祈るな!!
祈れば手が塞がる!!
てめェが握ってるそれは何だ⁉
「ベルセルク断罪篇 生誕祭の章 共鳴」(第21巻)より
いきなりジャンル違いの作品を引用してしまったけれど
"神に祈れば救われる"といった無邪気な信仰心に
強烈なNo!を叩きつける意志において
上記のファンタジー・コミックと本作は、同質の光を放っている。
もちろん本作は、ファンタジーでもコミックでもない。
時代小説だ。
それも、1300年近くも昔の天平時代。
東大寺の大仏造営事業を舞台とした、いわゆる「古代史もの」である。
相次ぐ社会不安を仏法の力で解消すべく始まった大仏造営だが
全国各地から半強制的に集められた男たちは、命懸けの労役に疲弊するばかり。
お上が唱える「仏の加護」も、半信半疑のまま。
そんな彼らにとって唯一の"救い"は
炊屋/食堂の炊男/調理人・宮麻呂(みやまろ)が提供する旨い料理だった。
やがて苛酷な大仏造りの途上で、次々と事件や揉め事が発生する。
それを炊男の宮麻呂が鮮やかに解決していく・・というストーリー、なのだが。
とにかくこの宮麻呂なる男が、謎の人物であり
物語が進むにつれ、徐々に明かされる彼の〈正体〉こそ本作の主題である。
そして、この謎の男・宮麻呂が発する言葉から
ガッツのそれと相通じる"信念"が、色濃く漂ってくるのだ。
たとえば、大仏造りの仕丁/下働きとして召集された若者・真楯(またて)と
宮麻呂とやりとりに、次のようなくだりがある。
「のう、真楯。おぬし、仕丁の務めは何か、知っておるか」 「大仏を――廬舎那仏を造り上げることではないんですか」 真舘の答えに、宮麻呂は莫迦な、と小さく吐き捨てた。 「気真面目にも、そんなことを考えておったのか。よいか、よく覚えておけ。仕丁の務めはただ一つ、労役を終えて、無事に生きて郷里に帰ることじゃ」 (216p〕
"仏に心を寄せる者たちへの冒瀆ではないか"との非難には、こう切り返す。
「ふん、巨仏を造って世が治まるのであれば、小刀良〔※仕丁のひとり〕の妻子は何故、病に倒れねばならんのじゃ。所詮、人を救うのは人のみじゃ」 〔217p〕
だが、「大仏など木偶にすぎぬ」「人を救うのは人のみじゃ」と毒づき
「この世におるかおらぬか分からぬ仏が、わしらを救ってくれるわけがあるまい。わしら庶人は、あの大仏のために汗水垂らして作事場を這い回り、虫けらの如く死んでいくのよ」
と言い捨てつつも、彼は"木偶造り"すべてを否定しているわけではなかった。
「されどあの巨仏は、わしらがくたばった後も、幾百、いや幾千年もの長きにわたってこの地に残り、貴賤の者より礼拝(らいはい)を受けよう。おぬしらは上(かみ)つ方々(かたがた)のために大仏を造っておるのではない。後の世に生きる者たちのため、自らの身を削って仏に変えておるのじゃッ」 〔324-5p〕
ならば、「真-まことの仏」とは、いったい何を指しているのか・・
本作の末尾で示される、〈答え〉を「キレイゴト」と嘲笑うのはたやすいだろう。
それでも、"一切を投げうち一心に祈れば(=すがれば〉願いは叶う"
といった〈神を仰ぎ人を見下す教え〉などより、遥かに強く胸を打つのだ。
きっとそれは、冒頭に登場していただいた戦士・ガッツの心にも
響いてくれるに違いない。
ではでは、またね。