『誰が国家を殺すのか-日本人へⅤ-』 塩野七生   -引用三昧 24冊目-

命を懸けて闘い続けるウクライナの大統領に

満面の笑顔で「必勝祈願しゃもじ」をプレゼントする姿は

相変わらず、本邦の政治家の"薄っぺらさ"を世界に見せつけてくれた。

 

今からでも遅くない。

日本のトップの首を、この人(本書の著者)に挿げ替えてくれ!

心からそう願ってしまった、"叡智の書"。

 

前後通して読まないと正確に理解できないとは思うが

鋭くも的確な考察・指摘・提案の一端を、体験していただきたい。

(引用文中の下線は後付け)

                   

Ⅰ ローマで給水制限?                            要は、公共事業とは、当初の採算は度外視してでもやらねばならないことか、それとも、需要の見込みが立たないかぎりはならない事業か、という問題なのだ。つまり、「政治」と考えるか、それとも「経済」と考えるか、の違いである。[13]  

二千年前のローマ人にできたことが、なぜ今の人間にできないのか。
それはおそらく、自然科学が先人たちの業績を学びながらその上に新しい考えをつけ加えていくのに対し、人文系を自認している人の多くは、過去を捨ててこそ進歩できる、と信じているからだろう。
これでは、真の意味での謙虚さに欠ける。そして、この意味の謙虚さを欠いては、人間を相手にする政治などやれるはずはない。結果としてわれわれは、政治思想の別なく誰もが、不平不満をどう解消できるかがわからないでいるのである。〈中略〉
人類の歴史は、ほんとうに「進歩の歴史」なのだろうか。  [16]

男と女・イタリア版                              この頃のイタリアでは、女が男を刺すのではなく、男のほうが女を刺す事件が頻発している。それもパターンは決まっていて、捨てられた男が捨てた女を殺すのが常の例。
以前は、捨てるのが男で捨てられるのが女であったのに、それがここにきて逆転したのである。  [17]

迷走するイタリア
これを眺めていて、ツイッターで勝つにはどう振る舞うべきかが、アナログそのものの私にもわかったのだった。
第一に、短文でなければ、やるだけ無駄であること。
第二は、写真よりも動画のほうがインパクトが強いこと。
第三に、口調は常に攻撃的でケンカ腰であること。
第四は、舌戦の場からは絶対に退場しないこと。それどころか、相手の攻撃には時をおかずに反撃し、しかも言説に誤りがあっても訂正などはせず、くり返し波状攻撃をつづけること。 [45]                                            

他者との共生のむずかしさ
五百年前にマキアヴェッリは、すでに言っていた。
今現在所有しているものを失うという現実の危機感よりも、明日にはすべて失いかもしれないという不安感で動いてしまうのが人間というものだ、と。  [46]

一作家の深読み?                                マキアヴェッリは、リーダーを三種に分けている。
第一は、何もかも、自分でできる人。
第二は、他者が考えことを理解でき、その実現に協力する気持ちもあり、実際それを実行できる人。
最後は、自力でも認識できず、他者の進言を容れる度量にも欠けている人。[55]

夏のローマ                                  もう少しオトナのローマ訪問のやり方もある。それは三十七歳になって初めてイタリアを訪れたゲーテが言ったように、「肉体の眼よりも心の眼で見ること」である。それには、いくつかの条件はクリヤーする必要はある。
一、短時日の間に何もかも見ようとしないこと。見ながら歩くのではなく考えながら歩くのだから、訪れた場所の数ならば少なくなるのはやむをえない。
二、観光客が殺到する場所としない場所のちがいは、ガイドブックが点数をつける重要度とは比例関係にはないという一事を忘れないこと。「心の眼でも見る」とは、それをする人個人の感受性と想像力にかかっているのだから。  [65]

民主政が「取り扱い注意」と思う理由
この頃では大衆迎合政治という意味でポピュリズムと言うらしいが、昔の日本人が翻訳した「衆愚制」のほうが的を射ているのではないか。愚かになったのは大衆だけでなく、指導者たちまでが愚かになったのだから。それに、大衆の考えが正しければ迎合してもいっこうに不都合ではないが、怒りと不安に駆られ、それを他者に責任転嫁する一方になってしまっては、正しいはずはないのである。ポピュリズムという、誰に責任があるかはっきりしない名称よりも、衆愚政治としたほうが適切と思う。政治家も有識者もマス・メディアも行政担当者もふくめたわれわれ全員が、「愚か」になってしまったという意味で。 [72]                          

女が三割ならば若者も三割                           一億総活躍は大変にけっこうな考えだが、一億と言うからには女も若者も加わってのことでしょう。かけ声だけで終わらせないためには、政策は具体的でなければならない。
となると、経験のない女や若者が失敗したらどうするのか、と言うかもしれない。
なにしろ頭数をそろえるのが経験の多少よりも優先するのだから、失敗する人も出てくるだろう。だが、それによる実害を最小限に留めることこそが、年長世代の役割である。サッカーに例えれば、まちがった方向にパスしてしまったボールを、時を置かずにベテランがフォローすることで失点につながらないで済んだ、というケース。そして、この方式をつづけるうちに人材も淘汰されてくるだろうし、登用された女も若者も、自然に経験を積んてくるだろう。こうなって始めて、一億総活躍も現実になるのである。
ただし、次の二つは忘れないでもらいたい。[80]
第一は、全員のためを考えていては一人のためにもならないという、人間性の真実。
第二は、全員平等という立派な理念を守りたい一心こそがかえって、民主政の危機という名で、民主政からポピュリズムに堕す主因になっているという歴史の真実である。

 

  Ⅱ 「民意」って何?                                                                                                     どこで読んだのかは忘れたが、それを言った人は覚えている。元大阪市長橋下徹氏で、彼自身の体験に基づいて、国民投票なり市民投票なり住民投票なりについて、次のように言っていた。
票を投ずる人の三分の一はそれに賛成な人々。他の三分の一は反対の人々。
ただし、残りの三分の一は、提案されているテーマについての賛否ではなく、提案した人への好悪の感情で投票するのだ、と。至言、だと思う。〈中略〉          いずれにしても、「民意」こそが真の正当性を持つ、などという幻想からはいいかげんに卒業してはどうか。民主政-デモクラシーを守るためにも、なのです。  [97]    

「寄りそう」だけで解決するのか                        日本は今のところ、難民問題には直面していない。だが、外国人問題にも直面し始めている。だから日本人も、次のことは頭に叩きこんでおいたほうがよい。いずれ出てくる不都合な問題に対処しなければならなくなったときの、用心のためである。
第一に、生まれたときからの人種差別主義者はごくわずかで、多くの人は後になって人種差別主義者になるだということ。
第二は、外国人との共生の問題は、人道上の想いだけでは絶対に解決しないということ。
第三に、ならば経済上の理由で押し通せばとなりそうだが、それで行くと、日本は世界中から非難されることになる危険があること。
と言っても、子どもを産みたがらない日本人が多くなった以上、外国人の受け入れは絶対に必要なのだ。また、ボーッとしてしている人が多い日本人に少しばかりの緊張感を与えるにも、外国人という異分子との日々の接触は悪くない。
しかし、外国人問題はこうも複雑なのである。かわいそうな人々なのだから寄りそってあげなければ、なんて想いでは絶対に解決しない。二十一世紀前半の先進諸国が突きつけられている難問中の難問であり、一歩まちがっただけで政権与党の支持率が半減するほどの起爆力を持つ。この現象はすでに、ヨーロッパでは起こっているのである。[99] 

ノートルダム」哀歌                             新しい作品を産むのに欠かせない刺激、何かを作り出す方向に追い立てる力とはしばしば、古いからと人々から放置されていたものを眼にして始めてわきあがってくるものだ。人間とは、データを集めればわかる、という程度のヤワな存在ではない。 [110]

今の私の心配は、イスラムの過激派のテロや内戦で混迷の極にある、中東の北アフリカに残る人類の文化遺産である。彼らはこれらを、人類の文化遺産とは思っていない。 彼らにしてみれば邪教の宗教だから、破壊は信仰の証しでしかないのである。[112]                      

レオナルド没後五百年                               卒論を書いていた当時から消えないのが、世の中には天才と秀才と一般の人々しか存在しないという想いである。能力の差ではない。能力の質のちがいにすぎないのだ。
天才とは、彼自身では明確に意識していなくても明確な成果を後世に残せる人。
秀才は、天災の業績を理解しそれを一般の人に解説することが、自分にはできると信じている人。
一般人とは私の息子のように、レオナルドの作品を見たりベッリーニ作のオペラ『ノルマ』を聴いたりすれば、やっぱりいいね、とは言う素直な人々。私もその一人。  [115] 

レオナルド没後五百年の記念番組でしゃべりまくる識者たちを見ていて考えた。レオナルド・ダ・ヴィンチ「鏡」ではないかと。彼を解明するというより、この天才を論評する人の品位、と言うか姿勢、のほうを映し出しているのではないかと。
いや、もしかしたら、天才でなくても論評される側にまわってしまった人の全員が、論評する側を映す「鏡」になるのではないか。
そう考えたら、自説を主張して飽きないいわゆる有識者たちも、楽しく眺められるようになった。  [117]

夏のローマで思うこと 
迷走は今や世界中の現象らしいが、それへの論評の中に、現代ではリーダーも人材もいず、いても小粒になった、というのがあった。
ほんとうにそうだろうか。誕生から死までという一国の通史を書いた経験から言うと、その歴史のすべてを通して、リーダーに成りうる人材は常にいたのだ。
ただ、歴史も人間に似て、国民が元気である時代と元気でなくなった時代にちがいはある。言い換えれば、興隆期と衰退期。そして才能をもった人材も、興隆期だと活用され、衰退期に生まれてしまうと活用されないから、持っていた力も発揮できなかったにすぎない。これらの活用されなかった人材を書いているときほど、悲しい想いになったことはなかった。
私は、わが祖国の日本に対してはとくに、悲しい想いだけはしたくないのだ。〈中略〉  昔は、リーダーも人材も大粒だったと言うけれど、昔は、「粒」の大小にかかわらず何もなかったから、あるものを活用するしかなかったのである。その結果、社会全体がオープンになり活気もあったのだった。その時代に仕事ができた人は、私もふくめて運が良かったからにすぎない。この種の幸運を、何でもあるかのように見える今に再興するのも、年長世代の責務ではないかと思っている。[122]

悪法と善法の別れ道 

差別意識の完全な撤廃などは、机上の空論だとも思っている。差別の感情は、誰もが持っているのだ。自信のある人はそれが少なく、自信のない人は多いというだけ。なぜなら人間には、他社と差別することでようやく自分の存在理由を確認した気になる人のほうが多いからである。[127]

最も簡単で実現性も高い大前提をわれわれ全員で認めてはどうだろう。
それは、首相の任命責任はいっさい問わないと、与党内も野党もマスコミも一緒になって決めるのだ。まずもって、大臣に任命された若者や女は、経験量では劣っても子供ではない。立派に大人である。首相がその人を大臣にした理由とは、その人に能力を発揮するチャンスを与えたことであり、それを活かせるかどうかはその人しだいであるのは当たり前の話。
任命者が任命責任を追及されるのを怖れていては、新しい人材の登用などはできることではない。
要するに、政界にかぎらずどの世界でも、抜擢した側の責任は問わない、と認めることなのだ。そうなれば首相も、大臣を務める資格無しと判断すれば、その人を更迭し、別の人に代えることも容易になるだろう。ただし、これには重要な付帯条件がつく。
それは、敗者復活システムも必ず併用することである。このこともまた、人間心理に基づくとともに、共同体の理念にもつながってくるがゆえに重要なのだ。
一度失敗しようものなら二度とチャンスは訪れない、と思うようになっては、誰が新しいことに挑戦する気になるでしょうか。 [141]

 

ラストまで引用し尽くしたい気持ちを抑え、中間点前でブレーキを踏む。

残りの"叡智"は、ぜひとも自力で見つけ出していただきたい。

 

以上、抽出した文章の断片を読み返すだけで、心が揺さぶられてしまった。

ひょっとして、この高揚感も「宗教」と呼ぶべきか。

 

ではでは、またね。