コロナ危機は"人類リストラ"の絶好機!? ―― 本日の"なんだかなぁ"

「リプレイ旅モード」に切り替えたはずだったが

録画しておいた「ファベーラのドキュメント」(NHK BSP)を

昨夜観たおかげでで、またまた出しゃばらずにいられなくなってしまった。

 

思い返せば3月上旬

ギリギリセーフでキューバの旅から無事帰国して以来

海外で制作されたものを含め

コロナウィルス(パンデミック)に関する

ほとんどすべての番組を見てきたが

今回、リオデジャネイロのファベーラ(貧民街)を舞台にした番組を観て

身も蓋もない人間の側面を、否応なく自覚させられてしまった。

 

たとえば、こんなふうに。

①一部の特権階級にとって、一連のコロナ騒動は

 絶好な「人減らし」のチャンスだった、ということ。

すでにアメリカ合衆国の感染状況でも明らかになったように

コロナウィルスの犠牲者は、有色人種を中心にした低所得者層に偏りつつある。

日本のような国民皆保険を実施していないこともあり

低所得者層の場合、コロナ感染の疑いがあるからといって

気軽に病院に頼るわけにはいかない。

その結果、早期発見&治療の恩恵を受けぬまま

致命的な状況になるまで放置

結果、手遅れとなってしまうケースが続出しているのだ。

番組ではこれを「医療格差」と呼んでいたが

実態はそんなに甘いものではない。

 

ブラジル大統領ボルソナーロ氏の言動をチェックしていれば

誰でも気がつくことだと思うが

明らかに彼は「人命(国民の健康)」よりも「経済」を優先している。

そして、国内で終わりなき感染爆発が相次ぐいま

そんな世界中から〈人道にもとる〉と非難されるこの男を

賞賛するブラジル国民の数が、減るどころか増加しつつあるのだ。

ここから見えてくる「真実」は、

自分たち(高額所得者)の安全が守られてさえいれば

貧民層などいくら死んでも構わない。

――との冷徹な思想である。

それどころか、満足に税金を納めない高齢者や基礎疾患に苦しむ人々など

国の財政を圧迫する「厄介者」でしかない。

むしろコロナに一掃してもらったほうが助かる。

・・ぐらいの本音が透けて見えてしまう。

 

要するに、ブラジルの政治経済をけん引する

ボルソナーロ大統領以下の〈選ばれた人民〉にとって

劣悪な住環境のファベーラ(貧民街)に暮らす大多数の人々は

『同じ人間ではない』という認識なのだ。

そう、あたかも中世ヨーロッパや開拓期のアメリカで

キリスト教徒以外は人間ではない。だから排除するこそこそが正しい」と

何のためらいもなく平然と異教徒を殺しまくったかのように。

 

現にいま、私たちが暮らす日本という国の中でも

さすがにブラジルほど露骨ではないものの

「人命より経済」という方向へ、秤は傾きつつある。

理由なら、いくらでも言い換えが可能だ。

「このまま経済不況が続き、自殺者が倍増したらどうする?」とか。

だいたい、政治家だけでなく私たちのなかにも

薄々こんなふうに考えている者が、少なくないのでは?

"今回のコロナ事変で、健康な若者はほとんど犠牲になることはない。

 そもそも死亡率だけを見れば、季節性インフルエンザの半分以下にとどまっている。

 いくら急速に症状が悪化するおそれがある、とはいっても

 それはごく一部の高齢者や高額な医療費支出を伴う基礎疾患の持主ばかり。

 だったらいっそのこと感染者数の増減などには一喜一憂せず

 感染防止については最低限のチェック体制だけ維持し

 あとは国民ひとりひとりの〈自己責任〉に丸投げ。

 経済活動の復活に力を注ぐほうが、遥かに〈効率的〉なのではないか。

 ――いや、この際言ってしまえば

 むしろ、この機会に〈そういう人たち〉が少しでも減ってくれた方が

 未来を担う若い世代の財政的負担が楽になるはずだ"・・と。

正直、今回のコロナ騒動に対しては、

上記のような対応法も「あり」ではないかと思うときもあるのだ。

そして、おそらく私たちの誰もが、多かれ少なかれ

心の奥底に、これと似たような考えを抱いているものと確信している。

また、己の心のなかに〈こうした側面が存在している〉ことを

認めない限り、私たちは《現実》と向き合うことが出来ず

ただ己の心を満たすためだけに

どこにも存在しない「理想」や「正義」を追い続ける

不毛な人生を終えることになるのだ。

 

もちろん、こんな不謹慎な発言をすると

「自分の家族が犠牲者になっても、お前は同じことが言えるのか!」

と、鬼の首でも取ったかのような〈原理原則論〉を叫ぶ人々が出てくるだろう。

しかし、それならば、「コロナ」以外の悲劇についても言及せねばなるまい。

交通事故、虐待死、いじめによる自殺など、コロナに限定せずとも

〈理不尽な死〉はどこにでも転がっている。

そのひとつひとつに対して、「自分の家族が・・!」と主張するのであれば

車社会を完全に廃止するとか、言葉による暴力を完璧にコントロールするとか

ぜひとも、画期的かつ具体的な打開策を提示していただきたいものである。

 

・・また話がそれてしまった。

否応なく自覚させられた事実、その2にも触れたい。

それは、こんな感じだ。

②命の重さはひとりひとり違う。それも、まったく違う。ということ。

「ファベーラ」を舞台にした最前のドキュメンタリーでも

何度となく「命の格差」について語っていたが

こちらは、そんな「格差」や「差別」以前?の問題だ。

 

この星には、すでに「多すぎる人間」が生きている。

とりわけ、中国、インド、ブラジルなどいわゆる「BRICs」に属する国々は

増え続ける人口を持て余しつつあり

はっきり言って「むしろ減ってくれた方がありがたい」状況にある。

ぶっちゃけ、国のスケールで考えれば

1千万や2千万の命を失おうと、痛くも痒くもないはずだ。

だから、こうした国々における《人命》は

人口減少に直面している日本や欧米などの《人命》とは

まったく違うシロモノだと考えねばならない。

 

そして、先に触れたブラジル大統領ボルソナーロの言動も

〈人口増加は必ずしも望ましいものではない〉という側面から見つめ直すと

あながち常識外れではない、ということに気づくはずだ。

彼は――ただ単に、正直すぎるだけなのだろう。

 

ともあれ、私は

こうした"人に溢れた国々"における今後のコロナウィルス対策を

注意深く見守っていきたい。

見守ったから何がわかる、何が変わることもないだろうが

それでも、この世に生を受けたからには

生きている限り、インプットとアウトプットを繰り返していきたい。

 

ではでは、またね。