私たちは、それぞれ
『異なる長さの物差し』を心の裡に持っていて
世の中のあらゆる事象を
たった一本しかない〈自分の物差し〉で測ろうとしている。
――という命題(そんな内容だったっけ?)について考えたこと
今日はその、ふたつめ。
続いては、皆さんお馴染みの
イジメやセクハラなどのハラスメントに関して。
いまや社会の至る所で湧き上がってくる
この〈加害者⇔被害者〉問題もまた
ひとりひとりの感じ方の差=物差しの違いによって
発生することが、実に多い。
たとえば、あなたが妙齢の女性だったとしよう。
ふたりの男性から、まったく同じかたち(強さ・方法・場所)で
ポンと肩を叩かれる。
ひとりは、秘かに慕っていた素敵な上司。
もうひとりは、言葉も交わしたくない下品な先輩。
もし目を閉じていたら、どちらがどちらとも判別できない。
そんな軽い接触に過ぎない。
だが、あなたにとって前者は、〈ちょっと嬉しい出来事〉になるはずだし
後者は〈極めて不快なセクハラまがいの行為)に成り下がってしまう。
つまり、外部からは測定不能な〈主観=好き嫌い〉によって
本来まったく同じはずの行為が
正反対ともいえる感情を湧き上がらせてしまうのだ。
満員電車でしばしば発生する、痴漢事件でも
同様の《感じ方の差》が、否応なく関わってくる。
たとえば、ぎゅうぎゅうに込み合った通勤電車のなか
あなたが肩から提げているカバンの角が
急ブレーキで揺れた拍子に
たまたま、前に立っている女子高生のヒップに触れたとしよう。
しかし、その女子高生は、これまでも何度か痴漢行為に遭っており
(または自分の身体に接触したケースはすべて「痴漢」と思いこんできた)
このときも電車の揺れに乗じて、誰かが自分のヒップを触ったのだと思い込む。
そして、「今度こそ泣き寝入りせず声を上げよう」と固く決心していた。
――となると、この先の展開は容易に想像が付くはずだ。
「チカン!」と、女子高生が声を上げる。
すぐそばに男子生徒(同級生?)が
彼女の真後ろに立つあなたの顔を睨みつけ
「おまえがやったんだろう!」となじる。
そうなってしまうと、あとは何を言っても加害者扱いだ。
かくして、痴漢事件(実際は冤罪)の一丁上がり。
濡れ衣を晴らすまで、この先あなたは何年もの時間を費やし
最悪の場合、仕事や家族を失って裁判所に召喚され
屈辱と偏見と悪意に満ちた審議に耐え続けなければならない。
これもまた
《ヒップへの接触=痴漢行為》という《思い込み=自分の物差し》
以外の可能性を考えようとしない
一方的な被害者意識が招いた悲劇といえるだろう。
中学・高校はいうまでもなく会社組織の中でも
当たり前のように目にするイジメ(ハラスメント)問題も
ひとりひとりの《物差しの違い》や《感じ方の差》によって
大きな悲劇を招いてしまうケースが、少なくない。
発した本人は〈悪意に満ちた渾身の悪態〉を投げつけたつもりでも
受け取る側がその言葉を〈悪態〉だと認識しない限り
それはけっしてイジメにもハラスメントにもなり得ない。
しかし逆に、まったく悪意もなく
むしろ好意から発した「バカ」という言葉を
「死ね!」に等しい罵倒と受け取り
場合によっては、本当に命を絶つ事態へと至ってしまうのだ。
これほどまでに、私たちひとりのひとりは
それぞれ《感じる強さ=心のキャパシティ》が大きく異なっている。
だから、本人が受け取ったとしても少しも気にかけない言葉を、
その人が誰かに向けて発したとたん。
同じ言葉が、誰かの心を圧し潰すキラーワードに変貌してしまう――。
そんな、どこにも悪意が存在しないイジメやハラスメントが
現実世界では、しょっちゅう発生しているのではないのか。
つまり、「いい」か「悪い」かを判定するのは
受け手(被害者と称される人々)の《物差し=キャパシティ》しだいなのだ。
絶対に勘違いしないでほしいのだが
別にこれは、だから被害者の側だけに問題がある
と主張しているわけではない。
欲望の強さも、感じる度合いも、感情の物差しも
わたしたちひとりひとりは、こんなにも大きく異なっている!
という事実をいつも頭の片隅に置いてほしい。
そう願うだけなのだ。
なかなかにヘビーなこの話題
あともうちょっとだけ、続きます。
ではでは、またね。