超がつきそうなベストセラー小説なので
いまさら「あらすじ」でもないが、乱暴にまとめてしまおう。
犬(の仲間)に噛まれることで発症し、やがて死に至る・・。
狂犬病に似た致死率の高い疫病をめぐる物語だ。
250年前、ひとつの国を亡ぼす大惨事を引き起こしたその病が
今また、政治的な"武器"として使われようとしていた。
虐げられた被支配者が権力に対抗する手段――いわば、"貧者の核兵器"として。
物語の鍵を握るのは、2人の男。
そして、黒狼熱を発症しながらも奇跡的に生き残った元反乱軍の首領・ヴァン。
捕虜として囚われていた岩塩鉱で、他の全員がこの病で絶命するなか
なぜか生き延びた彼は、自力で鉱山を脱出し行方をくらます。
もう一人は、病(黒狼熱-ミッツァル)の治療法を模索する天才医術師・ホッサル。
当然彼は、〔唯一の生存者〕であるヴァンを追い始める。
その後のストーリーも、この〔追われる者/ヴァン〕と〔追う者/ホッサル〕
という二つの視点を切り替えつつ展開してゆくのだが・・
実際の内容は、そんな単純なものではない。
まず、奇跡の生存者・ヴァンの身に"超感覚"ともいえる特殊能力が発生する。
岩塩鉱から連れ出した、もう一人の生存者(少女)の身にも、同じ現象が起きる。
この新たな能力によって、ヴァンと少女は数奇な運命を辿ってゆく。
医術師・ホッサルの背景もまた、複雑に入り組んでいる。
謎の病が、250年前に祖国を滅ぼした伝説の病・黒狼熱であることを知り
それが新たな"テロ"の道具に使われようとしている事実に、激しい危機感を抱く。
しかしその一方、宗教色の強い国家的な治療集団が立ちはだかり
彼が目指す治療法が「身を穢す」と、否定されてしまう。
人はなぜ病み、なぜ治る者と治らない者がいるのか?
人は必ず死すべき存在である。なのに自然の摂理に逆らい、
身を穢してまでも最後の瞬間を延ばすことに、どこまで意味があるのか?
――いまわれわれが生きる現実世界と、なんら変わることのない〈究極の疑問〉が
読者に向かって、次から次へと投げかけられるのだ。
さらに、続編にあたる『水底の橋』において
超感覚や超能力といったファンタジー的要素は、ほぼ消失。
物語が投げかける問いかけも、シンプルなものへと研ぎ澄まされてゆく。
たとえば――人は何のために産まれ、生きて、死んでゆくのか。
自分を主役にしたがる「権利」じゃなく
上から押し付ける「義務」でもない。
もっと根源的な、ひとりひとりの幸福に直結する命題だ。
たかが作り話に、なに熱くなってんだろう。
そう嗤う人もいるだろう。
だけど平然とフェイクやウソを撒き散らす現実世界よりも
純然たるフィクション&ファンタジーである"こっちの世界"のほうが
圧倒的に全身全霊で〈命の意味〉と向き合っている。
しかも立場や価値観を別にした人々が
同じひとつのゴールを目指して、確かな足取りで歩み出している。
それは、本当にすごいことなのだ。
と、同時に、この"歩み"がフィクションの中でしか存在しえない現状に
深い悲しみと無力感が込み上げてくる。
それでもなお、本書のお陰で、ささやかな希望を夢見てしまうのは
うたたが、"甘ったれ"でしかない証左なのだろうか。
本来ならば、気にいった一節をとんどん引用して
これぞ毎年読み返したい超名作だ!!
なんて、明るく元気な祭り騒ぎにしたかったのだけど
なにせ「2022年7月の現実」が、余りに重すぎて重すぎて・・
こんなにも青臭く後ろ向きな独白になってしまった。
それでも、最後にひとつだけ。
さすがは上橋菜穂子!!
と、心の膝を叩いた数行を書かせてもらいたい。
本書の内容がリリースされたとき、『鹿の王』の続編を書くのであれば、ヴァンとユナのその後の話を書けばよいのに、という声も聞きましたが、私は、物語を、そういうふうに書くことができないのです。 物語は常に、身体の奥底からつきあげてくる衝動と共にやってくる何かで、技術や思惑で作り上げられるものてはないのです。私は「物語を書きたい」という、猛烈な熱が心に噴き上げて来ない限り、物語を書くことができません。これまで、そうやって、ぽつ、ぽつと、長い物語を書いてきましたし、これからもきっと、あるとき、ふいにやってくる熱に促されて、書いていくのだと思います。447p (『水底の橋』あとがき)
『香君』が文庫になる日が待ち遠しい・・
ではでは、またね。