「死ぬ権利」がない社会はおかしいと思う 本日の”なんだかなあ”

目覚ましい医学の発達により

今年もまた日本人の平均寿命がいくらか伸びたという。

それはそれで、お目出たいことだとは思うけど

人工心肺装置や胃ろうに象徴される最近の高齢者医療とか

ALSなどの難病に苦しむ人を巡る自殺幇助問題とかを見るにつけ

どうしても素朴な疑問を抱いてしまう。

 

――なんで、そんなにまでして長生きしなきゃ(させなきゃ)いけないの?

 

ひところ流行った「自己責任」という言葉を逆手に取らせていただくと

「生きる権利」がある限り、「死ぬ権利」だってあるはずだ。

本人がいっときの感情ではなく、心底「死にたい」と願っているのであれば

それは確固たる権利として認めるべきである。

単に、高い所から飛び込んだり

自らの手首を切る行為が出来ないなどの機能的な問題が

自殺できる・できないの境い目になってしまうのは、あまりにも理不尽だ。

 

つい先日も、自殺を手伝ってもらったALS患者の遺族が

もしこの気持ちを知っていたら絶対に命を絶たせはしなかった!

と断腸のコメントを寄せていた。

もちろん、遺族(家族)の想いはそうだろう。

それに、たとえ一瞬でも、本人の気持ちをかなえてやった方がよいのでは?

と思ったとしても、〈人名絶対主義という社会的倫理〉から外れてしまうため

決して口に出すことはできないのが、今の日本の《常識=良識?》である。

 

いやいやいや!そんなことはない、

もしそんな気持ちを知っていたら、全身全霊で止めてみせる!

と、おっしゃるかもしれないが

葬儀が〈遺された者のため〉であるように

生死の決定が〈遺される者〉に委ねられるものでは、断じてない。

少なくとも、私は、心から死を望む家族に向かい

私たちのために我慢して生き続けてくれ、とは言えない。

 

また、〈いかなる状況にあろうと命は尊い〉という

生命原理主義者の信念を後押しするように

自殺幇助問題のあと、幾人かのALS患者が自らの体験を公表。

「将来に絶望し、一時は死を望んだが、今はそこから立ち直り、

 生きていてよかった、と心から思っている」

といった生命礼賛のコメントを寄せていらっしゃるが

それは、あくまでも、その方の個人的な実感なのであって

同じ病に罹った人すべてが、そうした肯定的な心境に至るわけではない。

もし、毎日のように死を望みながらも

周囲に懇願or説得される形で生き続け

最終的に「なぜもっと早く死なせてくれなかったのか!」と

世の中を恨むような結末を迎えた場合

その責任は、誰がとってくれるのか?

――それができるのは、本人の決断だけなのだ。

 

もちろん、人間だもの。

失敗・後悔・失恋・裏切りなどなどに直面し

「いっそ死んでしまいたい!」と思ったことは誰でもあるはずだ。

だからこそ、それが一時的な衝動でないことを確認するため

例えばスイスで実際におこなわれている「安楽死施設」のような

再三、再四にわたる『本人の意志の確認」は、絶対に必要な手順だろう。

だが、そうした衝動的な要素を完全に排除しつつ

なおも自らの死を希望し続ける――というのであれば

その意志に応えないほうが、よっぽど残酷なのではないのか。

 

残念ながら、私たちに自分の〈生〉を選ぶ権利は、ない。

だが、〈死〉を選ぶ権利は、あるはずだ。

 

 

ではでは、またね。