ)の中途半端な要約で、本書の魅力を伝えることは無謀ゆえ

"刺さった箇所"の引用と、個人的メモでも並べてみるか・・。

 

創造とは、異分子による刺激のないところ、つまり純粋培養だけのところ、には生まれえない精神活動でもあるのだから。上53

 

人種差別や異教徒排撃の感情は常に、能力の格差が待遇の差別によると思いこんだ下層の人々の間から起こってくるものなのだ。上164

 

入浴が病人にしか認められていなかった時代であるにもかかわらず、王宮には本格的な浴場が完備していた。入浴はそれ自体で「快」であるところから、中世のキリスト教会は入浴を、異教徒ローマ人が好んだ悪しき風習、と断罪していた。中世のキリスト教は、衛生よりも信仰を重要視していたのである。上176

 

無理やり例えると――武力に頼らない織田信長、ってところかな。

異質な者を先入観なしに受けれ入る「寛容さ」。

既得権益にすがらず、自主性を重んじる「開発力」。

そして、徹底した能力主義

ヨーロッパで最初に世俗人(聖職者以外)のために彼が創立したナポリ大学は

「フェデリーコ二世大学」の正式名称で、21世紀の今なお続いている。

ヨーロッパ初、ということならば、奨学金を制度化したことも、家賃の上限を決めることで学生たちの便宜をはかったことも「初」になる。上190

 

なぜか、穏健は過激に対して分が悪い。理-ことわりに訴えるよりも情念に訴えるほうが、より多くの人に影響を与えることができるからであろうか。上204

 

外交とは、手持ちのカードを正直にさらけ出せば良い結果につながるというものではない。また、有利なカードを持っていれば勝つ、ともかぎらない。有利なカードであろうと不利なカードであろうと、手持ちのカードをどう活用するかにかかっている。上240

 

フリードリッヒは、十字軍に行きたくなかったのではない。これまでのようなやり方の十字軍ならば、率いて行きたくなかっただけである。                また、法王と皇帝の関係を、「法王は太陽で、皇帝は月」とも考えてはいなかった。  それよりも、フリードリッヒは、イエス・キリストが言ったという、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」のほうが正しいと信じていたのである。上255

それでも第六次十字軍を率いてイスラム側と粘り強く交渉を重ね、聖地イェルサレム

キリスト教巡礼者の受け入れを認めさせた。まさしく快挙である。

ところが、ローマ法王は激怒する。

これら聖職者たちにとっては、異教徒と交渉すること自体が、キリスト教徒としては誤った行為になるのである。聖都イェルサレムの「解放」も、異教徒との話し合いによるのではなく、キリスト教徒が血を流すことによって成し遂げられるべきこと、なのであった。上269

いったいどこが「愛と平和の宗教」だ!? ただの血に飢えた殺戮者ではないか。

くり返すが、ローマ法王側の考えでは、聖地パレスティーナと聖都イェルサレムは、キリスト教徒が血を流すことによって、「解放」されねばならなかったのである。だからこそ、それに参加した者には全員、完全免罪という、中世の信心深いキリスト教徒にとっては何よりも嬉しい報酬が約束されていたのであった。上297

 

歴史を書きながら痛感させられることの一つは、情報とは、その重要性を理解できた者にしか、正しく伝わらないものであるということだ。〈中略〉           古代ローマの人である、ユリウス・カエサルも言っている。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」 情報を活用できるのは、見たくない現実でも直視する人だけなのである。上275

 

反対の声は常に高く、賛成の声は常に低い。上291

 

中世のキリスト教会は、キリスト教によってすべてを律することこそが神の恩寵に浴す唯一の道だと信じられていた。精神面だけでなく、日々の暮らしのすみずみにまで神の目が光っていると信じて疑わなかったのである。自分の考えだけが正しい、と信じてる人に、別の新しい道を示すのは、中世にかぎらずいつの世にも難事なのである。上337

 

異端裁判は、ヨーロッぱの中世から近世を通じてのキリスト教会の、最大の汚点であったと言ってよい。これに比べれば、十字軍遠征などかわいいものである。動機がどうあろうと他人の国に押しかけるのは賞められたことではないが、十字軍に参加した人の多くはあの地での死、という代償は支払ったのである。                 反対に、異端裁判の当事者たちは、安全な場所に身を置きながら、多くの人々を次々と残酷な運命に追いやる行為をやめなかった。自分たちこそが、神の喜ばれる聖なる業務を遂行していると固く信じながら。そして、腐敗した人間に対しては、非人道的で無神経で残酷に対処するのは当然と信じながら。                    狂信の一言で片づけるには、あまりにも哀しい。上376

 

合理的な人ならばすべての分野で合理的に考える、とはかぎらないのである。上452

 

歴史は、そのままの形ではくり返さない。しかし、ある事象に対する人間の感情ならば、くり返すのである。上456

 

外交とは軍事を使わないで進める戦闘(バトル)だが、それが成功するには相手側に、価値観を共有する人を得た場合にかぎられるという欠点をもつ。上458

なんと厳しく、おまけに真理をついた言葉たちなのか。

ひとつひとつを、いまウクライナで起きていることと結び付けずにいられない。

八百年がたち、どれほど文化文明が発達しようとも

人間どもは(俺もだ!)、性懲りもなく愚か者のままなのだ。

 

これだけ引用して、ようやっと上巻が終わった。

下巻で出逢う「エウレカ!」の数々は、読んでからのお楽しみ・・ということで。

さて、停電になる前に、パソコンの電源を落とすとしよう。

 

ではでは、またね。