これまたさすがの奥田ワールド。
圧倒的な分析力と絶妙な視点の据え方に、唸りっぱなしの270ページだ。
毎度のことながら、後半は"自分でバンバン"してほしい。
甘い生活? 1
「わかった。田中さんのカミさんは、思い出作りの人なんだな」
「うん。そうなんだよ。まさにそれだ」〈中略〉
「その思い出作りの人って、どういうことですか?」木島が聞いた。
「自分の人生を、何か形として記録し、残したがるんだな。写真なんかおれの十倍はあるよ」淳一が答える。
「そういやあ、田中さん、海外旅行でもカメラ持っていかないって言ってましたね」
「おれは、そういうものにこだわりがないの。成人式も出なけりゃ、旅先で写真も撮らない。うちの奥さんとはまるで正反対だな」
会話に引きずられるように、思い当たることがたくさん出てきた。昌美は旅行に出かければ必ず記念品を買い、名所旧跡で記念写真を撮る。それはまるでいった事実を残さんがためのスタンプラリーといった感じだ。
持ち物も同様だ。昌美はブランド品を一通り持っているが、シュネルやルイ・ヴィトンが欲しくてたまらないのではなく、一応持っていたいという形だけの欲望に見える。
クリスマスイヴは、絵に描いたようなロマンチックデートを求められた。バレンタインデーは手作りのチョコを手渡された。今思い返せは、万事が記念事業的だった。 [16]
2 「で、田中君はどうして欲しいわけ?」
「人生に過剰な意義など求めないで欲しい。みんな凡人なんだし」
「はは。田中君らしいね。でもね、記念日好きも、占い好きも、女子の業だよ。自己愛は女のアイデンティティ。女は自分を否定されることが何より嫌い。女性誌が細分化してるのはそのせいでしょ? 少しは理解しなきゃ」
「うーん。そうかあ。自己愛かあ」
淳一の中でいろいろな糸がほどけてきた。昌美は頻繁に「自分へのご褒美」と言いたがる。あれは自己愛だったのか。 [29]
《学歴は保険。個人に突出した能力があれば学歴は用をなさない。でもそんな人間、十万人に一人ぐらいしか出てこない。だから親は我が子にできるだけいい保険をかけようとする。ちがう?》
淳一は彼女らしいクールな回答に苦笑した。まったくその通りだ。そして、自分の子も十万分の一ではないだろう。 [37]
ただ、親の大半はそこまでの達観はない。本音は世間体と見栄だ。だから嫌いなのだ。
4 ここに来て、なんとなく夫婦間の違和感の全体像が見えてきた。
淳一は、結婚式にも家具選びにも、着るものにも食べることにも、ほとんどこだわりがない。だからこだわる人間がわからないのである。結婚式の打ち合わせで、衣装選びだけで何日もかける昌美を見て、女はこれだからと半ば呆れた。それが新婚生活でも続いている。生活には個性も理想もいらない。もっと静かで普遍的なものだ。だいいち自分たちは何者でもない。 [41]
ハズバンド 1
秀一が再びテレビを向いた。今度は巨人の攻撃で、代打で出てきた選手があっさり内野フライを打ち上げた。
「あーあ。この馬鹿が。もっとねばれないのかよ。こりゃあ今シーズン限りかな」
自分ならかすりもしないくせに、ひどいことを言っている。
めぐみは夫に釣られてテレビを眺めながら、プロ野球選手は大変だなと同情した。全国のファンと称する大衆から、好き勝手なことを言われるのだ。
カメラが両チームのベンチを順に映した。ユニフォームを着た体格のいい男たちが電線の雀のように並んでいる。野球に詳しくないが、試合に出られるのは九人ずつだから、残りの選手はたぶん補欠だ。
不意に選手たちの妻の気持ちを想像した。スポーツ選手の妻たちは、自分の夫の職場での立場を、テレビを通じて見てしまうのだ。
たまらないなあ――。めぐみは胸が締めつめられた。もしも自分の夫がプロ野球選手で、補欠で、あのベンチにいて、代打で出てきて凡退して、日本中の無責任サラリーマンから罵倒されたとしたら、いたたまれなくてトイレに逃げ込んでしまいそうだ。 [68]
2 帰宅後、めぐみは夕食の支度をしながら、ОL時代のことを思い返した。
約十年勤めた中で、数々のお荷物社員がいた。母親から欠勤の電話が入るマザコン男、上司を差し置いて上座にどっかと座る重役クン、独身のお局様に結婚しないんですかとみんなの前で聞いた若手宇宙人、職場に風水を持ち込んで席替えをする不思議クン。中でもよく憶えているのは、芸能プロにスカウトされたことがあるというイケメンの新人社員だ。
有名私立大出で、背が高くて、服装のセンスもよくて、女子社員たちはにわかに色めき立った。シナを作り、近寄ろうとする者が続出した。ところが研修を終え、営業に配属されて三ヶ月と経たないうちに、実は使えない奴であることが判明した。ミスを連発し、得意先を怒らせ、上司には叱られてばかりいるのだ。ОLの情報網によると「とにかくドンくさい」とのことだった。そうなるとなまじルックスがいいせいで、余計に辛くあたられ、からかいの対象になった。その彼は一年で退社したが、引き止める者はもちろん、同情する者もいなかった。
だいたい自分だって、部署がちがうくせに、その彼を軽んじ、見下そうとした。
辞めるらしいと聞いたときは、みんなでせせら笑った。
仕事ができない男にとって、会社とはなんときびしい場所なのか。その冷遇のされ方は女のブスをも凌ぐ。 [77]
3 「要するに次の一手に備えないタイプ。おにいちゃん、段取り苦手だもん」
その指摘に、めぐみは思ず心の中で膝を打った。そうか、段取りという能力が世の中にはあった――。
だいたい秀一は準備をしない。たとえばタクシーに乗ったときも、停車して初めて財布を取り出す。めぐみだったら料金メーターを見つつ、だいたいのお金を停車前に用意しておく。さらに秀一は、一万円札しかないときでも平気でタクシーに乗る。そもそも財布の中身など確認しない。めぐみなら千円札がないときは、タクシーに乗ることすらためらう。
夫の行動パターンはこれまでも気にはなっていたが、性格のちがいと割り切っていたし、瑣末-さまつなことに気を遣う自分が卑小なのだと思い込んでいた。
しかし今、ポンと栓が抜けたように合点がいった。秀一は段取り音痴なのだ。[87]
4 世間とはなんと冷たいものなのか。金融危機で大企業の派遣社員切りが続出したとき、自己責任論を唱える識者が大勢いたが、今となれば、「あんたら情はないのか」と一蹴してやりたい気分だ。
そう。情なんだよなあ――。めぐみは自問した。 [91]
リビングダイニングにはラジオが流れている。テレビを見るのはやめた。景気後退とか、年金問題とか、人を脅すようなことばかり言うからだ。 [94]
ピーマンのきんぴらは、まずフライパンに胡麻油を熱し、そこに塩をふりかけてからピーマンを投入した。料理雑誌で知った裏技だ。こうすると水分が出難いのだ。実際その通りで、味見すると、照りとしゃきしゃき感がこれまでとちがった。おおー。一人で感心する。 [97]
「ある女の子に言わせると、井上さんの奥さんのお弁当は普通のセンスがいいんだって。いちばんいい普通だそうです」
めぐみは飛び上がりたいほどうれしかった。いちばんいい普通、か。自分が目指していたものをうまく言葉にしてくれた感じだ。 [99]
めぐみはこれ以上、望まないことにした。夫がこの先、出来る奴になって、昇進して、給料が上がるということは恐らくない。それより、子会社に飛ばされたり、早期退職を勧められたり、夫自身が辞めると言い出す可能性のほうが高い。しかしそれもまた人生なのだ。椅子取りゲームに負けたからと言って、しあわせまで奪われるわけではない。
めぐみはおなかの中の子供に言い聞かせた。君が大きくなったときに望むことは、冗談が通じること、諦められること、二つだけです――。 [100]
「やっぱり子供にいい名前をつけるのって親の義務だと思うの。秀一のときはね、五つぐらいに候補を絞って、それで姓名判断の先生に見てもらったの。
今でも憶えてるんだけど、その先生、秀一にしなさい、何事にも秀でる子になることでしょうって――。で、その通りになったでしょ?」
めぐみは耳を疑った。教訓一、自分はこの手の親馬鹿にはならないこと。
「早稲田を出て、大きな会社に入って、一応勝ち組なんだもの」
教訓二、自分の子供に勝ち負けはつけないこと。 [101]
絵里のエイプリル 3
予備校はさぼることにして、そのまま雄一と話を続けた。テーマは親の離婚と子供の身の処し方だ。父親の暴力とか、借金とか、親族とのいざこざとか、そういう激しいトラブルでない限り、親の離婚を子供はすんなり受け入れ、適応するものだ、というのが唯一の持論だった。
「おれ、最近思うんだけど、子供の人生が親のものじゃないのと同じで、親の人生も子供のものじゃないんだよな」
雄一が飲み干したアイスコーヒーの氷を口に入れ、バリバリと噛み砕いて言う。ちょっとだけグッときた。この男子は自分の意見を持っている。 [136]
ではでは、またね。