歴史的快挙!
世紀の大発見!
といった大仰な枕詞付きで紹介される出来事は
最近やたらと多くなってきたが
これに関しては、決して言い過ぎではないだろう。
その後の大騒動を記録した物語である。
ことの始まりは、第二次世界大戦間近の1938年。
とあるトロール船が獲ってきた、1トン半の魚の山に相対したときだった。
開館まもない小さな博物館に展示する品々を求めて
彼女は定期的に、こうした"お宝探し"に精を出していたのだ。
それが、歴史的快挙につながるなどは、夢にも思わず。
多分、いただいていくものはなさそうね、と彼女は老人(水夫)に声をかけたが、その手は丁寧に仕分けを始めていた。青いヒレが魚の山から飛び出しているのが目に入ったのはそのときだった。
「ぬるぬるした魚の山をくずしていくと、見たこともないようなきれいな青い魚があらわれました。体長は一・五メートル。少し藤色がかった青の表皮には淡い白の斑点があって、全体が玉虫色にきらめいていました。硬いウロコに覆われていて、足のようなヒレが四枚、小さな尾はまるで子犬のしっぽのような奇妙な形をしていました。ともかくきれいな魚で、魚というよりは中国の大きな磁器とでもいうのかしら。でもいったい何という魚なのかはわかりませんでした」(※マージョリー本人のことば)(15ページ)
体長1メートル半、重さ57キロ。鎧のようなウロコと、足のようなヒレをもつ異様な姿の魚を目にして、「化石の魚」との共通点に気づいた彼女は、すぐさまそれを上司の博物館理事長(医学博士)に披露する。しかし、帰ってきた言葉は・・
『大騒ぎをしておられるようだが、ただのハタでしょう』。 (18ページ)
文字通り、一蹴されてしまった。
通常、ペーペーの博物館員ならば、このにべもない理事長のひとことで諦めるはずだ。
しかし、彼女は違った。
「名前が判る人物が見つかるまで保存しておこう」と、遺体保管所と保冷庫に相談。
どちらにも断られると、ホルマリンに浸した古新聞で魚を包んで保存する。
また国内で最も名高い魚類の専門家、スミス博士に電話したものの休暇中で不在。
翌日になっても返事がないので、魚のスケッチを同封した手紙を書いて送る。
560キロ西の海辺で博士が手紙とスケッチを手にしたのは、11日後のことだった。
夫人のマーガレットは夫の異様な行動に驚いていた。彼は突然立ち上がると、押し黙ったまま手紙を見つめていた。そして夫人のほうをふりむくと、「頭がおかしくなったかと思われるかもしれないが――でも、いいかい。何千万年も前に絶滅したとされる魚と同じ種類のものが、イースト・ロンドン(南アの地名)で見つかったんだ」。(38P)
こうして、「生きた化石・シーラカンス発見」のニュースは全世界を駆け巡り
当時30歳そこそこの若き女性学芸員マージョリー・コートネイ-ラティマーの名は
歴史に刻まれたのだった。(この時の魚はラティメリア・カルムナエと命名された)
当然その後は、〈二匹目のドジョウ〉を求めて殺到する研究・冒険者たちの競争や
最初に発見した南アフリカと、当時のコモロ諸島支配者フランスの利権合戦など
世界を巻き込むドタバタ劇が展開するだが、そのあたりは本書をお読みいただきたい。
読後、私がなにより強く感じ入ったのは
誰に否定されようとも、自分の直感を信じ続け、全力で奇妙な魚を保護・保存。
見事、「シーラカンス第一発見者」となったマージョリーの〈行動力〉に尽きる。
ノーベル賞受賞者の談話などでも、しばしば耳にするのが、次の言葉。
自分の直感を信じ、決して諦めずに試行錯誤を続けたことが「発見」につながった。
なまじ長年研究生活を送り、頭の中に〈科学的常識〉が構築されてしまうと
そこから外れた〈異常〉は、目に入らなくなってゆく。
ろくに検討もせず「ただのハタでしょう」と決め付けた理事長は、その典型だろう。
しかしマージョリーは、経験が浅く未熟だったがゆえに、頭を"柔らかく"保ちつづけ、
"利口な"大人たちに「バカバカしい」と笑われかねない行動に出ることができたのだ。
もちろん、科学や研究の道はそんなに甘いものではない。
きっと彼ら彼女らの九割以上は、「新発見」と呼べる成果を手にせず終わるだろう。
それでも、前例や常識を盾にした否定的意見ばかりを繰り返し
行動に移すどころか、自分の頭で考え抜くこともしない人生の先に
〈手に汗握る発見の喜び〉などありえない。
そう、強く信じている。
その後の調査で明らかになったことだが
この魚が生息するアフリカ東岸コモロ諸島の漁師は
年に数匹のペースで、この「生きた化石」を釣り上げていた。
だが味も悪く、何の役にも立たないので、釣った傍から捨てていたという。
世紀の発見。
案外、それは、我々の目の前に「いる」のかもしれない。
ではでは、またね。