「コロナ」「アフガン」「大谷」越えの大事件!? 本日の"なんだかなぁ"

ほんの30分前までは

こんなに「デルタ株」が大流行しても

依然として減り続けている「日本国内の死者数」のこととか

もしもマスードが暗殺されていなければ

アフガニスタンはもっとタリバンに対抗できたはずだとか。

テレビのコメンテーターばりの”上から目線“で

偉そうな能書きをダラダラ垂れ流していただろう。

 

けれども、ひとつのアクシデントが、全部ひっくり返してくれた。

 

本ブログを書く前に淹れた、ミルク入りコーヒー。

それがなみなみと入った、大きなマグカップが。

ライティングデスクの上で、コロンと倒れ

ほぼ全部、床にぶちまけたのだ。

 

いったいなぜ

こんな初歩的なミスを犯してしまったのだろうか?

 

事実は、こうだ。

1階のキッチンで用(夕飯づくり)を済ませ

今日は何を書こうかと考えながら、ミルクコーヒーを作り

それを手に、2階の自室へと上がった。

ベランダに面したサッシは、大きく開け放たれていた。

換気のため、エアコンを切っていたのだ。

そのため、マグカップを片手に真っ暗な部屋へと戻ったとき

明かりをつけると、外から丸見えになる状態だった。

だから、月明りを頼りにライティングデスクに歩み寄り

前もって設置しておいたトレーの上に、そっと置き

ベランダに面したカーテンを閉めてから、入口に戻り部屋の照明スイッチを入れた。

・・毎日(毎夕)行なっているのと、ほとんど変わらぬ、一連の動作である。

 

しかし、明かりに照らされたデスク前にとって返すと

そこには、横倒しになったマグカップ

床にできた巨大なミルクコーヒーの海が、見事に完成していたのだ。

(MP3プレーヤーが発信する音楽をワイヤレスヘッドホンで聞いていたため

 倒れる時の音は聞こえなかった) 

 

一瞬、呆然としたのち

いつの間にか出現したムカデに向けるようなザワザワした気分で

倒れたマグカップが、本来なら無事に着地していたはずのトレー上を眺めやる。

すると、そこに「犯人」がいた。

メモ帳代わりに使っている、正方形のポストイットの束(ブロック)。

なんのことはない。

こいつの上に置いたことで、マグカップのバランスが崩れ、倒れたわけだ。

 

それにしても、なぜ、そんな「障害物」をセッティングしたのか?

理由は――、風だ。

窓のサッシを全開した時、そよ風が吹き込んできた。

そこで、トレー上の紙(ランチョンシート)が飛ばされるかも・・

と心配して、"重石代わり"にポンと設置したのである。

 

ではなぜ、わざわざそんなヤバいポイントにマグカップを置いたのか?

理由は、単純。

トレーの上に"障害物"があることを確認せず

「記憶」だけを頼りに行動してしまったからだ。

 

恥ずかしながら、年々、短期記憶が怪しくなっている。

そのため、ルーティン行動である「トレイのセッティング」は、覚えていた半面。

ふと思いついて置いた"重石"の存在は、きれいさっぱり忘れていたのだ。

まったく、いつまでたっても〈気持ち〉は変わらないのに

〈体力や記憶・認識力〉は着実に衰え続けている。困ったもんだよ。

 

★総ての中高年に捧げる教訓★

「記憶」に頼るな。

ひとつひとつのことを、必ず「確認」しよう!

 

これだけだと、単なる失敗談だが

もう少し"続き"がある。

 

フローリングの床に敷いたラグ(敷物)の上に盛大にぶちまけられ

かぐわしいミルクコーヒーの香りを立ち昇らせている、"災害現場"について。

少しでも水分を吸い取ろうと古新聞を重ね、足で踏んで脱水作業に勤しむ。

よく見ると、ぶちまけられた方向が良かったのか

床に積み上げた本の山に、ほとんどコーヒーのしぶきはかかっていなかった。

もし90度ほど左方向に〈発射〉していたら

入手したばかりの新刊書籍の束が、全滅していたところだ。

・・悪運、強し!

 

おまけに、びしょ濡れのラグを乾かそうと

十数年ぶりにめくり上げ、フローリングとの間をチェックしてみると・・

椅子の足(?)が何度も行ったり来たりしたせいか

その周辺だけ、ボロボロにささくれ立ってることを発見した。

自慢じゃないが、もし今回の「事件」がなかったら

なにも気づかぬまま、ある日突然床が抜けた!!

・・なんて、笑い話のような惨劇に遭っていたかもしれない。

さっそく新しいラグに買い替え、フローリングも可能な限り修復しよう。

まさに、人間万事塞翁が馬!――なのだった。

 

★総ての中高年に捧げる教訓・その2★

敷きっぱなしの「ラグ」や「絨毯」は、ときどきめくって確認しよう。

予想もしなかった"悲惨な状況"になっている、かも・・。

 

個人的なアクシデントについて、長々と書いてしまったけど

今回最も痛感したのは、冒頭の数行にまつわる事実だ。

 

どれほど切実かつ深刻な社会問題が存在しようと

個人個人にとっては、身近で起きたささやかなアクシデントの方が

比較にならないくらい「重大な事件」だ、ということ。

実際、歯が痛かったりしたら、他のことを気遣う余裕なんか持てないもんな。

満ち足りてこその、〈同情〉であり〈援助〉。

しょせん人間は、その程度の存在だという事実を、忘れたくない。

――やっぱ"能書きエンド"じゃん。

 

ではでは、またね。