"疑うこと"の大切さを、改めて心に刻む。 『立ちどまって考える』ヤマザキマリ 周回遅れの新書Rock

相方と話していると、たま~に話題が政治の話に及ぶときがある。

(現在の日本における新型コロナ対策など)

んで、率直に自分の意見を述べると、決まって彼女はこんな言葉を返してくる。

「どうしてそんなに、人を疑ったりキツいことばかり言うの?

 みんないょう賢明頑張ってんだから、もっと信じてあげてもいいでしょ」

いやいや。あなたの方が、お上の"きれいごと"を無条件に信じ込んでるだだってば。

――などと本音で切り返そうものなら、数日間は夫婦の会話がなくなるので

よっぽど虫の居所が悪いとき以外、それ以上の主張は控えている。

そして、一瞬だけ、

俺って異常に疑り深い歪んだ人間なのかな?・・と、不安になる。

 

そんな自信喪失に陥りかけたうたた(俺だ)を、疑心暗鬼の沼から掬い上げ

あなたは間違ってなんかいないよ!!

と、力強く背中を叩いてくれる《同志》の一人が、他でもないヤマザキマリだ。

 

本書『立ちどまって考える』は

パンデミック後、世界的な行動制限に縛られ続け状況のなか

混沌とした日々を生き抜くのに必要なものとは? 自分の頭で考え、自分の足でボー  ダーを超えて、あなただけの人生を進め!』          (内容紹介より)

とのメッセージを投げかけた作品である。

 

ご存じのように、十代後半から単身イタリアに留学。

美術史・絵画を学びつつルネサンスやローマ時代への造詣を深め

あわせてキューバポルトガル、シリア、アメリカ(ボストン)へと

世界各地での"流浪生活?"を経験してきた彼女ならではの

〈実体験に基づく比較文化論〉が、実に平易かつ具体的に提示されている。

今も世界を震撼させている新型コロナに対しても、その明解な視点は揺るがない。

 

イタリアやブラジル、そしてアメリカなどで、新型コロナウイルスはたくさんの人の間に広がっています。その感染率の高さを見るにつけ、人との接触率や会話率が高いところほど、感染が拡大しやすいのではないかと感じていました。           ほかにも、マスクをする習慣がなかった、普段からこまめに手を洗うというような日本人ほどの潔癖さがない、といったいろんな要素も絡んでいることでしょう。ですが、そういったことを考えあわせてもなお、人と接触することの多い文化圏の人たちに、相性の悪いウイルスだったと言えるでしょう。〈中略〉                 日本の感染率が他国と比べて本当に抑えられているのだとしたら、人との接触が少ないことや、夫婦間でも必要以上にベタベタしない、親子でも頻繁に抱き合ったり頬にキスをしないといった、日本人の常日頃の生活習慣が、少なからず関係しているのではないでしょうか。                          〔31-32ページ〕

 

「日本における感染率の(異常な)低さ」について始まった彼女の思考は、続いて

「不要不急」に象徴される日本の曖昧さ へと移ってゆく。

コロナ禍のなかで頻繁に聞くようになった言葉があります。感染拡大を阻止するがための行動抑制を促す際に使われる「不要不急」がその一つ。聞くたびに、言葉の意味するところがとても曖昧だなと感じています。何をもって「不要不急とむするのか、どこで線引きをすればいいのかがわからない言葉ではないでしょうか。〈中略〉     「行くな」と明確に言わないけれど、「それであんたが感染してもこっちの責任じゃないから、そこんとこよろしく」と、暗にほのめかされているのが日本の対応でした。「強制力をもつ法律が整備されていないから」とも言われますが、曖昧な線引きを見ていると、政府も含めて「組織の側が責任を持ちたくない体制なんだな」とあらためて確認する思いです。                        〔50ページ〕

 

パンデミックが始まって2年が経とうとしているが、この国の「新型コロナ対策」は、

時が止まったかのように、上記の〈責任回避の"お願いモード"〉から揺るがない。 

著者は、こうした日本政府のやり口を『幼稚』の一言で切り捨てる。

ヨーロッパの政治に慣れた目には、やはり意図が曖昧な、幼稚な対策に見えてしまいます。                              〔52ページ〕

日本とヨーロッパの国々を比較すると、その人口規模に差はありますが、日本には宅個以上に「石橋を叩く」ことに注力しすぎる傾向があるのではないでしょうか。間違えないように、失敗しないように、バッシングされて炎上しないようにと、ありとあらゆる角度から検証し、充分に確認してからようやく実行する、というような。       そうした姿勢や判断が必要とされるときも、もちろんあります。しかし、パンデミックはそうしている間にも広がっていきます。将棋のように、相手の出方をたっぷり時間をかけてうかがえる状況ではありませんから、ここはズバッと行動に移し、合わなければ調整する、といった行動力があってもいいのではないでしょうか。もし失敗しても、そこから学び、次は同じ間違いをしなければいい。慣れない綱渡りを必死にしている人を見るようなもどかしさを、日本のコロナ対応には感じています。   〔55-56ページ〕

 

さらに著者は、過去に幾度もパンデミックを乗り越えた世界史を敷衍し

常識的な?日本人であれば(世間を気にして)ためらうことにまで言及してゆく。

フラットな目線で観察したならば、至近距離でのコミュニケーションをそのまま貫いて、それでも生き延びた人たちが、ウイルスと共生しながら生きていくことになるのかもしれません。要するに、ウイルスによる人類の淘汰が起きる。ほかの生物の生態を踏まえても、それこそがウイルスの本質的な目的なのではないかという気がしてならないのです。                           〔67-68ページ)

 

「ウイルスによって人類が淘汰される」など、弱者の人権をないがしろにする暴言だ!

いわゆる人権擁護派を任ずる方々には、とうてい容認できない意見だと思うが

医療施設によるトリアージ行為が実施され、自宅待機を余儀なくされた感染者がなんの

治療も受けられぬまま命を落とした現実に前に、理想論ほどムナシイものはない。

どれほど声高に弱者救済を叫ぼうとも、ギリギリまで追い詰められたとき。

人は「仕方がない」と言いつつ、弱者を切り捨てているのだ。

そのことは、歴史上の事実からも明らかである。

少なくとも著者は、その〈現実〉から目を逸らさず

自らの責任で、自らの意見を書き記している。

その毅然とした行動に勇気づけられるのは、読者(俺だ)だけではないはずた。

 

これ以降も、

「北イタリアでいち早く感染が爆発した背景には、中国との経済的関係の深さがある」「イタリア人の疑念を持つ力『疑う力』が、パンデミックの時代、特に問われている」

「旅を封じられてしばらく経ったあと、これはこれで普段考えたり実践できないことを経験するチャンスであるということに気がついた」

など、多岐にわたる有益な情報やコロナ禍における提案などが、目白押し。

 

しかもこれだけ引用しても、全体の半分に届いていない。

この先、ますます刺激と発見に満ちた言説が繰り広げられるのだが

そのあたりは、ぜひ実際に手に取り、自らの目と頭で確かめていただこう。

 

ーーと書いたそばから、特に強い共感を抱いた数節を挙げずにはいられなかったり。

人間にとって最終的に頼りになるのは、自分自身以外にありません。自分の人生に対する「答え」を出せるのも、その本人でしかありません。だからこそ自らを見据え、鍛え、「頼りがいのある自分」を私たちはつくっていかなければならない。 〔122p〕

パンデミックの先がどんな世界につながるかは、私たちの意識次第です。しかし今のこの時期は成虫になる前の準備段階であり、14世紀イタリアのルネサンスや戦後の日本のように文化が開花するための熟成期間にだってなり得るのです。          耳の痛いことを避けず、面倒なことからも目を逸らさず、この時間をいかに過ごすかによって未来は変わってくる。一人ひとりがルネサンスを起こせるかの岐路に、今、私たちは立っているのかもしれません。                〔139-140p〕

人間は失敗や挫折、屈辱から得られた苦々しい感情も経験しなければ、成熟しない生き物だと思うのです。それなのに現代の日本では、そうした感情の動きを「世間体」という実態のない戒律で規制してしまっている。それこそ極端な社会主義や、宗教的な快津のなかで生きる人のごとく、「失敗」を規制されている。      〔203-204p〕

 

・・ヤバイ。共感しすぎて、引用する手が止まらない。

ここらへんで、本を閉じることにしよう。

とにかく、自分の頭で考え、自分の責任で"答えを探す"人にとって本書は

強い感情〔共感?怒り?嫌悪?〕を掻き立てる"触媒"になることは、間違いない。

 

余談になるけど、最後にあとひとつ。

常々、俺のことを「疑いすぎる」と非難する相方も

どういうわけか、ヤマザキマリの著書なら愛読してるんだよなー。

いったいどこが違うってんだろう?

口調か? 口調が悪いのか!?

 

ではでは、またね。