"バカ"が愛された時代 『シネマの極道』日下部五朗 周回遅れの文庫Rock

1960年代の「任侠映画」シリーズ

73年の『仁義なき戦い』に始まる「実録路線」シリーズ

極道の妻たち』『柳生一族の陰謀』・・

さらに83年、カンヌ映画祭パルムドール(最高賞)に輝く

楢山節考』をプロデュースした東映プロデューサー・日下部五朗の一代記。

"プロデューサー"と呼ばれる人間が、

まだ〈金に使われる人間〉でなかった、幸福な時代の記録である。

 

新たな大衆メディア・テレビの普及とともに

徐々に観客動員数が減少しつつあった1960年代半ば以降

いわゆる「絶頂期」を過ぎた時代からの足取りではあるものの

最近30年余り続く〈テレビ局&代理店に資金を出していただく〉のではなく

自力で億の資金をかき集め、真に個性的な作品群を創り出すことができた。

 

それだけに、監督・脚本家・役者・その他製作スタッフは

いずれも、ひと癖ふた癖ある"アク(個性)の強い"クセ者"たちが勢ぞろい。

当然、それらすべてを統括するプロデューサーも、文字通り海千山千の豪傑ばかり。

著者の日下部氏は、その代表格と言えるだろう。

 

楢山節考』を引っ提げて、カンヌ映画祭に臨む冒頭からし

良質のコメディ映画かアクション映画のワンシーンのようなシーンの連続だ。

なにせ絶対的本命を自認し、総勢二十名でファーストクラスを占領する『戦場のメリークリスマス』軍団に対し、《楢山組》は日下部と主演女優・坂本スミ子の二人だけ。

それも、182センチの巨体をエコノミーの狭いシートに押し込んで向かうのだから。

 

やがて筆者の回想は、東映入社当時の昭和32年に遡り、下っ端の制作進行から始まる

日下部のキャリアを辿っていく。

そこに満ち溢れる空気には、常に人と人の〈生身のぶつかり合い〉があった。

個々の発言から台本の表現にまで、一字一句重箱の隅をほじくるようにチェックされ

やれ差別だ、ハラスメントだ、など〈正義や権利〉ばかり幅を利かせることもなく

社長から新入社員までひとりひとりが、自分の想いをストレートにぶちかます

そうした"映画バカ"たちが、文字通り浸食も忘れて「時代」を創り出していったのだ。

 

監督とは不思議な生き物であり、不思議な人ほどいい映画を撮るようである。人格円満で常識に溢れた好人物の大監督なんてのはあまり聞かない。

ただ、わたしたちの時代になると、映画監督という連合艦隊司令長官にも比較された職業もいささか色褪せてきて、豪快な遊びをしたり、好き勝手に生きることが難しくなってきた。                             (180P)

 

脚本家もスケベの方がいい。言いかえれば、女で苦労している方がいい。女のこと、女の悲しみ、痛み、虚栄心、強さ、弱さ、嫉妬、喜びがよくわかるからである。プロデューサーもスケベがいい、とは先に書いた。何のことはない、映画はスケベが作るに限るのである。                            (172P)

 

だが、80年代から90年代にかけて、巻客離れが加速。

ついには、寄せてくる時代の波に押し流されてゆく。

 

ここ十年の大きな変化ではあるが、いまや映画ではスターはできない、影響力もない、テレビ局に金を出してもらわないと映画が作れない、日本映画のヒット作の多くがテレビ関連の作品(テレビドラマの映画化からアニメや特撮ものまで)、という世の中になってしまった。だからといって、今更わたしはテレビドラマの特番か焼き直しのような映画を作りたくない。ああいう映画はやはりテレビの視聴者向けのものでしかない。私たちには、あの手の映画は作れない。非日常の大嘘をいかにリアルに見せるかが、わたしたちが現場で学んできた映画なのだ。               (209P)

 

そして、いま。

いっときは〈独り勝ち〉状態だったテレビも、見る影もなくなり

大掛かりな映像メディアそのものが、「衰退産業」の一語でくくられるようになった。

代わって、誰もがワンブッシュで発信できる個人メディアの時代が到来。

〈表現のハードル〉もまた、かつてないほど低くなってきた。

しかし、そんな"上っ面だけの表現の自由"と引き換えに

なにかとても大きなものを、我々は手離してしまったのではないだろうか。

 

単なる〈古き良き時代の回想〉ではなく

いまそこにある切実な問題として

本書にあふれる"熱気"を、体感していただきたい。

 

競馬や競輪なんていうチンケな賭けに、わたしは、全く興味がなかった。わたしの賭けの相手は日本中の大衆である。わたしが勝てば、全国津々浦々の映画館に、千何百円かを持って、無名の、多種多様な老若男女がつめかけるのだ。その暗闇の中ではわたしの映画が彼ら彼女らを笑わせ、泣かせ、手に汗を握らせ、そして(ささやかかもしれないが)勇気なり感動なりを伝えられるのだ――これは最高のエクスタシーである

                                 (220P)

ではでは、またね。