暴力と混沌の、否定できない"魅力"。 『ミノタウロス』佐藤亜紀 周回遅れの文庫外Rock

暴力で解決できることなど、ひとつもない。

まして戦争など、検討の余地もなく絶対に反対だ。

誰もが争いを憎み、平和を愛している。

過去の歴史や現実の世界を見る限り、それは理想に過ぎないのかもしれない。

実際「平和」の意味を、「戦争と戦争の間の小康状態のこと」と定義する人々もいる。

それでもなお、どれほど"見果てぬ夢"であろうと。

すべての人類が、全力を尽くして目指さなければならない《ゴール》である。

 

――ってことは、重々分かっている。つもりだ。

少なくとも、頭(理屈)では。

だけど、たとえば本書『ミノタウロス』を読むうち

胸の裡にこんこんと湧き上がってくる、この、圧倒的な"熱"は、ナニモノなのだ。

もし己の心が100パーセント「暴力反対」「戦争反対」で占められているのならば

感じるべきは、"嫌悪"や"拒否反"。あるいは"悼み"や"哀しみ"であるはず。

ところが、正直に打ち明けると、それら負の感情をさしおいて、ブラスの感情が。

興味・熱中・興奮‥‥ついに"喜び"まで抱く自分に気づくのだ。

そして、人間というしょうもない生き物に

ある種"業"のようにセットされている〈暴力と混沌への憧れ〉を

自分もまた、抱え込んでいることを痛感するのである。

 

なーんて、小難しいヘリクツをぶっ書いてしまったけれど

そんな、チンケな自己弁護を並べたくなるなるほど

本書『ミノタウロス』は、暴力と混沌の魅力に満ち満ちている快作なのだよ。

 

舞台は中央アジアウクライナ地方。

キエフ黒海の間に広がる、世界有数の肥沃な穀倉地帯。

時間は今から1世紀ほど遡った、1910年代。

ロシア革命とその後に続く大混乱の中、小地主の御曹司として生を受けた若者が

何不自由ない裕福な暮らしから、すべてを奪われた野良犬の日々へと転落。

やがて、白軍・赤軍・地元の匪賊が三つ巴になって殺し合うデタラメな状況下

似たようなハンバ者と手を組んで、戦車や戦闘機を掠奪。

己の欲望のままに、奪い、犯し、殺戮し、自らの命までも潰していく・・

そんな、徹頭徹尾"救いのない"物語だ。

 

けれども、困ったことにーーこれが、めっぽう面白い。

ページを繰るほどに胸がじわっと熱くなり、ワクワクしてくるのだ。

 

たとえば、こんな言語道断のくだり。

女はぶん殴るに限る。ぶん殴って貰いたがってるのさ。ああもお上品ぶっとたんじゃ、どなたでも結構ですからあたしとやって下さいなんて言う訳にも行かん。ぶん殴ってやれば、口実が出来る。悪いのはあたしじゃない、ってな。あとは始末を間違えないことさ。ぶん殴ってでもやりたかったのはあんたが美人だからだ、お上品すぎるからだ、ぶん殴ってでもなけりゃやらせてくれないと思ったからだと言ってやれば、女はそれでご満悦だ。後は幾らでもやらせる。終いにはそれが恋だと思い込む。何、お互いやりたいだけなんだがね。                     〔124-5ページ〕

 

まさに、差別的表現のオンパレード。

女性差別どころか女性の人格も人権も無視した、身勝手で一方的な言いがかりだ。

「1世紀以上前の話なので許して欲しい」と弁明しなければ、人権団体あたりが頭から火を噴いて襲い掛かってくることだろう。

むろんうたた(俺だ)だって、ムチャクチャな"犯罪者の言い訳"だと認識してはいる。

だがしかし・・認識しながらも、それ以上に痛快さがこみあげてしまうのだ。

そして、自分自身に言い訳してみせる。

――暴論には違いないが、もしや"一片の真実`が含まれているのでは。

でなければ、この「共感」は、いったいどこから来ているのか。

 

自分でも持て余してしまう、くだんの「共感」は

こんなところでも、ひょっこりと顔を出す。

ぼくは美しいものを目にしていたのだ――人間と人間がお互いを獣(けだもの)のように追い回し、躊躇(ためら)いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、川から霧が漂い上がるキエフの夕暮れと同じくらい、日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かなミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。 半狂乱の男たちが半狂乱の男たちに襲い掛かり、馬の蹄(ひづめ)に掛け、弾が尽きると段平(だんびら)を振り回し、勝ち誇って負傷者の頭をぶち抜きながら掠奪に興じるのは、狼の群れが鹿を襲って食い殺すのと同じくらい美しい。殺戮(さつりく)が? それも少しはある。それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行なわれることだ。こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、何だって今まで怒らずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、徒党を組めば別な徒党をぶちのめし、血祭りに上げることができるのに、これほど自然で単純で簡単なことが、何故起こらずに来たのだろう。〔182p〕

 

この一節を読むあいだ、脳裏を過っていったのは・・

アメリカ各地でこれでもかと繰り返される、銃乱射事件だったり

アッラー・アクバル!」と叫んでは自らの命を投げうつ、自爆テロの画像だったり

一人で多くの犠牲を増やそうと避難者を押し戻す、大阪放火事件の犯人だったり

ーーいま現実の社会で起きている、"理不尽な死"にまつわるあれこれだった。

どれほどまなじりを決して否定しようとも

われわれ人間の裡には、〈暴力や混沌への憧れ〉が厳然と存在している。

まずは、そのことを「否定」せずに、認めたい。

認めなければ、コントロールすることも不可能なのだから。

 

おや・・またいつものパターンに転げ落ちてしまったな。

言い換えれば、それくらい"熱読"したあげく

熱くなった自分を振り返っては、あれこれ思い悩まずにはいられなかった

ある意味、《人間の根源に迫る》作品だと持ち上げたいのだ。

 

ま、こんな物騒な読後感を抱くのは、うたた(俺だ)だけかもしれんけど。

それを確認するためでいいから、ぜひとも、読んでいただきたい。

 

ではでは、またね。