第一章 斑鳩の里 1 法隆寺 対談 大野玄妙(法隆寺管長)✖小川三夫
伽藍で感じ取れるもの
小川 千三百年建物が建ち続けている。いろんな修理があって建っているんですけど、建ち続けている。そのエネルギーとか、木の強さとかいろんなものが、ここでしか味わえないものがある。中門を入ったら、ただ知識で見たり確認するんじゃなくて、中門の柱を抱いて、木の不思議さ、強さを感じ取ってほしいと思いますよね。
修学旅行生が来て見ますけれど、「この柱はエンタシスです。この仏さんはにこやかに笑ってるのが特徴です」とか、そんなのは先生が修学旅行にくる前に教えていることでしょう。それを確かめにきてるようなもんだ。そうなってしまうと、感じ取れないことが沢山あるんです。
だからここへ来て、素直に見て、素直に触れてもらう。千三百年という長い長い時間は、ここにしかないんですから。それを味わってほしい。そして創ったときのエネルギーを感じてもらえば、何か違う力が出るんじゃないかなと思うようなところですよね、ここは。[27]
五重塔 法隆寺の建物は基本的には全てヒノキです。ヒノキは日本特産の木で、この木があったから古代の建造物ができたといえます。
ヒノキは楔-くさびを打てば真っ直ぐに割れて、強く、粘りがあり、木の肌が美しい針葉樹です。朝鮮半島や中国から建造物の技術が伝わってきましたが、日本には早くからヒノキを使った木の文化というのがありました。それがあったから新しい技術が入ってきたときに、それらの方法を応用して建物を建てました。それが千年以上持っている。これはヒノキの使い方や、生かし方をよく知っていたからです。
ヒノキは伐り倒してから二百年ぐらいは強さが増し、それから段々弱まっていくという不思議な強さを持った木です。ほんのりと赤みがあり、脂も多く、香りもいい木です。建物の修理で、千年前の古材を削りますと、艶を保った木肌が現われ、年代に耐えたいい香りがします。木が材になってもその性質を残して、生きてるんです。[37]
安定感をもたらす逓減率 法隆寺の五重塔は逓減率が〇・五です。つまり、五重目が初重の半分になるように造られてます。それが安定感の秘密です。しかし、みなさんが塔をご覧になるときにはこうした数字にとらわれず、自分の感覚で美しさやリズムを感じてもらえばいいですね。柱の太さや形、組み物の姿、軒の深さや反り、塔の立っている背景でもみな違って見えますから。大工はそういうことを計算に入れて造っているはずです。ですから数字だけでものを考えると、それに縛られて、目や感覚が曇ってしまいます。それでは真の美しさはわかりません。素直な目で見ることです。[44]
深い軒 法隆寺の五重塔も金堂も軒が深い。この軒の深さが美しさをつくりだしています。軒を深く出し、反りを持たせることで、軽く見えます。スッと鳥がはばたくような感じでしょう。これが日本の軒の反りなのです。翼を広げたような軒の曲線。微妙な反りが生み出す、軽やかさ。実に美しいものです。現代の日本の家屋から失われてしまった美です。[47]
軒を深くするというのは日本独特のものです。建築技術を教えてくれた大陸にも朝鮮半島にもこういう深い軒の建物はありませんでした。雨の多い日本で建物を守るためにどうしたらいいか、考えた末に、軒を長くしようと考えたんでしょう。
しかし、これは頭で考えるほど簡単じゃないんです。長く出せば、その上に瓦が載っていますから、それを支える工夫をしなくてはならないんです。 [48]
千三百年前の材が六五パーセント 法隆寺の材料は今でも六五パーセントぐらいが創建当時のものです。飛鳥時代の木をそのまま使っているんです。
屋根を支える材料は、風雨に曝されるからなかなか残らないものです。
よく残るっていうのは柱類です。柱とか、斗とか、軒の内側に入っているものは風雨が避けられるので長く持っています。[61]
2 法輪寺-ほうりんじ 宙に浮いている芯柱
驚かれるかもしれませんが、心柱の底は心礎にはくっついていません。宙に浮いている状態です。建造中はそうはいかないから下にパッキンをおいて作業をしたんですが、出来上がったらパッキンを外しました。心柱は塔の上から吊り下げられた状態で、底に手が入るぐらいに浮かしてあるんです。[69]
塔は動く 塔の場合は各層井桁に木を使うという話はしました。しかし木には癖があります。育った環境から来る癖です。一年中同じ方向から風を受けていれば、それに対抗して真っ直ぐに立っていようと木は頑張りますから、そういう癖が出ます。
また木には日が当たる側、日の当たらない側があります。斜面に立つ場合はその根の張り方からも癖が出ます。それは製材したり、柱や板になった後にも出てきます。
ですから井桁に組むときもその癖をうまく生かさなければ、塔は持ちません。[76]
礎石建ちといいます。石の上にぽーんと立っているだけなんです。
それまでの日本の建物は掘っ立てだったんですね。穴を掘って柱を埋めて建物を建てたわけです。それでは柱の根元が腐ることがわかっていました。
ですから石を置いて、その石の上にポンと柱を載せることを考えました。これを一番先にした大工はものすごい勇気のあった人だと思います。
心配ですよね。ポーンとその上に立てるだけですから。
しかしこれはコンクリートの真っ平らな土台の上に立てるよりずっと丈夫なんです。その通りに柱の底を彫るのです。ですからぴたっと乗せたらもう動かないんです。
この仕事を「石口拾い」といいます。石のデコボコを木のほうに移すわけです。[81]
この礎石建ちを考えた人は、建物の重さが柱の底にかかると動かないということを知っていたんですね。しかし地震があったときは動くんですよ。建物は崩れないけどコトコトと歩いたという例があります。
法輪寺でも、法隆寺でも、柱の根元を見てもらえばわかりますが、石から柱が生えているように見えるでしょう。ピチッと一分の隙もないはずです。
上の荷重がかかっても柱の底に割れも入らなければ、ブサブサも出てこない。
そういう技術です。柱を見たら胴張りや上の組み物だけではなく、こうしたところも見て欲しいものです。[84]
3 法起寺-ほうきじ 日本現存最古の三重塔
一九七二年には三重塔の解体修理が行なわれた。この党は現存する中で最古の三重塔として、国宝に指定されている。[85]
田園風景の中に三重塔が佇む風情が、斑鳩の里らしさを感じさせるとして人気がある。
第二章 西ノ京周辺 4 薬師寺-やくしじ
対談 山田法胤(薬師寺管主)×小川三夫 裳階-もこしの美しさ
山田 三重塔の特徴は裳階ですね。裳階をつけることによって、品の良さが出ています。あれがあることでもう何倍と違うほど、品がよろしいですな。
小川 あの裳階があるから素晴らしくいいんで、裳階をとってしまうと、か弱い建物なんですよ。[103]
山田 裳階は樽でいうたらタガだと、西岡棟梁は言っておられました。要するに樽をつくるとき、タガをちゃんと三段入れますね。そのタガですよ。だから塔ががちっとしている。
小川 裳階のタガがなかったらば、もうだめですよ。ぐらぐらでしょうね。
山田 それを、美を感じるタガにしたところがすごいということやと思います。[106]
二つの塔の意味
山田 いま奈良と京都の寺で何がいちばん違うかというと、奈良の寺は、お葬式をしないんですよ。お墓を持たないんです。檀家がない。これをずーっと、奈良時代の天武、持統、聖武天皇、その頃の行き方を千何百年守ってきた。
そこに奈良のお寺の意味があると思うんです。[110]
山田 瑠璃光浄土というのは、現世そのものが浄土になるようにするということです。
小川 そのためには、病なり苦しみを取ってあげる作業をしましょうと。
山田 それは一部です。病気とか、肉体だけのことを思う人が多いですな。
だから薬壺-やっこを持つお薬師さんなんて、あまり良くないんです。
法隆寺のお薬師さんでも、薬師寺のお薬師さんでも、薬壺なんか持っていません。持つとね、その薬壺のなかには、粉薬か丸薬が入っている。そうすると、丸薬を飲むことによって病気が治るとか、こう思うわけですね。
本来は薬壺も何もなしで、病や苦しみを癒し、瑠璃の世界を与えるというふうに、人間の心を癒してくださるという、そういう印を与願印といい、左手が願を与えて下さるという仏さんなんです。
小川 症状を治すわけじゃないという。
山田 そうです。お経のなかにも、「身心安楽」と書いてありますよ。体と心とを安らかに楽しくする。これが薬師寺の眼目やと思います。[110]
遷都が遺したもの
山田 京都の文化は統一されてるところがあるんですね。彫刻にしても、花鳥風月の絵にしても。奈良にはそういう統一性はないです。東大寺は東大寺、法隆寺は法隆寺、薬師寺は薬師寺。そのへんは非常に違いますね。
だから飛鳥文化や、白鳳文化って言いますけど、京都なんかは、鎌倉か、室町か、平安かって、わかりにくいですよ。江戸までずーっと一緒ですから。
京都と奈良のいちばんの違いは何ですかって言ったら、京都は鎖国してしまったのに対して、奈良は国際交流が盛んだったということですね。[118]
日本の文化の特性
小川 奈良の文化の基本は、各地から入ってきた文化の合流ですな。
山田 ほんとうにね、日本人というのは、中国やヨーロッパの文化が入ってきても、それを見事に消化して、向こうから伝わったものよりずっと良いものをつくるんですよ。
小川 やっぱり日本人の素晴らしさでしょうな。たとえば向こうから建築の文化が来たと。しかし法隆寺を造ったときでも、向こうの建物の真似ではないですよね。向こうの建物はどうしても雨が少ないから、軒が短い。しかし日本は雨が多いから、その気候風土に合わせた軒の深い建物。基壇を高く上げて、湿気から守ろうとする。そんなことは教えてもらってないんです。瓦をつくる技術は向こうの技術を学んだけれども、造り方は、日本の気候風土に合わした建物を一気に造ったと思います。
これは日本人が素晴らしい感覚を持っていて、絶対にサル真似じゃなかったと思います。ちゃんと咀嚼-そしゃくして、造り上げたと思う。それぐらいの人たちだから、奈良の都も出来たんだと思うんですよ。そういう匠というか、技術はわからなくても、土や石、草木、といった素材にものすごく慣れ親しんだ人がいたから、やっているうちにすぐにヒントを得て出来たんでしょう。ものを動かすこともできたんだと思うんですな。本当にすごいと思いますよ。あれだけの石を動かして。
山田 応用力があったんですね。
小川 創意工夫もありますしね。 [119]
折り返し点の少し前まで紹介した。
日本一の宮大工・西岡常一唯一の弟子ならではの深くて楽しい語りが続く。
もっと&通して読みたい人は、「元本」をゲットされたし。
ではでは。またね。