アニメはひどかったけれど
原作の小説はとてつもなく面白い
えっ?そうくるのか!?ーーと驚きっぱなしの3冊なのだ
【Ⅰ-女-】 Ⅰ.4 文緒厚彦-ふみおあつひこは正埼の立会事務官である。
検事という仕事には必ず一人以上の検察事務官が随行し、副官として検事の事務作業や捜査の補佐をすることになっている。二年前から正崎とコンビを組んでいる文緒は高校を卒業してすぐに事務官となった男で、まだ二十四という若手だった。[11]
強制捜査の際、特捜部の職員は証拠と思しきものを押収する。ここでいう「証拠と思しきもの」とはメモ、書類、ファイル、PC、ほか文字や数字が記述されているすべて、つまり情報を孕むあらゆるものが対象となる。
これらを強制捜査の現場で一々吟味していては何日掛かっても終わらないので、職員は細かな区別をつけずに、分け隔てなく、目についた一切合切をすべて箱に入れて持ち帰ってしまう。そういったやり方のため、特捜部の押収する証拠品の量は常に膨大となり、今回の事件でも踏み込んだ二ヵ所合わせて段ボール箱七百個という大変な物量になってしまっていた。だがこれら押収物の大半は事件と無関係なガラクタばかりで、そのままでは犯罪行為の証拠となり得ない。
そんな大量のジャンクの中から真に有用な証拠を見つけ出す作業を《物読-ぶつよみ》という。 [12]
5 ロッキード事件に代表されるような汚職政治事件を捜査する特捜部では、権力に守られた政治家を検挙することが一つの大きな目標とされてきた。民間から何十人を逮捕しようとも事件の核心に存在する政治家が起訴できなければ意味が無いとされ、バッジの検挙という事象が事件解決の象徴のようになっていった。それは警察で対応できないような政治犯罪を暴いて“巨悪”を捕らえるという、特別捜査部の使命感からくるものであった。
だがその強烈な責任感は、同時に特捜部の負の側面を育んだ。証拠をあぶり出す目的の強引な強制捜査、供述を取る前に“シナリオ”を用意して臨む取り調べ、あまりにも過激な捜査手法は批判の的になり《特捜部の暴走》と揶揄された。
そしてついに《大阪地検特捜部による証拠品の内容改竄》という大不祥事が発覚する。
このスキャンダルを受けて最高検察庁はついに特捜部の組織改革に着手。政界汚職などを独自捜査する体制は縮小され、脱税などの財政経済事件への取り組みに力を入れる方針に転換したのが今から数年前のことだった。[20]
そういった流れがあり、特捜部の「是が非でもバッチを」という風潮は現在ではかなり収まっている。だがそれでも昔からの職員の根底にはそんな意識が根強く残っているのも事実で、若い職員の文緒にもそんな雰囲気の一端は伝わってしまっているようだった。
8 「ブツの見分にはコツがある」
「まじですか」
「まず俺達が探しているのは“情報”だと意識しろ。そのブツから得られる情報はどんな書類のものなのか、それを区別して読み方を変えるんだ」
正崎は広げたファイルの中から、数字がずらりと並んだ帳簿を指差した。
「数字は“量”を読め。一つ一つの数字はその数以上の情報を持たない。だからとにかく量を集めて全部を計算しろ。集めたデータが適切で問題が無いならば、最後には必ず計算が合う。だがもし何かの問題を孕んでいれば計算は必ずズレる。“数字は正直”とはそういう意味だ。量が十分に集まれば自分から嘘を申告してくれる。数字の並ぶブツは一つの項目に頭を止め過ぎず、全体を速度優先で処理するのが最適の読み方だと覚えておけ」
続いて正崎は別のファイルを手に取りパラパラとめくった。プリントアウトされた文書のページを開いて置く。テキストの印刷物の余白には、手書きの文字で日付と時間のメモが書き込まれている。
「逆にこういった手書きの文字は、少ない量から可能な限り“想像”を広げて読む。手書き文字には文字情報以上の内容がたっぷりと詰まっている。筆記具の種類、文字の大きさや勢い、書き込まれた位置、そういった文字以外の情報を集めれば、書かれた時の状況や書いた人間の姿が浮かんでくる」
「ははぁ……」
「要するに。物読みのどこで急いで、どこで立ち止まって考えるかを適宜判断しろということだ。アクセルとブレーキの使いどころを覚えろ」[30]
10 文緒は懐から身分証である検察事務官証票を取り出して事務員に見せた。警察手帳にも似た証票を見せられた女性は真顔になる。
検事である正崎は検察官の証明である記章《秋霜烈日-しゅうそうれつじつ》を襟につけているが、検事は刑事等と違い、手帳のような身分証明書は携帯していない。そのため身分を証明する必要がある場合は、常に同行している立会事務官が自身の検察事務官証票を掲示するという段取りになっている。 [42]
11 正崎は羽飼教授に頼んで別室を一つ用意してもらった。若い学生は口が軽いので情報を引き出しやすい対象だが、教授と同席だと委縮して口を閉ざす。医局の談話室に使用されている部屋を借りて、数名の学生を呼んで話を聞いた。 [45]
12 日本で犯罪捜査を行なえるのは捜査権を有する捜査機関の人間、つまり司法警察職員と検察官(及び検察事務官)だけに限られている。国内の大半の事件は警察職員が捜査に当たっているが、検察にも独自の捜査権が認められており、中でも捜査に特化した部署こそ正崎たちが籍を置く《特別捜査官》通称特捜部である。 [48]
Ⅱ. 2 自殺は精神的にも肉体的にも多大なエネルギーを必要とする作業だ。
まさに「清水の舞台から飛び下りる」ような、相当な覚悟を持って臨まなければ達成し得ない。だからこそ自殺者は失敗を強く恐れるし、途中で覚悟が揺らぐようなことは可能な限り避けようとする。
好まれるのは一度踏み切ってしまえば自分でも止められないような決定的な方法。高所からの飛び降り。電車への飛び込み。一瞬ですべてを終わらせられる、否応なく生への執着を断ち切ってくれるような強大な力。 [65]
5 特捜部の扱う事件では、時に自殺者が出てしまうことも珍しくない。犯罪が明るみとなることに耐え切れなかったり、巨大組織の中での責任追及を恐れて自殺に逃げ込んでしまう者もいる。
だがその中には、自らの意志でなく「何者かによって自殺させられた人間」が少なからず存在するはずだと正崎は思っている。
人が死ねばそこですべてが絶たれる。死という壁が強固に立ちはだかり、真実は壁の向こう側に消える。《秘書がすべてを被って自殺、代議士は無傷》。そんなドラマのようなことが現実に起こっているのを、正崎は特捜部の中で目の当たりにしてきた。
しかしその場合には、自殺は間違いのない自殺として適正に処理されねばならない。遺書があり、他殺を考慮する余地はなく、普通の人間が普通に選んだような無理のない方法で自殺を遂げなければならない。もし疑念を挟む余地があったならば、その隙から壁は崩れ、捜査の手が内側まで及ぶことになるだろう。[82]
7 国会議員は三人の公設秘書を置くことを法律で定められている。この三人の給与は国から支払われ、政策立案ほか議員職務の補佐を担当する。
これに対して私設秘書は、国会議員が個人の裁量で雇い入れる秘書を指す。
人数に制限はなく、秘書として専門的な技能を持つ者もいればアルバイト程度の人間もいる。ベテランの議員ともなれば数十名の私設秘書を抱えていることも珍しくない。そういった制度上・実際上の違いがあり、私設秘書の方が立場が軽いと文緒が思ってしまうのもよく解る。[94]
「公設秘書は議員会館に出入りして仕事をする」正崎が説明を始める。「常に議員の周辺で動き、国会の動向に合わせて働く。つまり公の場に顔を出す秘書なわけだ。対して私設秘書の仕事は議員の胸三寸だ。雑用をあてがってもいいし、運転手をやらせてもいい」
「やっぱりあんまり重要じゃないのでは……」
「よく考えろ。何をやらせてもいいんだ」
言われて、文緒はハッとする。
野丸がベテラン秘書の安納を私設にしておく理由。三十年来の信頼厚い部下を自由な立場に置くわけ。
「おおっぴらにできないような裏の仕事を頼む……?」
正崎は満足気に頷いた。
権謀術数渦巻く政治の世界は、綺麗事ばかりではやっていけない。中でも選挙は政治家にとっての戦争だ。その戦争に勝つために、どんな政治家も大なり小なり悪事に手を染めている。
そういった表に出てこない裏の仕事を、野丸の長年の相棒である安納智数が請け負っているのではないかと正崎は踏んでいた。 [95]
9 日本料理『すみ井』は政財界御用達の料亭の一つだ。六本木のど真ん中という利便性の高さと裏路地の立地の目立ちにくさから、密談を行なうにはもってこいの場所として多くの政治家や企業人に愛用されている。また当然のことながら、料亭はプロ意識にのっとった顧客情報管理が強固で、たとえ検察が密会の情報提供を求めたとしても余程のことでない限りは内容を漏らしたりしないだろう。以前に張り付いた時も結局人間の出入りを確認するしか打つ手がなかった。
だがその“出入り”こそが、密会においては最も重要な情報である。
安納智数は、いったい誰と会うのか。 [101]
10 「野丸の周辺は選挙のプロの集まりだ」正崎が缶を置いて身を乗り出す。「選挙違反も贈収賄も裏で何百回と繰り返してきた連中だ。足のつかないやり方は幾らでも知っている。だとすればベテラン秘書の安納はもちろん、取引相手の地島もそう簡単には崩せんだろう。プロが相手となると俺達特捜でも付け入る隙は少ない……ただし、それはあくまでプロならばだ。一人でも素人が交じればそこから水が漏れ出す」 [112]
検事、つまり検察官には《正検事》と《副検事》の二種類が存在する。
正検事とは司法試験に合格し、司法修習を終えて検察官になった者を指す。
対する副検事は検察事務官を一定期間以上務めた後に検察庁の内部試験を通過して昇格した者を言う。
正検事も副検事も職務の内容は変わらないということになっているが、実際には取り扱う事件の種類で役割分担がなされている。副検事は地方の小規模管轄である区検察庁で窃盗・障害・道交法違反等の比較的軽微な事件を扱うことが多い。そして正検事は殺人・組織犯罪等の大きな事件を担当する。ただしこの分担も厳密ではなく、地方では正検事の人数不足から副検事が重大事件を扱うことも常態化している。[114]
そういった状況の中で、副検事の職を三年以上こなし、さらに内部の難関試験を通過した者が《特任検事》となる。特任検事は正検事と全く同等の職務をこなす要職であり、司法試験を通過していない検察事務官にとっては出世コースの一つの到達点といえる。
特任検事の門戸はあまりにも狭い。内部試験は司法試験と同等の難しさと言われているし、全国の正検事千九百人・事務官九千人という職員の中で特任検事がたったの五十人しか居ないことからもその難度の高さが窺える。 [115]
以前の特捜部の強引な捜査は“ストーリー主導”と呼ばれて揶揄された。事件の際、上層部は「こういった違法行為があった」という筋書きを作り、現場の人間には「その供述を取ってこい」と命じて取り調べに向かわせる。供述調書には取り調べが始まる前から“本人の詳細な供述”が書き込まれていて、あとは本人が「間違いないです」とサインをすれば取り調べが完了する。そしてそのサインを書かせるために、特捜検事は取調室という密室で暴虐の限りを尽くしてきた。
ただ正崎自身は、当時のことも全面的に否定できるものではないと思っていた。
不正を明らかにしたいという特捜部の信念は、今も昔も変わらないはずだと信じたかった。 [117]
Ⅲ. 4 首吊りはひどくシンプルな自殺法であり、その分偽装が非常に難しい。
たとえば吊る前に絞殺しようとすれば、被害者の抵抗の痕が著しく残るし不自然な絞痕になってしまう。首に正しい紐の痕をつけるには実際に吊り上げるしかない。だが意識ある人間ならば大人しく吊り上げられるわけがない。[153]
なら意識が無かったとしたらどうか。薬か何かで眠らされ、それからロープで吊り上げた可能性を考える。しかし検死では薬物の痕跡は出ていない。物理的に気絶させたような怪我も見つからない。そもそも文緒は正崎が現場に到着する二十五分前にメールを送ってきているのだ。そこから眠らせて、さらに吊り上げるというのは時間がなさ過ぎる。
5 東京地検特捜部を動かさなくてはならない。
特捜検事として正崎は考える。実際に特捜部を動かすそのためには、用意しなければならないものが二つある。
まず一つは“ストーリー”だ。
現在行われている神域域長選挙の裏には何かがある。では実際に何があるのか。
その明確な答えか、少なくとも仮説を用意する必要がある。きちんと筋道の立った、最低限の説得力を持つ仮説を提示できなければ特捜部は動かない。
そしてもう一つは“証拠”である。
この場合の証拠とは物的なものではなくていい。むしろ事件の開始時に物的な証拠が存在することなどまず無い。そんなものは強制捜査で後から一斉に押収すればいい。
事件に先立って必要となってくるのは強制捜査を行なう正当な理由となる、情報としての証拠。つまり“関係者の証言”に他ならない。特捜部の捜査においては証言がすべてと言っても過言ではない。関係者の言質-げんちが必要だ。
それがあれば何でもできるし、それがなければ何もできない。 [160]
6 ゴルフは密会や談合に適した集まりだ。
一度コースに出れば周りに人はいなくなる。開けた土地で怪しい人間が近づけば一発でバレてしまうので、プレーをしながら話した内容は誰にも聞かれることはない。そのためゴルフは料亭などと同様に、政財界の密議の常套手段となっている。[168]
8 「こんなに小さいのがあるのか……」半田は予備のGPS発信機を摘まみながら感心している。「さすが捜査のプロだな善。こんなの仕込まれてても絶対に気付けないぞ。地検の特捜部ってのはいつもこうやって捜査してるわけか」
「いいや、普通は使えない」
「うん? どうして?」
「GPS捜査は違法だからだ」
半田が目を丸くする。正確には公判中だがな、と正崎が付け加える。
「GPS監視は捜査といえどプライバシーの侵害だという訴えが起きている。その訴訟の時は、警察が容疑者の車に取り付けたことが問題視されたが。今回は人に直接だから輪をかけて駄目だろうな」 [179]
Ⅳ. 1
今回は通常の取り調べとは状況が異なる。それに合わせた対応が必要になってくる。
まず任意の出頭であること。
平松絵見子を明確な罪状で逮捕できていたならば、裁判所に請求して十日の勾留を、さらに延長を加えて二十日にわたって拘束することができた。
二十日もあれば特捜部はどんな人間からでも、どんな供述でも取ることができる。無実だろうと無関係だろうと一躍犯罪加担者に仕立て上げられる。
「叩き割る」などと揶揄される通り、強引な手法で容疑者の供述を無理矢理取ってしまうのが特捜部の得意技であり、悪習でもあった。
だが今回は任意だ。逮捕して連行したのではなく、平松絵見子本人の意志で検察に来たという体になっている。もし本人が帰りたいと言えば引き止めることはできない。三十六時間というのはあくまでも使える時間の最大であり、本人の機嫌を損ねれば五分で終わってしまう可能性もある。
つまりこの聴取では、平松絵見子本人ができるだけ協力的になるよう誘導する必要がある。自らの意志でここに留まるように、自分から検察に協力するよう巧みに仕向けていかなければならない。
そしてもう一つ、念頭に置かなければいけない事柄があった。
平松絵見子は“若い女”である。
まだ本人の年齢を確認していないが、見る限りにおいては二十代前半から半ばというところだろう。学生か社会人か、なんにしろ年齢だけを考えるなら成人した大人だ。
だが正崎は、この歳の人間は、社会的には未だ子供だと考える。
それは相手を下に見ようということではない。恣意的な上下の話ではなく、あくまで客観的な分析として、差別ではなく区別の意味で二十代はまだ子供だと分類している。成人の年齢に達すれば大人ということではない。単純な比率の話として、世の中には酸いも甘いも噛み分けた大人達が沢山いる。
正崎は特捜部の検事として、自分と倍以上も歳の離れた老獪な被疑者たちに多く触れてきた。そんな本物の悪人から見れば、二十代半ばの女の子などただの獲物であり、無力な子羊にも等しい。
狡猾な大人達から耳触りの良い話を吹きこまれ、いいように使われて捨てられる、そういう話は検察にいれば幾らでも聞く。そして今回の事件は、その中でも最悪の類のものだ。何も知らない少女が選挙の進物にされている。
平松絵見子はそんな“何も知らない女”の筆頭だと正崎は考える。
だからこそ正崎は、そこにつけこむ。
平松絵見子に、今度はこちらの《いいような情報》を吹き込む。安納や野丸は極悪人であり君は食い物にされているだけだ、先々で得になることは何もない、下手をすれば消されるかもしれないと教えてやる。嘘ではない。実際そうなる可能性もあるだろう。
それと同時に「我々検察は味方だ」「貴方を守るために全力を尽くす」というアピールを重ねる。そうして最終的に平松絵見子を検察側に引き込むことができれば、今回の聴取はこの上ない成功と言える。平松の協力が得られれば見返りは巨大だ。野丸陣営がひた隠しにする不正の情報を一挙に入手できるし、平松が特捜部の保護下に入ればこちらの情報が漏れることもない。盤面の全方位に睨みを利かせられる会心の一手になるだろう。 [189]
7 “罪に問わない”
それは検察という組織が切り出せる最高のカードだった。起訴という行為を司る検察官は、職務として罪をコントロールすることができる。ありもしない犯罪を作り上げることも、確実にあっただろう犯罪を無かったことにすることも。[210]
女が正崎を見ていた。その目つきには覚えがあった。そう昨日、正崎のネームプレートを見た時に、女は同じような顔をした。その時は物悲し気と思ったが、この場で再度同じ顔を見て、その感想は間違っていたのだと解る。
この女は、俺を憐れんでいる。
なぜかはわからない。どんな理由で人にそんな目を向けるのかもわからない。
だが現実に平松絵見子は、正崎のことを純粋に憐れんでいた。本当に可哀想だと思っていた。
屈辱的だった。 [215]
Ⅴ. 2 「日本での新薬・先端医療の承認遅延は非常に深刻だ。海外新薬の国内承認までの平均日数は千四百日、使用可能になるまでに四年がかかる。これは多くの患者にとって致命となり得る。早急に改善せねばならん」 [241]
4 「なぜですか」正崎は反射的に疑問をぶつけていた。
「なぜ齋候補を勝たせるんですか。自分ではなく」
「“熱”が必要なのだ」
野丸は真剣な眼差しで正崎を見返す。
「これから新域で行なわれるのは大規模な社会制度改革……革命だ。革命に最も必要なのは計算され尽くした理論ではない。正当性のある思想でもない。
そう“熱”だ。市民全員を鼓舞し、あらゆる人間を無理矢理に巻き込むような、人の熱が必要なのだ。その熱を生み出すためには、市民を強く惹きつける強烈なリーダーが現れなければならない。人の熱を煽り、集め、一つの目的に向かわせる圧倒的な革命家が必要なのだよ。だがそんな傑物がたまたま生まれるのを待ってなどいられん。ならば我々の手で創るしかなかろうよ」
「創る……」
「域長選挙という大舞台。そこで最年少候補の齋開化が、都知事の河野を破り、民主党副代表の柏葉を破り、芸能人の青坂を破り、そして自明党幹事長の渡井を破って劇的に初代域長となる。若さと実力を兼ね備えた次代の政治家が華々しく誕生する。そこに生まれる人気と熱を、そのまま改革の動力に直結させるのだ」 [246]
Ⅵ. 1 「極端な話をすれば、域長は政治など一切できんでもいいのだ。
域長の仕事は市民に壮大な夢を見させることだ。役者でさえあればそれでいい」
「二百万人を相手取る稀代の大嘘吐きということですね」
正崎はつい嫌味を滲ませてしまう。
だが野丸は余裕の歩みで答える。
「古代の政治は神事だった。神託を大衆に伝えるのが政治家の仕事であり、昔はそれを行なう人間を“役者”と称したのだ。役者も政治家もルーツは同じということだ。どちらも表に向けて嘘八百を並べるのが役目よ」 [264]
7 正崎は頷き、再び資料に目を通し始める。
読みながらふと、文緒に押収資料-ブツの読み方を教えた時のことが思い出された。あの時には二つ数えた。数字の読み方と文字の読み方。だが三つ目の、一番大切な読み方だけは教えられなかった。
“人間”の読み方。
突き詰めてしまえば、検事が相手にするのは数字ではなく、文字でもなく、そして犯罪ですらなく、それらを行なう人間に他ならない。逆に人間自身を読み取れない限りは、人間が起こした事件の本質に迫ることはできない。
齋開化という男はどんな人間なのか。何を好み、何を嫌い、何を求め、何をしようとしているのか。齋の目的を想像するためには、齋という人間を理解するしか道はない。
相手もまた、自分と同じ人間であること。
それがすべての事件の糸口であり、答えでもある。捜査のAとZ、α-アルファとω-オメガ。そんな一番大切なことを、なぜ最初に文緒に教えてやれなかったのか。小さな後悔を消すように正崎は齋の情報を頭に流し込んだ。[292]
正崎は舌打ちする。まだ全部嘘だという方がマシだった。すべてが嘘だというのならそれもまた一つの情報として扱えるが、虚実を織り交ぜられるのが最も厄介となる。嘘か本当かを判定するという作業は多大なカロリーを消費する。平松こと曲世は、一番相手にしたくないタイプの嘘つきのようだった。
人間を読むことに関して言えば齋よりも曲世の方が難しく思えた。[294]
8 「ですが私達は、もうすでに理解し始めています。
闇雲に生き続けることの不自然さを。
すべての人間が百歳を超えて生きるべきという世界の狂気を。
それは間違いです。
それは錯誤です。
それは人類の滅亡に繋がる暴走なのです。
私達はそれを回避するために、新しい時代に入るべきです。
それは、死の価値を認める時代。
正しい判断のもとに、死を許す時代です」 [312]
【二 -死-】Ⅰ.2
「齋開化という男が提示した思想が、本当に“狂っている”の一言で済まさせるものなのか、ということです」瀬黒次官は硬い表情で続ける。「たとえば安楽死の是非は現在でも活発に論議されていますし、社会の高齢化が解決すべき課題なのも事実です。齋の宣言が正しいとは言いません。ですが少なくとも市民の間で議論は巻き起こるでしょう。影響を受ける人間が出てしまうのも理解できないことではない」
「二百数十人が自殺したことを理解できるというのか」厚労相が忌々-いまいましげに聞き返す。
「平時でも日本では毎日六十人が自殺しています」瀬黒次官は感情を抑えた声で言った。「それが四倍に増えたというだけです。相手は馬鹿げた思想の狂信者達と決めつけていいると、思いもよらぬ事態にまで発展する可能性があります」[16]
3 「現行法には自殺を罰する法律はない」瀬黒が答える。「自殺は違法行為ではなく、犯罪ではない。なぜ犯罪でないかについては見解が分かれるが、代表的なものは三つだ。一つ《自身が権利を持つものの処分行為であり、それは違法ではない》とするもの。二つ《違法ではあるが、罰するほどのことではない》とするもの。そして三つ《罰するべき事柄だが、責任は負わせられない》とするもの」 [25]
刑法第二〇二条。
自殺関与剤・同意殺人罪。
「二〇二条の適用類型は四つです」正崎が説明する。「自殺教唆-きょうさ罪、自殺幇助-ほうじょ罪、嘱託-しょくたく殺人罪、承諾殺人罪」
名前を挙げながら、正崎はそれぞれの定義や判例を思い出していた。
自殺の意思のない者を唆-そそのかし、自殺を決意させる《自殺教唆罪》。
自殺を決意した者に対して、その行為を援助する《自殺幇助罪》。
本人から自己の殺害を依頼され、それを遂行する《嘱託殺人罪》。
本人に殺害の承諾を取り、これを遂行する《承諾殺人罪》。
それらは殺人罪の減刑類型という明確な違法行為として、六ヵ月以上七年以下の懲役又は禁錮とされている。 [26]
瀬黒次官は、これまでで最も本質的な質問を口にした。
「自殺というのは、本当に悪いことなのかね?」[32]
いよいよここから、本当に面白い局面へ分け入ってゆく・・
そんな第2巻32ページの"問題発言"で、ひとまず止めておいた
続きを含め、ぜひ本書を手に取っていただきたい
・・にしても、第4巻はいつ発売されるのだろうか?
これ以上待ち続けると、長く伸びすぎた首が折れてしまう
ではでは、またね。