ずいぶん長い間、京都には「ちょっとお高い和食の都」
というイメージを持ち続けていた。
しかし去年の秋、GoToキャンペーンに背中を押され
二十数年ぶりに訪れた京都で
絶品地中海料理&イタリアンに出逢えたおかげで
(しかも値段は居酒屋レベルと格安!)
もののみごとにひっくり返ってしまった。
(グーグルマップで探した「おばんさいの店」も、手頃で激ウマ。
富山出身の相方が、"実家の味と一緒だ"と感激していた)
なんだよ。京都って、メチャクチャB級グルメの街じゃん!!
・・と、今さながらの"自家製大発見"に興奮したところで見つけたのが
本書『京都の中華』だった。
それまでも、グルメ雑誌(主にB級関連)で
京都の中華料理店を紹介する記事は、ときおり目にしていた。
だが、心に残っているフレーズは
「さっぱりした和風中華」「若者向けの濃厚なラーメン」ぐらいで
いまいち"食べてみたい!"という気分になれなかったのだ。
ところが本書の一読後、そうしたゆる~い認識は、あっさりふっとぶ。
そもそも「京都の中華料理」は、大正時代の半ば
ひとりの広東省出身の中国人が次々と名店を作り上げ、礎を構築。
その後、現在に至るまで、彼の弟子たちと
京都の人々(地元客)によって受け継がれ愛されてきた
他に類を見ない独特な〈中華料理〉だというのだ。
いったい、どこがどう"独特"なのか?
冒頭の「街と味」に、その一端が示されている。
例えば、〔草魚(そうぎょ)〕のにんにくなし餃子の味の軽やかさ。
〔糸仙(いとせん)〕のはちみつみたいなたれがかかった酢豚の味のきれいさ。
〔盛京亭(せいきんてい)〕のかやくごはんみたいな焼飯の味のまるさ。
中国の人が見たら(もしかしたら京都以外の日本の人が見ても)、
「これは中華料理?」と首をかしげるかもしれない。 [4ページ]
よく言われる理由のひとつに
「お座敷に〈におい〉を持ち込むことを嫌う祇園などの人々が
にんにく控えめ、油控えめ、強い香辛料は使わないあっさり中華が普及した」
というものがあるが
どうもそれだけでは説明できない"京都らしさ"が、脈々と流れているようなのだ。
「京都の中華」は、ちょっと違う。
中華というもののとらえ方と育ち方が、ほかの街とはちょっと違う。
花街の習慣「ごはんたべ」にもたえる、店のしつらいと、気働き。
〔飛雲(ひうん)〕〔第一樓(だいいちろう)〕〔鳳舞(ほうまい)〕のお弟子さんたちに受け継がれる、独特のだしのとり方。
その一方で、反動のように愛されてきた、味濃く、ボリューム満点の学生街の中華。
しかもみな「安い」という月並みな言い方が申し訳ないほど、勘定がやさしい。
街の歴史や風習に合わせて、地殻変動してきた「京都でしか成り立たない味」。
この味を「おいしさ」とする味覚は、いったいどこからやって来たのか。[6ページ]
思いっきり興味を引き寄せる、こんな謎かけを受けて始まる本編は
〈餃子〉〈鷄〉〈海老〉〈肉〉〈飯〉〈麺〉と
素材?ごとに並んだ、いずれ劣らぬ「名店」のオンパレード。
想像力を掻き立てる文章に、"味のライブラリー"を総動員させてついて行くと
ふんだんに差し挟まれた料理・店内・店構え・厨房・料理人の写真が
ダメ押しとばかり、ドカンドカンと臨場感を上乗せする。
読めば読むほど"食べたさ"で息苦しくなるなんて、めったに経験できないぞ。
そんなわけで(どんなわけだ?)
辛抱たまらなくなった不良オヤジは
ようやく下火になってきたコロナの顔色を眺めつつ
昨年に続く京都行きを決断。
来月上旬あたり、遅ればせながら「京都の中華」を味見することにした。
機会があれば、その報告も紹介したい。
書きそびれてしまったが、本書巻末に載っている
文庫版付録「京都の中華と京料理」と名づけられた対談も、必読!
中華に限らず〈料理〉に関して信じていた"常識"の幾つかが
コロンコロンとスッ転ばされること、間違いなしだ。
ちなみに一番痛快だったのは、次のひとこと。
評論家でもなんでも、舌に自信がない人は「がんばってまっせ!」みたいな人らが好きなんや。講釈たれまくって、朝は5時から起きて、みたいな人らが好きなんや。
[259ページ]
ではでは、またね。