心に留めておきたい文章がそこいらじゅうに散らばっており
気がけば、こんな大ボリュームになっていた。
後半部分も、ハッとしてグッド(もはや死語ですらない)な名言のオンパレード。
2000年 幾つもの映像や文章に影響を受け、そして現在-いま
たとえば、『絵とは何か』というタイトルの本。
十代のころ父からもらった本だ。帯にこうある
「人の一生は、一回かぎりである。しかも短い。その一生を“想像力”にぶち込めたら、こんな幸福な生き方はないと思う」
この非常に魅力的で無責任な言葉に、僕は唆かされた。 [19]
たとえば、賞の応募要項。
書きたい小説を好き勝手に完成させたはいいものの、どの賞へ応募すべきだろうかと悩んでいた僕の目に飛び込んできたのが、選考委員である奥泉光さんの言葉だった。
「そこにある言葉を読み進むこと自体が快楽を生むかどうか」とあった。
そうだよな、そうだよな、小説というのは本来そういうものだよな、と自分の技術は棚に上げて、僕は嬉しく感じた。 [20]
2001年 キャラメルコーン
父は善意の人である。
「自分のことばかり考えてると人は離れていくものなんだ」とよく言った。
子供の頃、一緒に風呂に入ると、湯をかき混ぜてみせ、「ほらな、自分のほうにばかりお湯を集めようとすると、逆に、はねかえって向こうへ行ってしまうだろう」と言ったりもした。
思えば、父が自分の利益のために走りまわっている姿を見たことがない。自分以外の誰かを喜ばせているときが一番幸せのようにも見えた。 [26]
ハードボイルド作家が人を救う時
選考委員の一人だった北方健三さんが、編集者たちと一緒に会場に慌ただしく入ってきて、ちょうど入口隅のところにいた僕の肩を叩いた。「後で、俺のところに来い。話をしよう」
実際に話をしてくれた。「とにかくたくさん書け。何千枚も書け」「踏んづけられて、批判されても書け」「もっとシンプルな話がきっといい」
おそらく若い小説家書きがいたら北方さんはいつもこんな風に励ますのだろう。 [30]
2003年 B型とセガールとヨーグルト
テレビをつけると、ある国が核関連施設の封印を取り外した、だとか、来年の国民の生活はますます厳しくなります、だとか、暗くなるようなニュースばかりやっている。なるほどこれは、僕たちの気を引き締めるために、わざと憂鬱な情報ばかり流しているに違いない、と思うことにした。[47]
言葉の壁
専門用語というものが苦手だ、という人がいます。僕がそうです。
自分の知らない言葉を、平然と使われてしまうと、爪弾きにあったような気分になりますし、理由もなく劣等感すら覚えてしまうのです。みんなが知っている言葉を使ってくれればいいのに、と思ったりするのですが、よく考えてみると、この「みんな」が曲者なのかもしれません。 [52]
壁
丸山健二という作家の『虹よ、冒瀆の虹よ』という小説は、僕がとても好きな作品の一つです。追手から逃げるヤクザの(時代錯誤とも言える)物語なのですが、はっきりと覚えている印象的なシーンがあります。
突然、主人公の前に死神が現われる場面です。「いいかげん命を寄こせ」と詰め寄ってくる死神はとても恐ろしいのですが、それに対して主人公がこう叫ぶのです。「何様のつもりだ!」 [61]
被差別部落の問題を中心にしたインタビューや対談が読みやすく興味深く、印象的な言葉がいくつかでてきて、何度かはっとさせられました。たとえば、ある人の「なんで差別されるんだろうと思いますよ。差別って客観的な理由がない。理由があったら教えてほしいくらいや」という言葉。
まったくそのとおり、根が単純な僕はうなずいてしまいます。「根拠もなく、見下すなんて最低だ、僕は絶対にやらないぞ」と。けれど、さらに別の対談を読んでいると、今度は次のような言葉も出てきました。
「狩猟民の世界では動物の人間の関係は食うか食われるかであり、それが農耕文化になると、人間は動物を殺して食ってもいいが、動物は人間を殺してはいけないという関係を作り出した」
途端に、自分のことが言われているような気になり、居心地が悪くなります。
そう言われてみれば、僕はためらいもなく殺虫スプレーを噴射するし、肉料理だって大好きです。きっと逆のことをやられたら、怒るでしょうし。
何だか、動物やら自然やら、そういうものから「何様のつもりだ!」と指をさされているような気分になってしまいました。 [62]
町から戻り、本を読もう
先日、あるミュージシャンの方にお会いして、話をする機会があったのですが、その時に彼がこう言っていたのが非常に印象的でした。「映画は、映像が嘘っぽいと白けちゃうんだけど、小説だと自分で想像するから、何でもできるんだよね」
また、とある作家さんは、「映像にできるならしてみろ、というくらいの気持ちで書いています」と言っていました。
僕自身は、小説を書くことについてまだまだ駆け出しなので、偉そうなことはまったく言えないのですが、でも、一読者として、小説は映画とはまったく違った喜びを与えてくれるのだ、と信じています。 [73]
最近、思うのですが、「映画と漫画」は映像を「見せてしまう」という点で同じジャンルですが、そういう意味で言うと、「小説」は「音楽」の仲間ではないでしょうか?
映像はないので、自分で想像するしかありません。言葉によってイメージが喚起されて、リズムやテンポを身体感覚で味わう、という点で、同じような気がします。書かれている(もしくは歌われている)テーマなんてどうでもいいんです。読んで(聴いて)、ああ気持ちよかった、と思えるものが最高なんじゃないでしょうか。 [74]
叫ぶ、叫ぶとき、叫べば、叫べ
パンクロックというのは、叫ぶものなんだ、と思う。実際に大声を張り上げるわけではなくても、不満とか怒りとか、焦りのようなものを、切迫感に駆られて、不器用に声を上げる。呟き声でも、それは叫んでるんだと思う。その切実さ、滑稽さが(これが重要)、僕はとても好きだ。
クラッシュのファーストアルバムとか、ルースターズの「シッティング・オン・ザ・フェンス」とか、チャーリー・パーカーとか、そういうものはみんなパンクだと僕は思うのだけれど(思うのは勝手だから)、それらを初めて耳にした時は、理屈や知識は抜きにして、「あ」と思い、「やばい、いいかも」とにやにやした。「これはいいぞ」という予感があった。 [87]
読書が好きになったのはそれからかもしれない。「小説も音楽も似てるんだなあ」と思えるようになった。
その作品の意味とか意義とか、どんでん返しとかトリックとか、試験に出る「作者の言いたいこと」とかいうのとは関係なく、読んで楽しめばいいんだな、と当たり前のことに気づくことができた。英語がまったく聞き取れなくても、恰好いい音楽は恰好いいのと一緒だな、と。 [91]
2004年 わが心の恋愛映画 フィッシャー・キング
こうやって、まわりの友人や知人を巻き込むような、ひとりよがりで傍迷惑なのが、恋愛の面白さ、豊かさなのかもしれません。
『フィッシャー・キング』(テリー・ギリアム監督) [110]]
熱帯と化した東京を舞台に灼熱-しゃくねつのファンタジー
「小説は何でもできるんだよ」これは数年前、ある小説家の方が、僕の横で言った台詞です。とても嬉しそうにそう仰っていたのをよく覚えています。詳しい説明はなかったのですが、僕はとても感激しました。映画や漫画、音楽とは違った、小説ならではの手法や試みが、まだまだ無限にあるような、そんな気持ちにさせられたからです。
実は、佐藤哲也の小説を読む時、僕はいつもこの言葉のことを、大袈裟に言えば、「小説表現の可能性」を考えます。
物語に惹きこまれると同時に、小説の力に興奮し、だからこそ、幸せな気持ちになるんです。 [117]
「亡くなったけれど、ベンチにいる」人たちの声が聞こえる短編集
確かに、生きていく作業の大半は、自分一人でやらなくてはいけない、気がする。打者と同じで。でも、一人で闘っているわけでもない。ベンチからは仲間の声が飛んでくる。少なくとも、飛んでくる、と思うことはできる。そしてそのベンチには、今、一緒に生きている人だけではなくて、すでに亡くなっている人が座っていてもまったくおかしくないはずだ。この短編集にはそういった、「亡くなったけれど、ベンチにいる」人たちが幾人も出てくる。 [124]
伊集院さんが僕に、「小説というのは、理不尽なことに悲しんでいる人に寄り添うものなんだよ」とおっしゃったことがあって、その話がとても好きなので、よく取材のときに、「伊集院さんに聞いたんですけど」と話しているんです。
そうしたら、少し前に電話があって、「律儀に私の名前を出さなんていいから。あれ、もう、あなたの言葉にしちゃっていいから」と言ってくれました(笑)。 [125]
我、この地を愛す。仙台03 松島
いまは、松島好きなんです。学生の頃は、車で行って、あそこに松島見えるね、よし終わり、という感じだったんですが、遊覧船から見ると、違った趣があって素敵なんです。ぜひ乗ってみてください遊覧船。何か勧誘みたいですが(笑)。 [130]
2005年 吾輩は「干支」である
最近思うんですが、駄洒落を言うのは、「受けたい」というよりも「発見を広めたい」気持ちだと思うんですよね(笑)。啓蒙活動というか、この言葉とこの言葉、実は似てるぜ! という発見を、みんなで共有したい、そういう感覚なんですよ。ですから、反応としては、「つまらない」じゃなくて、「それはすでに発見されている!」と批判すべきかもしれません。 [138]
青春文学とは?
「もっとも好きな、または影響を受けた『青春文学』作品は何でしょうか?」
『十九歳の地図』中上健次
不穏で、危なっかしくて、やりきれなくて、青春小説と言えばこれが真っ先に浮かびます。
切ない片思いや、不穏な謎、勇ましい冒険の融合したお話で、夢中になって読みました。
『19分25秒』引間徹 引間徹の新作を待っています。 [153]
これは僕の映画だ!としか言いようのないアカルイミライ
映画というのは、あらすじではなくて、映像と音の「連動体」なんだ、と勝手にそう思う。 [156]
リョコウバトのこと。 最後に、僕がわざわざ言うことでもないのですが、今回この、「モアよドードーよ、永遠に」を読むために、二十年ぶりくらいにドラえもんを読み返して、そのクオリティの高さに本当に驚きました。シンプルでスマートな絵柄もさることながら、各短編の発想や意外な展開やオチのユーモアの素晴らしさまで含めて、何て贅沢なんだろう、と感激しました。
もし子供が生まれたらその子供が読むために、そして自分自身が何度も読み返すために、一刻も早く、ドラえもん全巻を揃えなければならない。今、そんな気持ちになっています。 [161]
調査官とチルドレン 正直なところ僕は、「少年には未来があるから、罰を与えることよりも、矯正を考えるべきなのだ」という考え方にはどうも違和感があって、むしろ、「少年だって大人と一緒に厳しく罰しないと駄目なんじゃないの」と考えるタイプなのですが、ただ、家裁の調査官の本を読んだり、M君の話を聞いていると、「正解なんて、ないのかもしれないなあ」と感じるところもあり、「答えが出ないものは、小説にするべきなんだ」と常々、思っている僕としては、そこで、調査官の話を書くことに決めたのでした。[180]
2006年 経験を生かす 「ぎっくり腰はようするに腰の捻挫なんですよ。もう冷やすしかないです。冷やすしか」
本当だろうか、と半信半疑のまま家に帰り、さっそく、氷の入ったビニール袋を腰に当てて寝ていたのですが、なるほど彼の言うことは正しかったようで、一晩過ぎると無事に痛みが弱くなりはじめました。 [192]
いいんじゃない? 新人賞をいただいた後、最初のうちはサラリーマンと兼業でした。「三年は会社を辞めてはいけませんよ」と担当者からアドバイスをもらっていましたし、僕自身、絶対に辞められないことを分かってもいました。
本の印税で生活をすることがいかに難しいかは想像できますし、自分が仕事を辞めると、働いている妻がプレッシャーを感じるのは明らかです。そうなったら僕も罪悪感と重圧で、小説どころではなくなるに違いないのは容易く想像できます。だから、時折、仕事が忙しくなったり、精神的な追い込まれるような役割を職場で担わされたりすると、「辞めて、小説に専念したい」と思いもしましたが、そのたび、「それは小説に打ち込みたいのではなく、単に、逃げたいだけじゃないか」と自分に言い聞かせていました。 [197]
警察や国を、どこまで信じていいのか? この事件の顛末に、恐怖を感じずにはいられない
この事件のおおまかな内容はニュースで知っていたものの、この本を読みながら、「これは現実に起きたことなのか」と何度も首を捻った。息子の危険を察知し、十回以上も警察に足を運ぶ親。けれどその息子は最終的には、「痛いのは俺じゃないし」の思想を持つ男たちによって、殺されてしまう。死に至るまでの過程は、本当に痛ましい。おぞましい。両親はその事件性を察しているにもかかわらず、警察は動かない。動かない理由がまた衝撃的だ。すべての警察がそうだとは思わないし、どこまで真実なのかわからない。ただ、とにかく恐ろしい。『栃木リンチ殺人事件―殺害を決意させた警察の怠慢と企業の保身』黒木昭雄 新風舎文庫 [206]
ではでは、またね。