別格。 『3月のライオン①~⑯』『おさらい読本初級・中級』羽海野チカ 周回遅れのマンガRock

まだ、16巻を読み終えていない。

というか、あっさり読み終わらぬよう

一話が完結するたび、いったん本を閉じ、別のことを始める。

そうやって昨日から、作品世界にしがみついている。

 

続刊を入手するたび、改めて第1巻から読み直す。

なので5巻以下は、最低でも10回以上の再読となる。

それでも、ページを開くたびに胸が熱くなり

いつのまにか、登場人物ひとりひとりと一緒に歩きながら

怒り、笑い、悲しみ、悩むことを繰り返してしまう。

 

そうやって、いつも痛感させられる。

両手の指に収まる「超お気に入りマンガ」(連載中)のなかでも

これが、文句なしのナンバーワン。

俗に言う、「無人島に持って行きたい一冊」なのだと。

 

おねいちゃん へんなんだ

前は 会わない日とか いっぱいあっても

ぜんぜん 平気だったのに

へんなの‥‥ 何で?

「心が通じた」って思ったら 今度は

「会えないとさみしい」って 思い始めたの

おねいちゃん どうしよう。

――すごいっ

これは 一大事だよ!!             (16巻Capter173 102-3ページ)

 

将棋のプロを目指したことは、ない。

せいぜい、コマの動かし方を覚えている程度のド素人だ。

若くして親兄弟と死に分かれた経験もなく

ましてや美人三姉妹とお近づきになれるチャンスにも、巡り逢えなかった。

いっこも取っ掛かりのない「世界」のお話なのに

なぜこんなにも強く、熱く、重く、激しく、魂が共鳴するのだろうか。

 

ヒントは、『おさらい読本・中級版』末尾に掲載された

スペシャルインタビュー」のなかにあった。

羽海野 割と悩みをすぐ描く人もいますが、私は経過観察が必要なので、10年くらい経ってから描かないと、直情しか入んなくなっちゃって。それはそれでいいんですけれども、私は自分の作品は割と長く読んでもらって、孫に聞かせるようなものと思っているんです。〈中略〉

羽海野 考えなくなるんじゃなくて、考え続けてます。ずーっと考えてます。毎日考えて、いじめのことも何十年も考えていて。〈中略〉

羽海野 今やっと描こう、みたいな。そうだ!どうしたらいいかが分かってからでないと描けないんだ。無責任になっちゃうから、自分のだけだと単一方法になっちゃうから、友達のケース、それが親だったケースとかも合わせて。    (165-6ページ)

 

とことん考え続け、悩み続けた末に

やっとのことで掘り当てた「エウレカ(これだ)!」を

ひとコマひとコマのなかに、刻み込んでいく。

だからこそ、何回読んでも新鮮な

文字通り『孫に聞かせるような』作品に成りえたのだろう。

 

そんなわけで、どの巻の、どのページを開いても

"うわーっ"と自家赤面してしまう言葉に、ぶち当たってしまうのだ。

田中さん あづにゃん大丈夫ですかね?

ヤケおこして どっかに行っちゃったりしませんかね

 それは大丈夫

 自分の弱さから 目をそらすヤツがするのが ウサ晴らし

 弱さを見つめる人間がうるのが 立て直し

 彼はきっと 走って帰って勉強するよ  (15巻 Chapter160  90-91ページ)

 

いま願うことは、ひとつ。

どうか本作が、無事完結しますように・・。

 

過酷な入院&闘病生活(「あとがき」で初めて知った)に加え

最愛のパートナー・ぶんちゃん、戦友・三浦健太郎氏。

相次ぐ別れのたびに傷つく心を想像しつつ。

それでも、わがままで自分勝手な読者(俺だ)は

3月のライオン』をラストまで読ませてほしい!!

と、切望してしまうのだ。

 

いつだって人生は、"別れ"で幕を閉じる。

本日もまた、瀬戸内寂聴さんの死を知った。

享年99。

 

40年以上前の、初夏の午後。

まだ結婚して間もない頃だった、と思う。

相方とふたり、京都の寂庵を訪ね

在宅中だった寂聴さんと、話す機会を得た。

ズケズケため口を叩くバカガキを前に、終始笑顔で接し

相方と一緒の記念写真にまで応じてくださった。

そのときの記憶は、今も心の底に温かく残されている。

 

残念ながら、直接お会いすることは叶わなかったが

ハチミツとクローバー』以来

羽海野さんとも、同じ時をいっしょに歩んできた気がしてならない。

だから――どうか、お元気で。

ついでに、遅くなっても構わないので、なにとぞ続刊を!

 

ではでは、またね。

愛読してるよ、モンゴル高橋。 『不明解日本語辞典』高橋秀実 周回遅れの文庫Rock

流行語はウイルスに似ている。

と私は思った。「リスク」も「バブル」も、殻と遺伝子しか持たないウイルスのように語感が軽い。軽さゆえに日常会話に吸着して侵入し、内部で自己複製をして増殖する。気づかぬうちに身体を乗っ取られてしまうのである。(132ページ【リスク】より)

 

40年近くも昔に昔に遡るが

テレビ番組制作会社に勤めていた頃の高橋氏と

一緒に仕事をしていた時期がある。

彼は新米AD(アシスタントディレクター)、こちらは構成作家という立場だった。

当時の職場における呼び名は「モンゴル高橋」。

表紙裏の著者紹介欄のとおり、東京外大モンゴル語学科卒業から付いたものだ。

仕事上の立場と年齢差(こちらが上)ということもあり

遠慮なく「モンゴル」と呼ばせてもらっていた。

 

何冊も出版されている著作を読めば分かるだろうが

すでに当時(20代前半)から、どころ老成した雰囲気を漂わせており

常に当たりが柔らかく、いついかなる時でも笑顔を浮かべていたという記憶がある。

また、何かこちらから尋ねたり話しかけたりすると

決まっていったん「うーん、そうですねー」「えーと」などの間投詞を発し

一拍二拍のタメを作ってから、相手を刺激しない言葉を発していた。

きっと今お会いしても、その印象は変わらないのだろう。

 

ま、自己満足でしかない思い出話はこのくらいにして。

『不明解国語辞典』についても、少しぐらい書かないといけないな。

 

自身の祖先とルーツをたどる旅をメインに据えた『ご先祖様はどちら様』。

大人になって初めてスイミングに挑んだ経験を綴った『はい、泳げません』。

様々な社会の現場?を回りつつ、日本の奇妙な政治に迫る『からくり民主主義』など。

彼の著書には、本人が直接体験したあれこれを本にまとめたパターンが多いが

本書のテーマは、いま少し抽象的なジャンルを取り上げている。

日常生活のなかで我々が何気なく使っている「慣用句」にスポットを当て

ひとつひとつの言葉の《根源的な意味》に、迫ってみた

(「迫る」、ではなく、あくまで「迫ってみた」というのがミソ)一冊だ。

 

たとえば、最初の【あ】――あ、どうも は、次のように始まる。

「あ、高橋秀実です」

電話をかけて相手が留守番電話だった場合、私は必ずそう吹き込んでしまう。名乗る前につい「あ」と声を出してしまうのである。            (22ページ)

 

いつも通り自身の体験や言動を随所に絡めつつ、「あ」に関する考察は動き出す。

 

「あ」は呼ばれて応える時の返事だという。人に呼ばれて「あっ」とか「あー」などと言っているうちに、それがまず「吾(あ)」、つまり一人称になり、やがて「れ」が付いて「あれ」という二人称や三人称に転用されたというのである。

本当だろうか。                         (27ページ)

 

いったんは、専門的な立場から迫ってみるものの

返す刀で、「本当だろうか」と自身の気持ちに揺り戻してしまう。

この、〈思索〉と〈感覚〉の"いったりきたり"が、著者の得意技のひとつだ。

かと思うと

 

女性たちの間でもこんな挨拶もよく耳にする。

「あらー」

「あらー」

呼ばれてもいないのに「あらー」。「あらー」と呼ばれて「あらー」。オウム返しを繰り返して、どっちが呼びかけたのかわからなくしているのではないだろうか。この「あら」は「ああ」「あな」「あよ」と並んで「あ」から派生した感動詞らしく、富山県では道で人に会うとこう言ったりする。

「あれー」                           (29ページ)

 

著者の作品には、しばしば伴侶が登場するが

(そこで彼は恐妻家として様々な体験を披露している)

ここでも、女性の言動(習性)に感心を向けたかと思うと

そのまま言語学的分析へと、振り戻してゆく。

 

ちなみに本論とは関係ないが、富山の「あれー」は事実である。

富山出身である相方の実家を訪ねると、玄関に出てきた義母(80代後半)は

必ず「あれー、ようこられた~」と笑顔で迎えてくれる。

コロナのせいで二年近く会っていないので、すごく懐かしい。

 

それはともかく、「あ」に関して10ページほど費やした考察は

次のように、着地している。

おそらく「あ」は日本人のコミュニケーションの原型なのである。呼ばれてもいないのにいきなり「あ」と返事をする。「あ」にたいして「あ」で返す。実際、誰かが「あ!」と叫べば、「何?」「どうした?」と訊きたくなるわけで、お互いに「あ」「あ」と言い合って、何が「あ」なのかと言葉を引き出そうとしいるのだ。(30P)

 

こんな調子で、以後も「いま」「うそ」「えー」という断片的な言葉から

「意見」「リスク」「社会」「普通」などの無意識に使っている抽象的な用語

ひと言で意味を説明できない「スッキリ」「こころ」「しあわせ」「バカ」まで

縦横無尽に『日本の言葉』を切り刻んでは、再構成してゆく。

・・というほど、きっちり結論付けたものは、そんなに多くないんだけどね。

 

それでも、一般読者には近づき難い「社会言語学?」という岸壁に向かい

自身の体験を楔のように打ち込むことで、揺るぎない足掛かりを確立し

〈日本人と言葉のありかた〉を一望する頂へと導く著者の手腕は、半端ではない。

 

もしかして私たちは謝罪したくないのだろうか。「申し訳ありません」というのも申し訳(弁解)ができないと言っているだけで、謝罪というよりあらかじめ釈明を避けている。謝罪といえば「おわび」が定番だが、考えてみればこれもかなり不思議な言葉。「おわび」とはもともと「侘び」で「侘び寂び」の「侘び」なのである。〈中略〉

要するに、謝罪ではなく困惑。「本当に困りました」としょぼくれてみせることなのである。                 (262-3ページ【すみません】より)

 

おそらく、再び言葉を交わすことはないと思うが

今後も、彼の著作を見つければ入手し

興味とローテーションの赴くまま、ページを開くことになるだろう。

なぜならば、文中で「あ、高橋です」と書かれた文字を目にするたびに

「モンゴル高橋(20代前半)」の、歳の割に落ち着いた

そのくせ低くはない声が、頭の中で蘇るのだから。

 

ではでは、またね。

"宙ぶらりん"でいいんだよ 『まほろ駅前多田便利軒』『まほろ駅前番外地』『まほろ駅前狂騒曲』三浦しをん 周回遅れの文庫Rock

「人間の本質って、たいがい第一印象どおりものでしょう。親しくなったら、そのぶん相手をよく知ることができる、というわけでもない。ひとは、言葉や態度でいくらでも自分を装う生き物だからね」

ずいぶんさびしい意見だ、と多田は思った。      (『多田便利軒』48ページ)

 

東京郊外のまほろ(町田)市で便利屋を営む多田啓介(30代バツイチ)と

彼の元に転がり込んだ高校時代の同級生・行天春彦(同学年バツイチ?)が織りなす

便利屋稼業の日々と、仕事先で出逢う人々との関わりを通じて

二人の秘められた過去が少しずつ明かされ、"止まっていた時間"が動き出してゆく。

簡単にまとめると、そんな雰囲気で展開してゆく物語だ。

 

とはいえ、そこは〈クセモノ作家〉三浦しをん

ありがちな「青春・友情・成長ストーリー」のパターンになど、陥るものか。

仕事の増加とともに人間関係も広がり

途切れていた関りが芋づる式にたぐりよせられるつれ

多田の離婚した原因(息子の死)や

行天の過去(レズカップルの片方に精子を提供した)などが明らかになるものの

だからといって、"絡まった糸"がすんなり解きほぐされるわけもない。

まるでふたりが暮らす「まほろ市=東京都町田市」のように

どこにも着地することなく、プカプカ浮遊するばかりだ。

 

まほろ市民はどっちつかずだ。

まほろ市は東京の南西部に、神奈川へ突き出すような形で存在する。東京の区部から遊びにきた友人は、まほろ市に都知事選のポスターが貼ってあるのを見て、「まほろって東京だったのか!」と驚く。地方に住む祖母は、何度言い聞かせても、「神奈川県まほろ市中町一丁目23 多田啓介様」という宛名で手紙を送っている。(同 60ページ)

 

上記の〈どっちつかず感〉は、うたた(俺だ)自身が東京都青葉区としばしば呼ばれる

田園都市線沿線エリアに長年暮らしているだけに、身に染みて実感できる。

しかも普通、こうした"認識のズレ"はマイナス要因と受け取られるものだが

東京都(横浜市青葉区も(川崎市)宮前区も、隣接するまほろ(町田)市と同様

むしろ、この〈どっちつかず感〉を好ましく受け止めている・・ような気がするのだ。

 

同じように、本作の主役である多田啓介と行天春彦も

己の最奥にカギをかけて封印した〈苦悩〉や〈迷い〉の根本的な解決を

心底からは願っていないように思えてならない。

少なくとも、組織の一員となることに何ら価値を見出せなかったうたた(俺だ)は、

決して心から"分かり合う"ことがないだろう彼らの"宙ぶらりん"な関係に

・・うんうん、人間って、そんな簡単に理解し合えるわけないよね!

と、強い賛同の念を抱くのだった。

 

作者お得意の「コミカルな会話」や「チグハグな行動」のおかげで

数ページに一回はクスリと笑わされる、そのいっぽうで。

ときおり、遥か上空からすべてを見つめている〈醒めた視線〉が

雲の切れ間から降り注ぐ"天使のハシゴ"のような

容赦ないスポットライトを浴びせ、その〈本質〉を暴き出す。

ダイヤモンドの大きさや、婚約者のお披露目や、職場での過剰な気づかいや意地の張り合い。由香里の語ったすべてに、多田はたじろいでいた。それらが愛とはべつの次元にあると思えるからではなく、愛の本質を突いていると思えるからだった。

金額や周囲の評価やプライド以外に、愛を計る基準があるだろうか。殉教者ですら、天秤の自分の命を載せて愛の重さを知らしめてみせる。

最適な秤を見いだせていれば、多田の結婚生活ももう少しましな結末を迎えていたかもしれない。

しかし、計ってもむなしいとも思えるのだった。どんなに堅実に計画し、実行に移したとしても、一瞬ですべてが崩れることはある。計量器の針は測定不能値を指し、星が消滅するときに似て、莫大なエネルギーが暗い空間に吸い込まれていってしまう。

                           〈『番外地』29ページ)

「宮本さんの話から受けた印象と、どうもちがうと思わないか。武内さんは気が利くし、そんなにひどい性格じゃなさそうだぞ」

「俺はたまに、あんたはほんとのアホなんじゃないかなと思う」

と、行天は淡々と言った。「気が利くってのは、裏返せば外面がいいってことだ。この部屋を見ればわかるでしょ。それに、本当の悪人なんてめったにいない。だれだって愛されたいからね」                   (『番外地』34ページ)

 

もちろん、こうしたドライな視点とバランスを取るように

ウエットな表現もまた、随所に顔を覗かせている。

年を取ると堪え性がなくなると言うが、本当だ。怒りや不安は場面に応じてまだ抑えられることができる。けれど、愛おしいと思う心だけはあふれでてしまう。互いしかしない老後のさびしさがそうさせるのか、ひとの心を構成する本質が愛情なのかは定かではないが。                    (『番外地』173-4ページ)

 

ま、この〈秀逸なバランス感覚〉こそ、"宙ぶらりんの強み"でもあるのだが。

 

そんなわけで、最終巻『まほろ駅前狂騒曲』に至っても

物語は――大多数の読者が抱くだろう期待などどこ吹く風とばかり――

大団円どころか、着地体制すら見せぬまま

ドライとウエットを噴出しては、さほど高くない空中をふわふわ漂い続ける。

 

「大事なのはさ、正気でいるってことだ。おかしいと思ったら引きずられず、期待しすぎず、常に自分の正気を疑うってことだ」

「自分の正気を?」

「そう。正しいと感じることをする。でも、正しいと感じる自分が本当に正しいのか疑う」                      (『狂騒曲』382-3ページ)

 

相手の求めるものがなんなのか、想像し、聞き、知り、応えようとすること。「ふつうに愛する」とは、そういうことではないか。      (『狂騒曲』383ページ)

 

一度味わった感情や経験を消すことはできない。抱えて生きるだけだ。行天はそれを淡々と実践しているし、淡々とした実践の軌跡に満足しているのではないかと、多田には思えた。どれほどの努力と苦しみを要する実践であるか、吹聴するのは行天のよしとするところではないだろう。             (『狂騒曲』444ページ)

 

物語のエピソードをなぞってみれば

多田は新しい恋人を得て、終始後ろ向きだった気持ちを見直しはじめた。

いっぽう行天は、遺伝子上の娘と暮らすうちに

長らく封印していた"己の過去"と向き合うきっかけ?を掴んだ・・のだろうか。

周囲の人々との関りが深まった分、親密になったように錯覚するけれど

ふたりの(心の)距離が、大きく狭まったとは思えない。

いや。

心さえ通い合えば万事OK! って、ことじゃないだろ。

安易に踏み込んで、もたれ合う関係(=運命共同体)に陥らないからこそ

ひとりひとりが、"己の意志"で生きていけるのだ。

 

うーーーん。

ライトな小説のふわふわした終わり方をどうやって消化すればいいのか

あれこれ思い巡らせるうちに

三浦しをんの作品に通底する《ドライとウェットの並立》に触れたくなって

ずるずる話がややこしいほうへと、流れてしまったよ。

だって、どう考えても「みんな笑顔でめでたいめでたし」なんて薄っぺらい言葉で

終わらせられる作品じゃないだろう。

もちろん、心に傷を抱えるふたりの元少年が再生・成長していく物語

なんてプレーン&ソフトに紹介しようと、何も問題ないんだけど。

一皮めくって飛び込んでみると、意外に深いところまで潜れてしまう作品だ。

ってことにも気づいてほしいのだ。

 

少なくとも、うたた(俺だ)にとって、この三部作は

ドライとウェットの二律背反(アンビバレント)にシビレつつ

どこまでもいつまでも低空を漂い続ける"宙ぶらりん感覚"を満喫できた

ある意味、〈生きる哀しみ〉に彩られたストーリーだった。

 

すくなくとも。『狂騒曲』末尾の解説の

何となく背筋が伸びて、やみくもに、良く生きよう、と思うのだ。(521ページ)

などという前向きな思いは、ひとつも湧いてこないのだ。

ーー単なる、ひねくれ者の世迷言なんだけどね。

 

ではでは、またね。

「たわわちゃん」と「名店餃子」で締めくくる 京都ふたり旅 2021.10.4-7 3日目(その5) 京都タワー/京都市内

2021年10月6日(水) 近江八幡⇒京都駅(京都タワー

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              生まれて初めて、この塔に登る

 

予定通り、17時42分に夕闇迫る京都駅へと到着。

そのまま地下街を通って、京都タワーのあるビルを目指した。

実はこの道、昨夜も通ったルート。

ガイド本の営業時間(900~2100)を鵜呑みにし、20時前に訪れたら

閉まったエレベーター扉と、「本日の営業は終了しました」が。

新型コロナのため19時閉館(入場は1830まで)に短縮中だったのだ。

 

てなわけで、今回は"2度目の正直"。

余裕をもって17時台にサービスカウンターに到着。

ツアーの特典に付いていた「ずらし旅」のQRコードを読み取り

無料入場券(800円分)+お買物券1000円分をゲットした。

 

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           建物内で見たタワー型イルミネーション?

 

それにしても、のぞみ往復+駅前ホテル3泊セットだった

今回のツアー料金は、一人当たりギリギリ2万円以上。

そこから、この「ずらし旅」料金を差し引くと、1万円台になってしまう。

単純にのぞみ号で往復するだけでも、2万円を大きく上回る。

大人ふたりが首都圏から3泊4日の京都旅行を楽しんだというのに

総計4万円に届かないとは、とんでもない投げ売り状態だ。

不謹慎だとは重々意識しているものの

国内外を問わず〈安価な旅〉を続けてきた我ら"うたた'S"などは

思わず「コロナさんありがとう」と口走ってしまいそうだ。

 

なにはともあれ、エレベーターに乗り込み地表131mの展望台へ一直線。

予想していたより、広々としているガラス張りの展望室にやってきた。

時刻はちょうど午後6時あたり。

すでに太陽は没しており、感覚としては"夜の始まり"といったところだろうか。

昼の名残は、赤く染まる西(西南西)の大阪市街上空のみ。

 

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       陽が沈んだ方角だから、たぶん大阪方面・・だと思う

 

かつてこの塔は、「日本三大醜悪巨大建築物」のひとつとして有名だった。

(ほかの2つが何だったかは、すでに覚えていない)

その道の(どの道だ?)の人が言うには、別名『キツネのチンポ』。

確かに、犬のペニスにも似ているので、その形状を揶揄したものだろう。

日本を代表する歴史的建造物がひしめく「1000年の都」のターミナル正面に

こんな、なまっちろいコンクリのチンポコなんぞおったてやがって。

我々の美意識の欠如を全世界にさらけだす、暴挙だ!

・・ということらしい。

 

しかし、"時の力"は偉大なり。

気がつけば、誰もそんなケチをつける人はいなくなり

永遠のびっくり顔を浮かべた、ゆるキャラの「たわわちゃん」が

展望台のあちこちで、愛嬌を振りまいている。

(最上階には「たわわちゃん神社」まで設置されていた)

それもそうか。

完成シたのは、今から60年以上も昔の1964年。

(前回の東京オリンピックと同じ年だ)

はや還暦を過ぎ、歴史的建造物になりかけているベテラン・タワーなのだ。

 

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        看板娘の「たわわちゃん」。なかなか可愛い。

 

ま、自己満足にしかならないウンチク話はさておいて。

生まれて初めて登った京都タワーの印象は・・

なかなかのものだった。

少なくとも、駅ビル最上階に設けられた「札幌タワー」よりは、ずっと良かった。

京都ならではの碁盤の目状の街並みは、充分堪能できたしね。

ただ10月上旬だったので、紅葉とセットのライトアップは、スタート前。

安易に期待してた「スポットに照らされた京都の寺社」は、ほぼ暗闇に沈んでいた。

駅近にある東寺の五重の塔こそバッチ見えたが

あとは辛うじて、清水寺の舞台が確認できたぐらいか。

 

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      東寺のシンボル・五重の塔。実は明日の見学予定地。

 

なんとなく、「展望台=夜景」という"常識が"刷り込まれているけど

少なくとも京都に関しては

ライトアップが期待できる「桜」と「紅葉」の時期以外は

金閣銀閣はじめ綺羅星の如き国宝が覇を競う、昼日中の利用をオススメする。

 

ともあれ、備え付けの無料望遠鏡であちこちを覗き見ながら

リング状の展望室を2周ほど歩き回り

なかなかだったね・・など相方と言葉を交わしつつ

地上1・2階のショップエリアへと移動。

商品券(2000円分)でおみやげ品を購入し

さらに地下一階のフードコートへ。

京都を代表する餃子の店「高辻亮昌」京都タワー店で

餃子&ビールのセットなど、あれこれつまみぐい。

舌もお腹もすっかり満足して、歩いて数分。駅の反対側に建つホテルへ帰宅した。

 

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    『高辻』のキッチンカウンター。コロナで客は少ないけど、負けるな!

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    餃子とビールのセットをペロリ。次回はウワサの「歩兵本店」だ。

 

ちなみに、水(ミネラルウォーター)を求めて京都駅内を歩き回ったが

コンビニですら2ℓ入りに220~40円の値札がついていた。

初日の夜、スーパーで同じものを95円で買ったので

露骨に足元を見られている気分がして、いったん断念する。

別に外国じゃないんだし、喉が渇いたら水道の水を飲めばいいや。

だが、小腹が空いた時のためにと立ち寄ったホテル裏手のコンビニで

たまたま1本98円のセール品を発見。

水問題は、すんなり解決した。

ミネラルウォーターなどの必需品は、エキナカでなく周辺のコンビニで探せ!

 

長いようで短かった京都(近江)の旅も、残すところあと半日。

いつものように、初日より2日目、2日目より3日目と

幾何級数的に速度を上げる時の流れをひしひし実感しつつ

京都を出発する16時30分までの計画を、じっくり練るのだった。

 

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ではでは、またね。

 

商売上手が作った「別世界」 京都ふたり旅 2021.10.4-7 3日目(その4) 北之庄ラ・コリーナ/近江八幡

2021年10月6日(水) 近江八幡&近郊(北之庄ラ・コリーナ

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         本館の屋根。わざわざ草を植えている。

 

日牟禮八幡宮を出て大鳥居を潜り、大杉町の停留所まで戻ったところで

折よく、長命寺行きのバスがやってきた。

これ幸いと乗り込み、4つ先のバス停「北ノ庄ラ・コリーナ前」で

今度こそ、下車する。

道路からは見えないように生垣で囲まれたアプローチを進み

入口へ向かって歩くその間にも、ひっきりなしに車が出入りしていく。

自家用車でこの道を通る観光客の半分ほどは、立ち寄っているんじゃないだろうか。

ともあれ、背丈よりも高い壁のような生垣を通り抜けると・・。

 

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      見事に演出された"異世界"ぶり。確かに一見の価値はある。

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      逆サイドからも、一枚。凸凹地面の"演出"が憎い。

 

・・・突然、目の前に〈異世界〉が広がる。

まったく整地されていない(ように作った)凸凹の草原(っぽい前庭)に

獣道のように不規則にくねった通路が、3筋、4筋。

円周からその中心に向かって収束するかたちで

前庭の向こうにうずくまる、平べったい三角屋根の建物へと続いている。

その建物は、壁はもちろん、屋根の上に至るまで、緑の草だらけ。

どこぞの古い洋館のように"蔦を這わせる"レベルではない。

建物全体が、完全に、すっぽりと、緑の草に覆われているのだ。

あたかも、放棄されて何世紀も過ぎた廃墟のように。

――なるほど、こりゃあ『ラピュタ』だよな。

 

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    普通の行列風景より、ズラした貼り紙の"演出感"に目が行ってしまった

 

だが、緑の塊に押しつぶされそうな狭い戸口をくぐって、建物に入ると。

そこは、バターとクリームの匂いがいっぱいに漂う、洋菓子屋さん。

(厳選された)スイーツを販売する

いわば洋菓子&軽食のセレクトショップなのだった。

しかも、建物のいたるところ、人、人、人の姿でいっぱい。

いったいどこにこれほどの観光客がいたのか、と思うほどの賑わいだ。

とりわけ入ってすぐ右手のエリアに、30人ほどの長い行列ができていた。

何事!? と驚き、大書されたキャッチコピーを読むと

「なにかのコンクールで賞をとったバウムクーヘン」なのだとか。

みなさん、これが最大の目当てらしく、出口へ向かう半数以上の手に

バウムクーヘンの店名が記された袋があった。

 

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                 中庭を囲むように建つ姿には、ガウディっぽさも。

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          どこか飛行船を思わせる左の建物は「オフィス」。

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      これも近江八幡の伝統行事? 田んぼで働く(っポイ)人々

 

まさか、これら洋菓子を売るためだけに

ここまで手の込んだ建物を作ったってのか? 

半ば呆れつつも、入口の建物を抜け、円形にしつらえられた中庭に出る。

すると、そこもまた手作り感満点の草地・・ではなく

今度はなんと、あぜ道の内側に田んぼがこしらえられており

幾人かの若者が、農作業(っぽいこと)に勤しんでいた。

どう考えても、ここで育てた麦でスイーツを作っているとは思えないので

(田畠の面積は狭く、実際に栽培したとしても規模が小さすぎる)

おそらく、"里山の風景"を演出しているのだろう。

いったいなんのために?

――もちろん、客寄せのためだ。

 

さほど広くない中庭(自然っぽい)を囲むように

やはりアプローチの「ラピュタ」同様

"緑の廃墟"を連想させる、ガウディ風の曲線をつけた低い建物が

何棟か連なっている。

そのどれもが、スイーツや軽食、飲み物などを提供する売店やカフェだ。

やはり、この大袈裟な舞台設定を取っ払ってしまえば

どこをどう見ても、単なる〈スイーツ店の集合体〉にすぎない。

けれども、それを〈異世界(しかもラピュタ的)〉というラップで包むことで

インスタ映え」する、絶好の"観光スポット"へと生まれ変わらせたのだ。

 

ま、早い話。

ネズミーランド化に成功したスイーツ店』ってことだね。

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       こういう乗り物ショップも、「ランド」っぽいよね

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            こちらは、高級ハチミツショップ。

 

実際、至る所に可愛い形の岩山や穴居、小屋など、

子供が(大人も)喜んで遊べるようなスポットが用意してあり

誰もが退屈せず、思い思いに楽しめるよう、工夫が凝らされている。

いっぽう、トイレなど〈生活臭のある施設〉は、外から簡単に分からぬよう

奥まった通路の隅っこに設置されている。

これって、もう完全にテーマパークの手法だよな。

実際、入場者の大半は若いカップルや家族連れ、中高年女子グループだったが

それぞれお気に入りのスポットで、スマホを構え撮影やらインスタに勤しんでいた。

 

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           手頃なお値段で軽食&ドリンクも提供

 

敢えて周囲と隔絶した「別世界(異世界)」という「化粧箱」をこしらえ

その〈映え効果〉でネット世代の注目をゲット。

異世界」見たさでやって来た人々に、「受賞作」の高級バウムクーヘンを筆頭に

しっかりセレクトした、"ちょっと高いけど味は確かな"スイーツを

さまざまな仕掛けを凝らしたショップエリアで提供する。

お店だけでなく〈遊び場的要素〉も満たしたスポットだから

小さな子供も、大きな子供も、それぞれ退屈せずに過ごすことができる。

誰が仕掛けたのかは知らないが、ホントに商売上手だ。

 

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                                                うーん・・・もういいかな。

 

だけど、ひとつだけ

のどに刺さった魚の小骨のように、どうにも"ひっかかる"ことがあった。

この日の朝、近江八幡にやってきて

地元の観光協会が作った観光マップやパンフレットを入手。

事前に購入しておいたガイドブックも参考にして

"近郊の面白そうなスポット"を再確認したんだけれど・・

 

間違いなく、一番数多くの観光客が訪れている「ラ・コリーナ」を紹介する

写真どころか、一行の文章も見つけることができなかったのだ。

(観光マップにも停留所名と●ラ・コリーナという施設名が載るのみ)

おそらく「ラ・コリーナ側」も、宣伝してほしいと申し出なかったのだろう。

それにしても、この地元との乖離(断絶)ぶりは、尋常ではない。

 

ただ、容易に想像はつく。

この店が、地元・近江八幡の観光資源として、まったく役に立ってないことは。

ごく少数のバス利用者を除いて、少なくとも割は自家用車(レンタカー)で訪れる。

近江八幡観光」ではなく、あくまでも「ラ・コリーナ」が目的だ。

だから、スポット訪問(バウムクーヘン購入)を済ませれば

他にはどこにも立ち寄らず、遠く離れた町(京都とか大阪とか)へ去っていく。

なにしろ、「ラ・コリーナ」は、近江八幡の歴史とも伝統とも

ひとっつもリンクしていない《そこだけで完結した異世界》なのだから。

 

念のため、ホームページをチラ見してみたら

近江八幡の伝統文化」を紹介する行事とかも開催してるっぽいけど

この"滲み出てくる圧倒的な距離感"を前にすると

地元に溶け込んでいるとは、どうしても思えないんだよね。

いっそのこと、千葉県幕張駅前とか、USJの隣とかにあったほうが

両者にとって"幸せ"なんじゃないかな。

そんなふうに、ハムスターの回し車のように

見当違いの考察をぐるぐる巡らせていたのだった。

 

なんか不平不満ばかり並べちゃったけど。

売店(キッチンカー)で買って食べた和風スイーツは、おいしかったよ。

確か、生クリーム入りのどら焼きみたいなクレープ?・・だった。

決して安くはないが、味と品質は確かだと感じた。

だからといって、わざわざラピュタを作ったり里山プレイを見せる必要までは

どー考えても、ないと思うけどね。

ま・・それくらい「映え」は商売に欠かせなくなってきた。

ってことなのだろう。

 

ちなみに、我らふたりの「ラ・コリーナ」滞在時間は

上のスイーツ試食を含めて40分程度。

予定より1本早いバスで近江八幡駅まで戻り

駅前ロータリーにあるマックの100円コーヒーで時間を潰すことに。

 

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    ラ・コリーナ前バス停で一枚。普通の景色に、なんかすごいホッとした。

 

こうして当初の予定通り、17時06分発の快速に乗り

あたりが赤く染まり始めた17時42分、京都駅着。

その足で、駅前にそびえる京都タワーを目指す。

決してお金を払ってまで昇りたいとは思わないところだけど

無料となれば話は別だった。

 

ではでは、またね。

琵琶湖一望の"ロコ名所" 京都ふたり旅 2021.10.4-7 3日目(その3) 近江八幡(八幡山ロープウェー)

2021年10月6日(水) 近江八幡周辺

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            天気よければ、"絶景"も5割増し

 

長命寺港周辺で30分ほどまったり過ごしたあと

行きと同じく貸し切り状態の路線バスで、近江八幡へと向かう。

途中、またもラ・コリーナ前で10名ほどが乗ってくる。

相変わらずの人気ぶりだ。

いっぽう我々は、その4つほど先の停留所「大杉町」で下車。

ここが、八幡山ロープウェーへに一番近いのだとか。

 

そのままバス通りを数十メートル行くと、右手に大きな鳥居が立っていた。

1000年以上の歴史を持つ、日牟禮(ひむれ)八幡宮の入り口だ。

ロープウェーの乗り場は、その先にあるらしい。

平日にも関わらず、何台も車が行き来し、多くの人々が参拝に訪れている。

古くから近江商人の信仰を集めていたとのことだが

今も地元では、暮らしに欠かせない〈お参りスポット〉なのだろう。

 

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                  400年以上前に造られた運河・八幡掘。ここも歩いてみたかった。

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     日牟禮(ひむれ)八幡宮門前通り。風格あるよね(帰路に撮影)

 

歴史を感じさせる、大きく黒ずんだ八幡宮の門を右に見て

ゆるい登り坂をもう少し進むと、めざす八幡山ロープウェーの乗り場があった。

せっかく「お~み満喫パス」を買ったのだから、これに乗らない手はない。

通常ならここの一往復だけで、2000円の半分近くかかるからだ。

要するに"乗らなきゃソン"の〈目玉商品〉、というわけ。

ま、そんな料金のカラクリが透けていたから

「きっと、あまり人気がないから格安料金で提供したのだろう」

ぐらいに軽く考えていたのだけれども・・

 

乗り場(土産店を兼ねた建物)に入ってみると

超満員・・とまではいかないものの、閑古鳥などは鳴いておらず

10人乗り前後のロープウェーは、まずまずの込み具合。

朝九時から17時頃まで、15分に一本のペースで行き来しており

我らが利用した14時前の便にも、2組の男女が同乗していた。

小声で交わす会話を聞いた限り、いずれも他所からの観光客ではないようだった。

頂上にある瑞龍寺へと参拝と、八幡山から一望できる琵琶湖を眺めるため

おそらく年に何度か、この空中散歩を楽しんでいるのだろう。

 

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          ロープウェー、舐めたらいかんぜよ。

 

係の人が扉を閉め、大きく揺れながらゆっくり動き出したロープウェーは

わずか4分で、頂上の終点に到着した。

その間、天気もよかったおかげで、眼下には近江八幡の整然とした街並みが広がり

左手からは、琵琶湖の青々とした水面が、ぐぐっと迫ってくる。

月並みな表現だけど、予想以上の大パノラマだった。

 

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       森の中にお堂(城跡)が点在している雰囲気

 

頂上駅に到着後は、うっそうと樹木が茂る遊歩道を時計回りに一周。

4百数十年前、豊臣秀次(秀吉の甥っ子。秀頼誕生後、疎まれて切腹)が築いた

八幡山城址を巡りつつ、各方面に広がる絶景をじっくり堪能した。

 

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      ここまで昇ると、ようやく琵琶湖の大きさが実感できる

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       反対側に回っても、はるか彼方まで琵琶湖の水面が・・

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           ロコならではの"八幡山リゾート"

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           フライングぎみのモミジ選手を発見

およそ1時間後、再びロープウェーに乗り込み、麓の駅へ帰還。

行きにパスした日牟禮(ひむれ)八幡宮に立ち寄り

由緒ある社殿や絵馬、春の祭りに使われた勇壮な山車(だし)

巨大な神木?など、木々にすっぽり囲まれた境内をそぞろ歩いた。

         

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       ワイルドな年男?イノシシの山車。アマビエも友情参加。

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    境内にそびえる、カッコイイ杉?の大樹。たしか御神木だったような・・

 

さて、ここで時刻は3時すぎ。

実はこの日の夕方、京都タワーに登るつもりだった。

(なんと今回、無料の展望県が付いていた!)

明日の午前中~昼の時間帯にいっても良かったが

どうせなら夜景を見よう、ということになり

夕方6時過ぎには、京都駅まで戻る予定を立てていたのだ。

そのためには、遅くとも17時24分のJR快速に乗る必要がある。

となると・・あと一個所立ち寄るぐらいしか、余裕ないだろう。

 

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     途中で見かけた和洋折衷建築。"街歩き"も楽しそうだったが・・

 

事前に立てた予定通り、近江八幡の街歩きをしてのんびり過ごすか。

ちょっと無理して、信長が建てた安土城址まで足を延ばすか。

それとも長命寺往復バスで多くの人が降りた、「ラ・コリーナ」を訪ねてみるか。

――迷うまでもなかった。

外からの観光客がこぞって訪ねる「ラ・コリーナ」に、行くしかない!

 

ま、ぶっちゃけ事前にググっていたから

どんなところかという情報は掴んでいたんだけどね。

それでも、あそこまで人気のスポットだとは知らなかったので

ドヤドヤ乗り降りする観光客を目の前にするたび

「これはぜひ行ってみなければ!」と、決意を新たにしていたのだ。

 

てなわけで、いよいよ次回は

近江八幡ラピュタ》の異名を持つ、ラ・コリーナへ。

見事なまでの"地元との乖離ぶり"に、ちょっと心を痛めた記録だったりする。

 

ではでは、またね。

"絶景カフェ"でカレーランチ 京都ふたり旅 2021.10.4-7 3日目(その2) 近江八幡🚌長命寺~シャーレ水ヶ浜~長命寺

2012年10月6日(水) 近江八幡長命寺ほか

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         誰の口にも合う、"普通に美味しい"ビーフカレー

 

近江八幡駅前、午前11時すぎ。

朝方の雲は消え、頭上には綺麗な青空が広がっていた。

なので・・確実に天気がいい今のうち八幡山の展望台に上がろうか

それとも、午後からの混雑を見越して早めに「琵琶湖畔ランチ」に向かおうか。

二者択一の間で、迷っていた。

・・が、相方の「お腹空いてきたね」のひとことで、後者に決定。

善は急げと、駅前バスターミナルの「長命寺行き」停留所へ。

時刻表を見れば、わずか数分後に次のバスが出るという。

ラッキーとばかり、間もなくやってきたバスに乗った。

終点の長命寺までは30分以上かかる(40分だったかな)ので

なるべく眺めのよさそうな窓際席を確保する。

 

しかし、その後2~3分の間に、次々と観光客らしき方々が乗り込み

出発時間には10人近くが吊革に立つ、大混雑ぶり。

え? 長命寺って、そんなに人気のある観光地だったの?

・・ンなわけなかった。

案の定、市街地を少し出た田んぼ沿いの停留所で

我々以外の観光客っぽい人(大部分が中高年女性)は、全員下車する。

停留所の名は、「北の庄ラ・コリーナ前」。

なるほど、噂のラ・コリーナはここにあったのか。

実は、我らも余裕があれば立ち寄る有名スポットなのだった。

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    広がる青空。「晴れ男」と「晴れ女」の最強タッグは、今日も絶好調。

 

ま。それについては後ほど触れるとして。

運転手を入れても、全員で5.6名しか乗っていないバスは

長命寺川ぞいの田園風景のなかを快適に飛ばし、琵琶湖のほとりへ

40数分後には、終点・長命寺に到着する。

「高雄」同様、ここでも最後まで乗っていたのは我々だけだった。

 

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        じっくり琵琶湖を眺めたのは、おそらく今回が初めて

 

さて、はるばる長命寺までやってきたのだが

今回の目的地は、ここではなく

さらに琵琶湖添いの道を20分ほど歩いたところのカフェレストラン。

「シャーレ水ヶ浜」だ。

キラキラ光る湖面と対岸に連なる比叡山を左手に眺めながら

ポカポカというより、かなり暑めの日射しの下を、テクテクと歩いてゆく。

幸い、行き交う車の数は少なく、数分に1台程度。

高雄"トラック街道"のような不快感とは無縁の、絶景散策コースだった。

 

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           晴れ渡った湖畔の道を、のんびり歩く

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    「シャーレ水ヶ浜」。ドライブの途中で立ち寄るには最適か。

 

やがて、湖畔に沿った道の先に、木造ロッジ風の建物が見えてくる。

本日のランチスポット、「シャーレ水ヶ浜」だった。

時刻は、正午を少し過ぎたあたり。

広めの駐車スペースには、10台以上の車が停まっている。

予想通り、わざわざ長命寺から歩いてくる酔狂な客は、他にいないようだった。

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            いろいろとウッディな店内

 

木造のデッキから山小屋風の店内へ入ると

これまた木造の広いフロア―。

お約束のように、琵琶湖が目の前にあった。

たしかに、"琵琶湖を一望できる絶景レストラン"だ。

これならインスタ映えもするだろう。

若い家族連れやカップルで、半分以上のテーブルが埋まっていたが

ラッキーにも、湖と対面できるカウンター席が空いていた。

さっそく確保し、セルフの水を取りに行く。

料理を注文してから入店するシステムだったので

後は、オーダーしたビーフカレーセットが来るまで、のんびりすごすだけ。

 

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           こんな写真を撮りたくなる気分

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           帰りぎわ、客が引けたタイミングで一枚

 

ふたり並んで琵琶湖を眺めていると

数年前に訪れたルアンパバーンのカフェを、思い出した。

泥色のメコン川と青い琵琶湖という違いはあるが

水の広がりを目の前にして過ごすひとときは、似かよっていた。

・・でも、肝心の料理は、あっちの方が旨かったかな。

ロケーションこそ抜群だけど、カレー自体は普通の美味しさ。

ま、期待しすぎたこっちにも問題あるかもだが

せめてなにかひとつ、オオッと湧き上がらせる〈攻めの姿勢〉がほしかった。

たとえば、鼻から目へツーンとくる花椒の粉が潜んでいた、とか。

でもま、万人に好まれる味っちゃ味だし。

「絶景カフェ」に、冒険なんか必要ないのだろう。

 

グタグタ文句をタレつつも、ふたり揃ってカレーは完食。

同じくまあまあのアイスコーヒーも飲み干して、店を後にした。

来た道を逆にたどって、再び長命寺のバス停前へ。

今度はタイミングが合わず、100mほど手前で出発するバスを見送ることに。

次のバスまで、また30分ほど暇になった。

 

せっかくここまで来たんだからさ。長命寺にもお参りしてこうか。

軽い気持ちで口にしたものの、入口脇の説明を一読し、即座に諦めた。

およそ800段ある石段を登り切らないと、本堂に辿り着けないんだってさ。

健康長寿に霊験あらたか。だから「長命寺」なんだろうけど。

そりゃ、お参りするたびに800段昇り降りすれば、健康にもなるさ。

 

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   「ダイ・ハード」な長命寺への階段。地元の方は平然と登ってったけど。

 

てなわけで、あっさりお寺詣りを断念した我ら。

門前の茶屋で団子を食べたり

反対の湖側に設置された長命寺港の待合小屋や埠頭をプラプラ。

小屋の隅っこで昼寝する猫に負けじと、日向ぼっこに勤しんだのだった。

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        どこに行く船が出るのか? 長明寺港の待合小屋

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           こういう時間の過ごし方も、素敵だったり

 

午前中の「武佐駅」もそうだけど、実際のところ

頭の中をからっぽにして過ごす、こういうなんでもないひとときが

後になると、いちばん思い出深い瞬間だったりもする。

やっぱり、旅っておもしろいよなぁ。

 

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          不思議と記憶に残る、長命寺港の30分

 

――おっと、無駄口を叩いてたら、それなりの文字数を稼いでしまった。

この後、帰りのバスで途中下車して訪ねた八幡山は、次の機会に。

 

ではでは、またね。