常々、辻村深月の作品は
『✖✖小説の皮をかぶったファンタジー』だと捉えている。
その伝でいうと、本作は『犯罪小説の皮をかぶったファンタジー』だろう。
どうして「ファンタジー」なのか?
ーーしばしば、"〈強い想い〉が〈現実〉を凌駕してしまう"からだ。
もちろん「この物語は実在するものとは一切関係がありません」的な
テレビドラマでおなじみの言い訳テロップを入れるまでもなく
小説=作り話であることは承知している。
だが、それを考慮してもなお、およそ実現困難なことが
辻村作品の場合、けっこう頻繁に発生するのだ。
特に本作では、「犯人逮捕」以降の展開にファンタジーの匂いが強く漂う。
いやいや、実際そこまで都合よくは行かないでしょ~!?
と、思わず〈ひとり突っ込み〉したくなるエピソードの連続だった。
しかし、それでもなお、ページを繰る手を止められなかったのは
一見"ご都合主義"としか思えない展開の、薄皮一枚隔てた向こう側で
登場人物(=作者)の強く激しい《想い》が、轟々と流れているからだ。
その《想い》とは、なにか?
登場人物のひとりが発した、以下の『問いかけ』に集約されている。
微笑みながら、秋山が言った。
「もしも子どもたちにこう聞かれたら、何と答えますか? 『先生、どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに、蝶やとんぼは殺しちゃいけないの?』」
そして人間は? そう続きそうな気がした。 (下巻97ページ)
どうか、この『問いかけ』を頭の片隅に留め置いて
登場人物ひとりひとりの言動を、たどっていただきたい。
作者・辻村深月の《想い》が、くっきりと浮かび上がってくるはずだ。
もうひとつ、気づいたことがある。
表題ページの裏に配置された、目次を見てほしい。
「〇〇と▽▽」と二つの単語が並ぶ章立てからも伝わるように
本作では、いたるところで〈対の構図〉が顔を覗かせる。
物言わぬ遺体と、わらべ歌の一節を記したカード。
素朴なわらべ唄の裏に潜む、残酷な現実。
ふたつのキャラクター「i(アイ)とθ(シータ)」も
主役格の男女もまた、例外ではない。
同様の構図は、本文の中にも随所にちりばめられている。
パンダに双子が生まれると、母親パンダは双子のうちの片方しか育てない。片方には餌を与え、抱きしめて慈しむ。けれど、もう片方のことはいないものとして振舞う。どこかに捨て置いてあとは一切構わないという話を聞いたことがある。(上巻245ページ)
「自分にないものは、他人が持っていないからこそよく見えるの。自分がそれを持った途端、みるみる価値が失せていく。そういうもの」 (上巻332ページ)
そういえば、ゲーム感覚で殺人を繰り返していた同じ犯人が
将来に絶望した若者の心を支え、再生へと導いている。
いっけん矛盾しているかに思えるこの行動も
「死と再生」という〈対の構造〉を形作っていることを、見逃してはならない。
ともあれ、本作のテーマに指名した『問いかけ』は
小説の終盤で再度、繰り返される。
蠅やアブラムシは殺してもいいのに、どうして蝶やトンボはいけないのか。秋山が月子に尋ねた卒業課題は、どうやら答えが出ないままになりそうだ。狐塚にもその答えはわからないけど、蠅やアブラムシを殺さない道を選択する場合も、人間にはある。
(下巻538ページ)
シンプルだが、難問である。
答えなど、容易に出せるわけがない。
しかし、肝心なのは、諦めることではなく
「考え続けること」ではないだろうか。
忘れ去ったとき、人は、同じ過ちを繰り返すのだから。
・・キザったらしくなったので
蛇足としてひとつ。
本作中、一番気に入ったフレーズで締めくくりたい。
微かに聞こえるのは、その冬にオリコンチャートでずっと一位を走り続けていた曲だった。泣ける映画の、泣ける主題歌。決して人を傷つけないキレイな言葉が並んだ歌。
(下巻357ページ)
ではでは、またね。