コンプレックスとプレッシャーこそ”創造の源”・・なんだけどね 『若冲』澤田瞳子 周回遅れの文庫Rock

トップクリエイターたちが、よく口にする言葉がある。

「自分のコンプレックス(=心の痛み)こそ、創造への原動力だった」。

 

ふとっている、痩せすぎ、背が低い、高すぎる、髪が薄い……

実際に他人がどう自分を見ているのか、なんて関係ない。

本人が、それに対して強い引け目や弱点だと思い込んでいる限り

コンプレックス(=心の痛み)は頑として実在し

絶え間なく彼(彼女)をさいなみ続ける。

そして、〈自分自身にかけた呪い〉ともいえる

この内へ内へと向かうクレッシェンドなプレッシャーは

いつしか、膨大にして巨大なパワーへと成長。

ついに臨界点を超え、何らかの形で〈放出〉されることとなる。

そのひとつの結果こそ、芸術作品などの創造物だ、と私は考えている。

 

今回、『若冲』を読み終え

なによりも強く残った想いもまた

――やっぱ”創造の源”は、コンプレックスとプレッシャーだよな。

という、数多い痛みの記憶に裏打ちされた感慨だった。

 

絵を描くことしか能がない、と思い込んでいる男が

自分を社会に引き戻すべく嫁いできた相手と、正面から向き合うことができず、

〈絵の世界〉へと逃げ続けているうち

先代などに責任を課され続けた彼女は、自ら命を絶ってしまう。

若冲は、こうした経緯を、自らの絵への逃避によるものだと思い定め

いっそう唯一のよりどころである「絵」に没頭することで

伝えきれなかった亡き妻への想いを、目に見えるかたちに現わそうと苦悶する。

しかも自死した妻の弟が、すべてを捨てて

贋作者となって若冲が目指す絵の世界を、どこまでも追いかけてくる。

こうして、常ならば背負うことはなかっただろう

重過ぎるコンプレックス(決して補填できない妻の死)と

全身全霊で追いかけてくる贋作者という強大なプレッシャーのもと

若冲前人未到の《絵の荒野》へ足を踏み出していく。

 

常々、古典的な物理科学と同様

私たち人間の心理のにも「力学(りきがく)」に該当する

一連の法則が存在している、と固く信じている。

それも慣性の法則や作用反作用の法則など教科書で習う項目に留まらず

「気が強い・弱い」「気が大きい・小さい」といったことわざレベルに至るまで

多少のアレンジさえすれば、見事に当てはまるのである。

そういう意味では、今回取り上げるコンプレックスも

心理的には強大な圧力を加え続けることであり

当然、これに対する何らかの〈反作用〉が生まれてこなければおかしい。

若冲が「創作に注ぎ込むパワー」もまた

こうした〈反作用〉の現われだと解釈する次第である。

 

もちろん、底なしのコンプレックスを抱え

強大なプレッシャーに押しつぶされそうになったからといって

ふたつの条件を満たした心のうちに膨れ上がったパワーが

すべて創造に昇華される、はずもない。

それどころか、ギャンブル、暴力、さらには犯罪へと

暴発に暴発を重ねてしまうケースの方が圧倒的に多いはずだ。

若冲のような、またあまたの成功者たちは

――もちろん本人の意志と努力のたまものでもあるが――

たまたま〈パワーが“いい方向へ”弾けた〉だけに過ぎないのである。

 

二百数十年後の現在

世界中から寄せられる絶大な賞賛を知っているだけに

絵にすべてを注いだ若冲の人生は成就された、と思いがちだが

小説『若冲』で描かれた彼の足取りを改めるまでもなく

創作の過程で掴み取る一瞬の充実感のほか

実人生における彼は、常に孤独のみを共に黙々と歩み続け

その命が尽きる最後の最後まで、絵という名の業から解放されることはない。

 

そういう意味では、若冲はもとより、

写楽西鶴ゴッホ、ルソー、太宰らは言うに及ばず

モネやピカソなど存命中に巨匠の座を獲得しえた〈天才〉たちもまた

必ずしも私たち凡人より恵まれ充実した人生を満喫し得たとは

言いきれないのではないか。

 

――しょせん、人生は自己満足だ。

そう言い切ってしまうことは、決して乱暴ではない。

だとすれば、最後に、それで本当によかったのか? を決めるのは

本人以外の何者でもないのだから。

 

ではでは、またね。