人は、自分が信じたいことしか信じないし
自分が見たいものしか見ようとしない。
ユリウス・カエサルが残したと言われるこの名言を
これまで幾度繰り返してきたことか。
そして、そのたび、心の裡では「でも俺は違うもんね~」と嘯いてきただろうか。
本書を読み終え、溜め息とともに閉じたとき
そんな身勝手な思い込みは、木っ端みじんに打ち砕かれてしまった。
なにしろ、初代UWF旗揚げ以来、新生UWFなどの会場へと何度も足を運び。
"これこそ正真正銘の真剣勝負だ!"と熱狂した「ドシロート」の1人だったのだから。
もちろん、上記の団体がブームを知りすぼませ
代わってUFCなど、文句のつけようのないリアルファイトが席巻するに従い
ひょっとして、あの"死闘"も出来レースだったのでは・・
などという疑問が脳裡に浮上してくるときが、幾度もあった。
それでも、あえて真相を追究せず、風化するままに放置していた
〔若き日の思い出〕が、本書によって、完膚なきまでに覆されたのは
苦々しいどころか、いっそ清々しい体験であった。
まず本書では、ごく一部の「異種格闘技戦(Byアントニオ猪木)」以外の試合は
すべて試合前に結果が決まっていた、"出来レース"だったことを明確に語る。
しかしその一方で、藤原喜明に象徴される寝技(関節技)の数々と
彼がリードしていた練習(スパーリング)は、間違いなく真剣勝負であり
事実、若手レスラーたちは、リングデビューする際、初めて自分の属するプロレス界が
「結末の決められたショー」であることを明かされるのだった。
プロレスは、あらかじめ結末の決められたショーであり、卍固めや4の字固めはもちろん、ボディプレスでさえ相手が自ら体重移動を行って協力しなければ決して持ち上げることはできない。ふたりのレスラーは、一致協力して美しい技を作り上げているのだ。攻撃する側は、相手にケガをさせないよう急所を外して殴り、蹴り、投げる。あらゆる技は派手で、それでいて相手に与えるダメージが少なく、何よりも観客にとってわかりやすくなければならない。時には「行くぞ!」と観客にアピールすることも必要だ。 一方、攻撃を受ける側は、決して避けることなく殴られ、胸を出して蹴られ、体重移動をして相手の投げに協力する。痛いのはお互いさまだ。〈中略〉 勝敗も試合時間も、フィニッシュ・ホールドもあらかじめ決めておく。 場外乱闘も反則も流血もリングアウトも、レフェリーが悪役レスラーの凶器を見つけられないのも、すべては観客を興奮させるための演出なのだ。53-4p
もちろん、純粋に"強さ"目指してきた若者(若手プロレスラー)の誰もが
この突然の"ネタバラシ"に納得できるわけではない。
とはいえ名声も実力もない若者に、なにができるだろうか。
普通の人間ならば、諦めてショーを演じ続けるか、絶望して去るところだ。 しかし、佐山聡は普通の人間ではなく、第三の道を選んだ。 リング上で行なわれているプロレスはショー以外の何物でもない。 では、道場で行なわれているスパーリングはどうか。カール・ゴッチからアントニオ猪木、木戸修、藤原喜明らに伝わった関節技もまた、卍固めや4の字固めのようにお互いの協力がなけば決して極まらないショー向けの技なのだろうか? そんなとはあり得ない。 関節技が本物の技であることは、自分の身体の痛みが知っている。 ならば、関節技を生かした新たな格闘技を作り上げよう。つくりもののプロレスを、すべて本物に変えてしまおう。 それこそが、18歳の佐山聡が歩み出した第三の道だった。54-5p
長々と引用してまったが、要するに本書は
"ショー・プロレス"に背を向けた佐山聡が構想し、作り出した"総合格闘技"こそ
現在のUFCやバーリ・トゥードなど、世界的な「リアルファイト」の先駆けだった。
ーーこの〈歴史の真相〉を明らかにしたものである。
とはいえ、既得権者が新興勢力の台頭を目の仇にするように
佐山の"理想"は、現実(金銭問題やプロレスの論理)によって片っ端から潰される。
元々は親日プロの内紛によって生まれた鬼子・UWFに誘われ
総合格闘技(真剣勝負)への道を目指したものの
リング上で実現できたのは、リングローブに飛ばない、場外乱闘は禁止、
キックとサブミッションが攻撃のメイン・・という程度の"反プロレス色"のみ。
一瞬で決まるはずのサブミッションが掛かると、悲鳴を上げてロープに逃げたり
「ノールールマッチ」と銘打った試合でチョークにせき込み、のたうち回る選手を、
相手は回復するまでじっと待っていたり。
そんな、真剣勝負だったら"有り得ない見せ場"をきっちりかっちり確保した
〈観客=シロートに分かりやすい試合)を、演出してみせたのだ。
「UWFが真剣勝負の格闘技ではなかったことは、いまとなってみれば明らか。でも、30年前の僕にはわからなかった」 現在の夢枕獏が、1984年のUWFについて率直に語ってくれた。 「初めて見るものだったから、冷静に判断することができなかった。ぼくは本物の蹴り、ムエタイのキックも知っているけれど、佐山(聡)の蹴りはそれに近いものだったし。僕のようにアントニオ猪木の熱烈なファンだった人間は、真剣勝負のプロレスが見たいという願望を強く抱えていた。そんな僕たちの前に『ほら、ほしいのはこれでしょ?)と差し出されたのがUWF。そりゃあ飛びつきますよね(笑)〈中略〉 おかしいな、と感じたこともあったけど、真剣勝負であってほしいという自分の中の願望、ファンタジーを求める心が勝った。184-5p
その後も、佐山が主張する「シューティング・ルール」(真剣勝負)は
選手へのダメージが大きく試合数を増やすことができない=収益が出ない。
スポンサー関係のトラブルなどフロント側との諍いによって行き詰り、空中分解。
新日本プロレスへの"出戻り"を挟んで、再び「新生UWF」を旗揚げ。
佐山が作ったシューティング・ルールをものをほぼ採用し、試合間隔も1か月1試合。
レスラー全員が佐山の考案したレガースとシューズに身をつけていた。
「佐山の思想を前田がパクリ、簒奪したということ」と、作家の亀和田武は断言する。「前田も、自分が何をやっているかはどこかでわかっていたでしょう。少しあとの話ですが、新生UWFはハードカバーのルールブックを作って売り、ファンは争って買った。借り物の思想をきれいにパッケージして大儲けする。まさしくニューアカ(ニュー・アカデミズム)の時代にふさわしい出来事でしたね」(亀和田武)286p
新生UWFは一大格闘技ブームを巻き起こすが、しょせんは"うわべだけの真剣勝負"。
ホンモノの真剣勝負につきものの緊迫感は望むべくもなく、平凡な試合が続く。
格闘技ライターで、ブラジリアン柔術黒帯の堀内勇は、当時中学3年生の熱烈なプロレスファンであり、新生UWFの旗揚げ戦を複雑な思いで見た。〈中略〉 「心の中では、UWFの試合は面白くないと思っているんです。でも、世間では『UWFこそが本物!』と言われているし、『週刊プロレス』もそう書いている。 『UWFのプロレスがわからないとダメだ』という強迫観念が、僕の中にはありました。たとえば、ゴダールやトリュフォーの映画を見て『わからない』とは言えないじゃないですか。言えば自分がわかっていないことがバレてしまうからです。〈中略〉 UWFでは胸は蹴っても顔は蹴らない。ちょっとおかしいな、とは最初から感じていました。でもそこには目をつぶる。自分の気持ちを抑圧していたんです」302-3p
ここまで切実な想いではなかったものの、同じような違和感を抱いていた。
それでも、矛盾点や真剣勝負らしからぬシーンを無意識に排除し
自分にとって気持ちいい場面ばかりを再編集し
「これこそリアルファイトだ!と」、己に言い聞かせていたような気がする。
それほど、"思い込み"なるものは強烈であり
自力で気づかない限り、際限なく過ちを再生産し続けてゆくものだ。
ここで、いきなり話が飛んでしまうが・・
おそらく、現在プーチンを熱狂的に支持するロシア国民も
今なおトランプがアメリカを救うと信じてを疑わないキリスト教原理主義者たちも
自分が信じたい"真実"のみを信じ、自分が見たい"光景"ばかりを繋ぎ合わせた
心地よいストーリーに酔い痴れているのだろう。
そして、この〔夢〕から醒めたとき、きっとこう言って怒り狂うのだ。
俺は、私は、騙された!! こっちこそ被害者だ!!! と。
・・おおっと。
とんでもない方角に話が飛んで行ってしまった。
なんか、元に戻すのもしんどそうだから、あとひとつだけ。
パンクラスの旗揚げ戦も、見に行った。
本書にあるとおり、すべてが台本なしの真剣勝負だった。
そもそもメインで船木が負けたし。
「秒殺」という言葉が流行するほど、短時間で決着がつく試合が多く
確かにこれはリアルファイトだ、と納得できる内容だった。
だけど、全試合を見終わったとき。
ーーーもう、いいかな。
と、思ってしまったのだ。
実際、この大会を最後に、格闘技の試合を生で観ることはなくなった。
どうしてなのだろう?
さんざっばら偉そうなことを書いてきたけど
結局うたたが求めていたのは、100%のリアルファイトではなく
どこまでが"作り物"で、どこからが"真剣勝負"なのか
戦う者同士でもどうなるか分からない、融通無碍の世界だったのかもしれない。
・・・なんちゃって。
ではでは、またね。