スペイン/カタルーニャ
質の良い絵画の鑑賞は、上質の小説を読むことと似ている(人生で何度も読み直す、鑑する意らしい)。 [15]
スペイン/モンセラット
路地は都市の顔である。情緒のある路地がある都市はたいがい芸術が盛んだし、恋愛の場所を提供してくれている。
パリを舞台の恋愛映画が多いのは絵になるからである。 [22]
スペイン/マラガ、マルベーリャ
苦しい少年期を経てプロスポーツ選手になったプレイヤーの大半が実りのある日々を手にしている。そうして自分を育ててくれた人や土地に対する感謝の念を生涯忘れない。プロ選手の、しかも若い選手にとって甘い環境というものは百害あって一利ない。 [41]
日本/東北の或る町
皆が寒さに震えていた時、赤ん坊の泣き声がした。
――この中に赤ちゃんがいるのか‥‥。
身体を動かすこともままならぬ中で母親が赤ん坊を抱いている。
――赤ん坊は大丈夫か、お母さん?
誰かそう言い出した人がいたのだろう。
身動きできない状況の中で大人たちは赤ん坊を寒さから守るために代わるがわる自分たちの体温であたためてやったという。
聞いた話だから真偽のほどはわからない。しかし私は東北の人たちであれば、その話はあり得ると思った。そういう人たちなのである。
作家として語らせてもらえば、大人たちはそれが当然のように言うだろう。
“どこの子供でも、子供は皆の子供だから”
だから私は東北の再生を信じているのだ。 [47]
フランス/コルシカ島、パリ
一年半の旅の終わりに、パリのホテルで雑誌を読んでいると、最初に訪ねたコルシカ島のポルティシオで宿泊したホテルの名前と美しい女主人の写真が目に止まった。
ナチスドイツにパリが占領されていた時、レジスタンスとしてナチスに抵抗を続けた勇敢な人たちの中に“マキ団”と呼ばれる人がいて、その一員にあの女主人がいたことを知った。
「女性が立ち上がった戦いは真の戦いになるものよ」
彼女の言った言葉の奥底にあるものが、その時、初めてわかった。
戦争は愚行でしかないが、辛苦の時に人の生き方は試されるのだろう。ナポレオンの旅で得た妙な教訓だった。 [52]
イタリア/ボローニャ
塔の手前を右に折れ、市庁舎にむかった。
そこで私は足を止めた。
――あれは何だろう?
市庁舎の壁に、何百という数の人の写真が掛けてあったのである。近づいてみると、それぞれの写真には名前も刻まれ、老人から幼い子供のものまであった。
私は通りすがりの女性に訊いた。
「この壁の写真は何ですか?」
「これは第二次大戦で犠牲になった人たちの写真です。この人たちはボローニャの誇りです」
――誇り? 何のことだ。
それは第二次大戦の末期、ムッソリーニ率いるファシスト政権に抵抗し、亡くなった人たちであった。
一九四二年七月、連合軍のシチリア上陸作戦の成功で、ムッソリーニ政権は極めて不利になり、ファシスト党はムッソリーニを逮捕監禁し、新政権を成立させたが、ヒトラーは盟友ムッソリーニを救出すべくイタリアに進軍し、アペニン山脈の山塊グラン・サッソに監禁されていたムッソリーニをグライダーで降下、ヘリで救出し、ムッソリーニを首班とする“イタリア社会共和国”を樹立した。事実上ナチスの支配下におかれたイタリアは、民衆が武器を持ち、山や街の地下に潜んで激しい抵抗運動をはじめた。有名なイタリアのパルチザン運動である。この抵抗をおさえるためにナチスドイツが行なった行動が、ドイツ兵が一人殺されるたびに、市民の中から無作為に選び出した老若男女の十人を報復として銃殺するという残忍なものだった。
その当時銃殺された二千五十二人の写真が、市庁舎の前に掛けられていたのである。なぜ市庁舎の前かと言うと、ここで銃殺が行なわれたからで、この場所を人々は“レジスタンスの安らぎの場所”と名づけていた。
それを知った私は足元の石畳を見つめた。
――この石畳に夥-おびただしい血が流れていたのか‥‥。
そう思うと、切ないこころもちになった。 [64]
世の中は平和が続くと、必ずファシズムが台頭して来る。それは世の慣-ならいのごとくである。私が独裁、戦争を嫌うのは、あの市庁舎の前に並ばされた人々と、それを見守る家族の姿を思うからである。
安らぎの場所で、私に写真の説明をしてくれた女性の表情と言葉は、今回の旅で大切にしなくてはならぬことだった。
「この人たちは、私たちの誇りです」 [66]
イタリア/ローマ
人生の後半での旅は、今行こうと思えば行ける時に、思い切って行くべきなのだろう。 [80]
旅だから出逢えた言葉‐Ⅱ アメリカ合衆国/シャーロット
人の何倍も練習することは、正直、他のプロも実行している。それがプロの世界というものであり、それができない人間は、闘志よ、才能や、幸運で勝つこともあるが、長続きはしない。
その点は、私たちの仕事と共通している。 [153]
しゃかりきになって、自分の人生は大丈夫か、などと一年中毎日考えていては周囲の人も心配するだろうし、第一余裕がなくなる。完璧を求める人は、完璧というものにとらわれて、何ひとつ身に付かないケースの方が多いのではなかろうか。
それはゴルフのプレーで例-たとえると、ナイスショット意外は、つまらぬショットと考えるのと同じで、面白味がないし、ゴルフの肝心をいつまで経っても理解できないことになるだろう。
失敗をするものだという前提を気持ちの隅に持っていれば、落胆し過ぎて心身がおかしくなることもないし、周囲にも不必要に心配、迷惑をかけなくて済む。 [161]
折り返し点をいくらか過ぎたあたりで、止めておく。
"過干渉"と嫌われるのだろうか、説教を耳目にする機会がとんとなくなった。
いまや世を埋め尽くすのは、箸にも棒にも掛からぬ"猫なで声"ばかり。
ぶつかる前に消去するーーそんな"賢さ"が、哀しくも、寂しい。
ではでは、またね。