人が平等なわけ、ないよね。その1:私たちの”感度”は千差万別!  本日の"なんだかなぁ”

芸能人の不倫騒動や

有名スポーツ選手や政治家のセックススキャンダル

はたまた盗撮・覗き・万引き・薬物使用

さらに新しいところでは、漫画原作者による盗撮事件など。

いわゆる「違法行為」に手を染め

これまでに築き上げてきた栄誉や評判を

一夜で台無にしてしまう事態が

今年もまるで〈季節のお便り〉のように

絶え間なく発覚し、マスコミの恰好のネタに採り上げられている。

 

そして、こうした事件を知らされるたび

フツーの人々は

多かれ少なかれ以下のような感慨を抱くにちがいない。

すなわち……いったいなぜ、こんなばかなことを!?

という想いだ。

 

日々の暮らしに窮した末の万引きや窃盗ならまだしも

金銭的にはなにひとつ不自由のない高額所得者。

しかも、容姿をはじめとしたプライバシーまで公表されており

もしそれが発覚した場合

自身に跳ね返ってくるダメージの大きさについて、想像できないはずはない。

なのに、どうして、こんなにも莫大なリスクを侵してまで

それまでの人生を台無しにしかねない「愚行」をやらかしてしまうのか?

 

実は、その背後には

あるひとつの、大きな勘違いが存在している。

 

それは、あまりにも当たり前の概念。

《人はみな同じではない》という事実である。

 

すべての人は平等。

現代社会では何度も耳にする言葉であり

今また「ブラック ライフ イズ マター」運動が盛り上がり

世界各地で、反差別=法の上での平等を求める機運が高まっている。

とはいえ、それは、あくまでも〔法の上での平等〕

言い換えれば、〔客観的観点からの平等〕に過ぎない。

 

しかしながら人間は、本来《主観の存在〉である。

どれほど外側にキッチリと枠を作り、数字や文言で境界線を引いて

「このラインを超えたらアウト!」と定めたとしても

私たちひとりひとりの《主観》は、それぞれ異なる位置に《境界線》を引き

それに従って日々暮らしているのである。

 

たとえば、「痛み」だ。

子供のころ、集団で受けた予防注射の場面を思い出してほしい。

あの行事に対する、ひとりひとりの反応だ。

「痛い痛い!」と大げさに泣き叫ぶ人もあれば

一瞬、顔をしかめる人も

いつ注射したのか分からないほど平然としている人もいたはずだ。

もちろん、厳密に言えば、痛点から外れたかどうか

極端な恐がりか、先端恐怖症か、など他の要因もありうるが

同じレベルの痛みを与えるはずの注射でも、これだけの違いが生じる。

従来の考え方によると、この差は、

”我慢強さ”など、精神面の強弱が原因とされることが多かった。

だが、それは間違っていると思う。

明らかに、人によって《痛みを感じる度合い》が異なるのだ。

 

つまり、わたしたちは

さまざまな《痛み・好悪・欲望etcを感じる度合い》=《感度》が

決して同じ基準で設定された存在ではない、ということ、

言い換えれば、ひとりひとりが

『異なる大きさと形を持つ魂の入れ物』を

胸の裡に抱えている生き物なのである。

 

だから、冒頭で並べたように

芸能人をはじめ、ある種〈特殊な才能〉に恵まれた人々が

(性懲りもなく)不倫や盗撮・薬物などのスキャンダルを繰り返してしまうのも

こうした《感度の違い》に起因するものだと、考えたい。

 

早い話。

彼ら(彼女ら)は、平均的な一般大衆と比べて

性欲をはじめとした欲望が余りにも強く

そのため、頭の片隅では発覚した場合のリスクを知りながらも

ときに自らを抑制することが困難になってしまう。

――のではないだろうか。

 

これに対し、私を含めた一般的な人々は

そこまで強烈な欲望に駆り立てられることがないため

「いくら誘惑されたからって、なぜ我慢できないんだ。バカじゃないの?」

とか、自分の中の物差しだけで判断し

自制心の無い奴、常識を知らない奴、などと決めつけてしまうのだ。

 

――そのように考えれば、初めて

クリントン元大統領やタイガー・ウッズなど

いまこの場で思い返すだけでも、次から次へと浮上してくる

"有名人のお粗末なセックススキャンダル"にも

ようやく説明がつくのではないだろうか。

 

まだ長くなりそうなので、続きは明日にでも。

 

ではでは、またね。