"小説外"でも切れ味はバツグン! 『3652 伊坂幸太郎エッセイ集』 伊坂幸太郎 引用三昧 -34冊目-

デビュー以降10年間?に 書いたエッセイをまとめた本。

"低い姿勢"から繰り出される鋭いパンチが、なまった心を揺さぶる。   

             

2000年 幾つもの映像や文章に影響を受け、そして現在-いま

たとえば、『絵とは何か』というタイトルの本。

十代のころ父からもらった本だ。帯にこうある
「人の一生は、一回かぎりである。しかも短い。その一生を“想像力”にぶち込めたら、こんな幸福な生き方はないと思う」

この非常に魅力的で無責任な言葉に、僕は唆された。  [19]

たとえば、賞の応募要項。

書きたい小説を好き勝手に完成させたはいいものの、どの賞へ応募すべきだろうかと悩んでいた僕の目に飛び込んできたのが、選考委員である奥泉光さんの言葉だった。「そこにある言葉を読み進むこと自体が快楽を生むかどうか」とあった。そうだよな、そうだよな、小説というのは本来そういうものだよな、と自分の技術は棚に上げて、僕は嬉しく感じた。 [20]

 

ハードボイルド作家が人を救う時

選考委員の一人だった北方健三さんが、編集者たちと一緒に会場に慌ただしく入ってきて、ちょうど入口隅のところにいた僕の肩を叩いた。「後で、俺のところに来い。話をしよう」

実際に話をしてくれた。「とにかくたくさん書け。何千枚も書け」「踏んづけられて、批判されても書け」「もっとシンプルな話がきっといい」           

おそらく若い小説家書きがいたら北方さんはいつもこんな風に励ますのだろう。[30]                                                     

町から戻り、本を読もう 

最近、思うのですが、「映画と漫画」は映像を「見せてしまう」という点で同じジャンルですが、そういう意味で言うと、「小説」は「音楽」の仲間ではないでしょうか?

映像はないので、自分で想像するしかありません。言葉によってイメージが喚起されて、リズムやテンポを身体感覚で味わう、という点で、同じような気がします。書かれている(もしくは歌われている)テーマなんてどうでもいいんです。読んで(聴いて)、ああ気持ちよかった、と思えるものが最高なんじゃないでしょうか。   [74]                                           

『駅までの道をおしえて』伊集院静講談社)書評                    

伊集院さんが僕に、「小説というのは、理不尽なことに悲しんでいる人に寄り添うものなんだよ」とおっしゃったことがあって、その話がとても好きなので、よく取材のときに、「伊集院さんに聞いたんですけど」と話しているんです。

そうしたら、少し前に電話があって、「律儀に私の名前を出さなんていいから。あれ、もう、あなたの言葉にしちゃっていいから」と言ってくれました(笑)。[125]                                                       

2005年 吾輩は「干支」である

最近思うんですが、駄洒落を言うのは、「受けたい」というよりも「発見を広めたい」気持ちだと思うんですよね(笑)。啓蒙活動というか、この言葉とこの言葉、実は似てるぜ! という発見を、みんなで共有したい、そういう感覚なんですよ。ですから、反応としては、「つまらない」じゃなくて、「それはすでに発見されている!」と批判すべきかもしれません。   [138]

 

リョコウバトのこと。 

今回この、「モアよドードーよ、永遠に」を読むために、二十年ぶりくらいにドラえもんを読み返して、そのクオリティの高さに本当に驚きました。シンプルでスマートな絵柄もさることながら、各短編の発想や意外な展開やオチのユーモアの素晴らしさまで含めて、何て贅沢なんだろう、と感激しました。

もし子供が生まれたらその子供が読むために、そして自分自身が何度も読み返すために、一刻も早く、ドラえもん全巻を揃えなければならない。今、そんな気持ちになっています。  [161]

 

2006年 経験を生かす 

「ぎっくり腰はようするに腰の捻挫なんですよ。もう冷やすしかないです。冷やすしか」

本当だろうか、と半信半疑のまま家に帰り、さっそく、氷の入ったビニール袋を腰に当てて寝ていたのですが、なるほど彼の言うことは正しかったようで、一晩過ぎると無事に痛みが弱くなりはじめました。  [192]

 

いいんじゃない? 新人賞をいただいた後、最初のうちはサラリーマンと兼業でした。「三年は会社を辞めてはいけませんよ」と担当者からアドバイスをもらっていましたし、僕自身、絶対に辞められないことを分かってもいました。

本の印税で生活をすることがいかに難しいかは想像できますし、自分が仕事を辞めると、働いている妻がプレッシャーを感じるのは明らかです。そうなったら僕も罪悪感と重圧で、小説どころではなくなるに違いないのは容易く想像できます。だから、時折、仕事が忙しくなったり、精神的な追い込まれるような役割を職場で担わされたりすると、「辞めて、小説に専念したい」と思いもしましたが、そのたび、「それは小説に打ち込みたいのではなく、単に、逃げたいだけじゃないか」と自分に言い聞かせていました。    [197]

 

以上、本書の前半部分より

とりわけ気に入った箇所をピックアップさせていただいた。

そういえばこのところ、著者の作品(文庫)はストックされるいっぽうで

なかなか読む機会が巡ってこない。

ちなみにザッと数えたところ、1冊中14冊が未読だった。

興味の向くまま手に取っていれば、全巻読破していたに違いないのだが

そのぶん、"予想外の感動"とも出会えなかったわけで。

このあたり、「サイコロ読書⒞」も痛しかゆしといったところか。

 

ではでは、またね。

 

      音楽の町トリニダー/キューバの夕べ(2020.2.29)