何回読んでも、読み終えるのが惜しくなる。名作。 『海街diary(全9巻)』吉田秋生 周回遅れのマンガRock 

確か、10年ぐらい前だったと思う。

4巻目が出た頃に読み始め

続刊が書店に並ぶたび、最初から読み直した。

その後も、ほぼ年一回のペースで再読していたので

今回(2021年3月)で、少なくとも二けたの大台には乗ってるはすだ。

 

いかに忘れっぽくなったとはいえ、そこまでリフレインしていれば

各エピソードの内容も、クライマックスなどの名場面も

くっきりと頭の中に刻み込まれている。

そのため1週間ほど前に、第一巻の表紙と対面したときには

"さすがにもう「新発見」とか、ないよなぁ……。ナツメロ感覚でのんびり楽しもう"

などと、半歩引いたスタンスで読み始めた。

 

ところがどっこい。

そうは問屋が卸してくれなかった。

"あー、はいはい、そうだったねー"と冷静に構えていたのは

せいぜい第一話の半ばまで。

早くも、葬儀の場にシャチ姉が登場するシーンでは

がっちりと読者心を鷲掴みされていた。

そして、第一巻「蝉時雨のやむ頃」を読み終えた時には

"いやはや凄い凄い。この後どうなっていくんだろう"なんて

ドキドキしながら、二巻目の表紙をじっと見つめる自分がいた。

――今後の展開なんて、とっくのとうに熟知しているのに!?

 

ま、認知症の始まりを疑われるような、恥ずかしい感想はこのぐらいにして。

 

海街diary』は

父親をガンで失った中学一年生の少女・すずが

腹違いの姉3人が暮らす鎌倉で暮らし始め

高校に進学するまでの、およそ2年半の歳月を綴った

〈変化と成長〉の物語だ。

しかし、作者の放つスポットライトは

常に「すず」に当たっているわけではない。

 

彼女を引き取り、一緒に暮らすようになった3人の姉たちは言うまでもなく

「すず」の同級生となったジュニアサッカーチームの面々と、その家族・友人。

3人の姉それぞれの仕事先やプライベートでかかわる人々。

いっぽう四人姉妹となった彼女たちの母親・叔母、また「すず」の実母の実家の人々。

さらに従兄弟の恋人に至るまで・・

まるで大きな地引網を手繰り寄せるかのように

様々な〈縁〉に導かれて、続々と登場する人物ひとりひとりが

スポットライトを浴び、ちらり、と心の内側を垣間見せてくれるのだ。

 

そういう意味で、この作品は

4人姉妹が暮らす街・鎌倉の物語、そのものと言っていいだろう。

その証拠?が、各巻の表紙カバーだ。

大多数の漫画作品において、この一番目立つ場所には

主人公たちのドアップが、これでもか!と、存在感を主張するものだ。

だが本作の表紙を飾る〈主役〉は、全巻共通して「鎌倉の情景」。

「すず」たち登場人物は、四季折々の風景に点在する〈ミニキャラ〉にすぎない。

 

そして、読者もまた、この表紙を目にした途端

鎌倉の地に足を踏みしめ、彼ら彼女らに向かってカメラを構える

〈登場人物のひとり〉に姿を変えている。

その結果、誰の、いかなるエピソードも、「他人事」には思えず

心の奥底に閉じ込めていた〈傷〉や〈痛み〉までも

「すず」たちと同じ舞台の上に、さらけ出してしまうのだ。

 

もちろん、私たちの心に潜む〈傷〉や〈痛み〉は、常に同じものではない。

実体験とともに強く大きく、あるいは弱く小さく、変化し続けていく。

だからこそ読者は、この作品を読むたび

様々な場面のなかから、変貌した鍵穴にピッタリと合う「新たな鍵」を探し出し

自分でも忘れていた〈心の扉〉を、開け放つことができるのではないか。

そうとでも考えないと

〈何度読み返しても新たな感動に出逢ってしまう〉ワケが、思い当たらないのだ。

・・はいはい、認知症の疑いも否定しないけど。

 

それにしても、行数稼ぎの引用なしに

わけのわからん抽象論だけで、長々と引っ張ってしまった。

もしまた書く気になったら、次は『心が震える名台詞・名シーン』とかかな。

新シリーズ『詩歌川百景』もスタートしたので、そっちに浮気するかも。

 

ではでは、またね。