"いたたまれなさ"の六連発 『三面記事小説』角田光代 周回遅れの文庫Rock

たとえば、買い物客でごったがえす大型スーパー。

商品をひとつだけ手に、レジに向かうと

人手が足りないのか、もの凄い行列ができていた。

先の予定が迫っており、のんびり最後尾に並ぶほど時間はない。

じゃあ商品を棚に戻して出ようかと思ったが、なんだかそれも面倒臭い。

気づいた時には、左肩に掛けたエコバックに商品を投げ入れ

レジを通らず店を後にしていた。

と、次の瞬間。

「ちょっといいですか」の声と、左肩に載る誰かの手。

買い物客を装った私服の警備員に、見つかっていたのだ。

 

ほんとうに、たやすく。

なんてことはない、些細なきっかけで

人は、道を踏み外す。

多くの場合、それはとがめられることはない。

みな何食わぬ顔で「元の道」へと戻り

平然と、今まで通りの"ルールに従った日々"を続けてゆく。

 

だが、しかし。

誰の足元にも、大きな〈落とし穴〉が口を開けており

あとほんとの一歩、右か左に踏み出していたなら

果てなき暗闇の中へと、真っ逆さまに転落していたに違いない。

 

ひところ、多くのドライバーが体験する事故寸前の状況を

ヒヤリハット」いう言葉で表現していたが

まさしく本書は、そうした"未遂では済まなかったヒヤリハット体験"を

これ以上ない切実さとリアリティを伴って、物語化している。

 

表題通り、実際に新聞紙上で公表された「三面記事」を題材にした

6つの短編小説は、そのタイトルだけを読めば

殺人・死体遺棄・自宅監禁など、ほとんどが重大犯罪に属する事件ばかりだ。

とはいえ、それはあくまでも〈最終的な結果〉である。

「犯人(容疑者)」が、それぞれの「事件」に足を踏み入れてゆく"第一歩"は

どれも、我々が日常的に平然と犯している

信号無視、スピード違反、一時停止違反などとさして代わらぬ

〈ルールからの逸脱〉に過ぎない。

だからこそ、これらの"罪"を犯した者は、誰一人罪悪感など意識せぬまま

身も心も善人面をしたまま、元の順法生活へと戻っていくことができるのだ。

 

では、「三面記事」に取り上げられるような〈彼ら〉と

幸いにも、運よく罪を免れた〈我々〉の間には

いったいどんな違いがあるのだろうか?

――実際の所、違いなど、どこにも存在しない。

敢えて違いを挙げれば、単に「運がいい」か「悪いか」・・それだけ。

 

そんなわけだから、本書に収められた6つの物語を

ひとつひとつ、読み終えるたび。

胸のなかに、これまで自身が免れてきた〈ヒヤリハット〉の角場面。

忘れてしまいたい、〈事件や事故スレスレ体験〉の数々が

無理矢理こじ開けた古傷のように、痛みと出血を伴って再現されてゆくのだ。

 

だから、読むたびに、どうしようもく、やるせなくなる。

その場から逃げ出したくなるほど、いたたまれなくなってしまう。

 

おそらく、それほど遠くない未来

具体的な小説の内容は、忘れてしまうだろう。

それでも、本書によって掻き立てられた

この「やるせなさ」と「いたたまれなさ」だけは

何年経っても心の奥底に刻印されていると、断言できる。

 

人の幸不幸を隔てているものは

愛情でも、家族でも、信念でも、お金でもない。

たまたま手元に配られた、薄い"カードの裏表"に過ぎないのだ。

そのことを、もっともっと切実に意識して生きてゆこう。

・・本当に〈転落した〉とき、もう一度、自力で立ち上がるためにも。

 

ではでは、またね。